お彼岸に南無阿弥陀仏…なぜあの場所に東本願寺があるのか!? 興味深い説をお聞きしました

今日はお手次ぎ寺(おてつぎでら)のご住職が家に来られてお彼岸のお勤めをしました。

ボクが最近読んでいる上念司さんの「経済で読み解く織田信長」(KKベストセラーズ)の書籍の中で、蓮如さんがどのように浄土真宗を再興したのかを経済学的な視点から明らかにした視点が面白かったという感想を申し上げたら、まぁお寺さんの方も語るわ語る。

スポンサーリンク

話は顕如、教如へと時代が下り、東西本願寺の分裂のお話に話題が移っていきました。

織田信長と本願寺教団による石山合戦が終わって本願寺が降伏すると、現在の大阪城に存在していた本願寺はこの地を追い出されます。豊臣秀吉が本願寺に対して現在の西本願寺の場所に土地を寄進した後に(天正19年(1591年))「石山合戦」を首謀した顕如が入滅すると、一時は長男の教如が本願寺を継承しましたが、教団内の対立によって顕如の三男の准如が本願寺を継承することになりました。

慶長3年(1598年)に豊臣秀吉が亡くなると、徳川家康はよしみを通じていた教如に慶長8年(1603年)に現在の東本願寺の地に土地を寄進しました。かなり端折りましたが、これが東西本願寺の分裂です。

ここで面白い話をしていただけました。

本願寺が西と東に分かれた理由について、一般的には徳川家康の本願寺の分断政策であると言われていますが、「教如は法主を退隠してからも各地の門徒へ名号本尊や消息(手紙)の配布といった法主としての活動を続けており、本願寺教団は関ヶ原の戦いよりも前から准如を法主とするグループと教如を法主とするグループに分裂していた。徳川家康の寺領寄進は本願寺を分裂させるためというより、元々分裂状態にあった本願寺教団の現状を追認したに過ぎない」(上場顕雄『教如上人-その生涯と事績-』東本願寺出版部)という真宗大谷派の学説も紹介していただけました(文章自体はWikipediaより引用)。つまり、別の見方をすれば教団の対立を追認したことで西本願寺も東本願寺の宗政を安定させたとも言えるわけです。

また、東本願寺の土地を徳川家康が寄進した場所が豊臣方の2つのお寺(西本願寺と方広寺)の間にあって、両者を行き来させないように家康が教如に土地を寄進していたのではないかという学説が真宗大谷派の中で存在するというお話をお聞きしました。

ご住職さんが帰られてから地図で改めて確認したらなるほど!

西本願寺と東本願寺

西本願寺と方広寺の間に東本願寺がある

現在の東本願寺の地を徳川家康が寄進したのは豊臣方の動きを監視するためだということです。

先ほどの話を総合すると、教如は本願寺教団の弱体化から守るため、徳川家康は豊臣方を監視するために東本願寺が建立されたということなのだそうです。

今まで聞いたことのないお話がお聞きできて、大変うれしく思いました。

スポンサーリンク


お手次ぎ寺(おてつぎでら)のご住職はいつも丁寧に聞法してくださるので、自分の生き方を見直すよい機会を頂いております。

Follow me!

スペイン法入門講義

加代昌広研究所は、日本の制度に多く言及しながらスペイン法の基本を日本語で学べる稀有なコンテンツ「スペイン法入門講座」を提供しています。

このようなことが分かります!

  • 日本の天皇の皇位継承とスペインの国王の王位継承とはどのように違うか?

  • 日本とスペインの首班指名のプロセスにはどのような違いがあるのでしょうか?

  • 日本とスペインとで憲法に違反した法令や条約の審査の方法にはどのような違いがあるのでしょうか?

  • 日本とスペインとで地方自治制度にはどのような違いがあるのでしょうか?


ぜひ一度ご覧ください。