第3回 スペイン法を学ぶ前に… – スペインの歴史を大まかに知ろう!(その2・スペインの近世史)

最終更新日: 平成29年(西暦2017年)7月20日

はじめに

前回の講義では、クロマニョン人が作ったと言われているアルタミラ洞窟について言及するところからはじまり、イベリア半島におけるレコンキスタが終了したところまで解説をしました。

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今回はスペインが新大陸に進出してから、最初のスペイン憲法が成立する前ぐらいまでの歴史を取り上げます。「太陽の沈まない国」と呼ばれるまでに至ったスペインがどのように勢いを失い、没落への道をたどっていくのかを見ていこうと思います。

今回も、[立石博高,内村俊太「スペインの歴史を知るための50章 (エリア・スタディーズ)」(明石書店)2016年]を参考図書にしたいと思いますので、よりくわしくスペインの歴史を勉強してみたいという人は、この本を手に入れられるとよいかと思います。

カトリック両王の時代

カトリック両王による「スペイン」の統治の本質

この講義においても、便宜上「スペイン」という言葉を使ってきましたが、ここでカトリック両王が「スペイン」を統治していた時代の本質的な話をしておきたいと思います。

カトリック両王 (アラゴン連合王国のフェルナンド2世とカスティーリャ王国のイサベル)が婚姻関係になり、やがて彼らによってレコンキスタを終了させたといっても、現実には「スペイン統一」という概念はありませんでした。アラゴン連合王国やカスティーリャ王国が形式的には依然として「存在」しており、単に国のトップ同士の人的な結びつきがあったにすぎませんでした (例えば、署名はイサベルが先で、国家紋章はアラゴン連合王国が先というような取り決めがなされ、お互いの王国の制度等妥協をしながら交流を図っていたという)。確かに、異端審問所の設立(1480年)やユダヤ教徒追放令(1492年)は両国が統一的に行った政策ではありましたが、決して現代のような「スペイン」という統一国家が当時から存在していたわけではありませんでした。

カトリック両王にとっては孫にあたり (父君はハプスブルク家のフェリペ1世)、最盛期を誇った頃の名君と言われるカルロス1世 (在位: 1519年-1556年, 神聖ローマ帝国皇帝になってからは「カール5世」)の称号は「スペイン国王」だけではなく、

カール、神の恩寵による、神聖ローマ皇帝、永遠の尊厳者、ドイツ王、イタリア王、全スペインの王及びカスティーリャ王、アラゴン王、レオン王、ナバラ王、グレナダ王、トレド王、バレンシア王、ガリシア王、マヨルカ王、セビーリャ王、コルドバ王、ムルシア王、ハエン王、アルガルヴェ王、アルヘシラス王、ジブラルタル王、カナリア諸島の王、両シチリア及びサルデーニャ王、コルシカ王、エルサレム王、東インド、西インドの王、大洋と島々の君主、オーストリア大公、ブルゴーニュ公、ブラバント公、ロレーヌ公、シュタイアーマルク公、ケルンテン公、カルニオラ公、リンブルク公、ルクセンブルク公、ヘルダーラント公、アテネ公、ネオパトラス公、ヴュルテンベルク公、アルザス辺境伯、シュヴァーベン公、アストゥリアス公、カタルーニャ公(prince)、フランドル伯、ハプスブルク伯、チロル伯、ゴリツィア伯、バルセロナ伯、アルトワ伯、ブルゴーニュ自由伯、エノー伯、ホラント伯、ゼーラント伯、フェレット伯、キーブルク伯、ナミュール伯、ルシヨン伯、サルダーニャ伯、ズトフェン伯、神聖ローマ帝国の辺境伯、ブルガウ辺境伯、オリスターノ辺境伯、ゴチアーノ辺境伯、フリジア・ヴェンド・ポルデノーネ・バスク・モリン・サラン・トリポリ・メヘレンの領主

wikipediaより

というレコンキスタ時代にイベリア半島に存在した小国の名前もここに列挙されています。これは単に自分の支配下がこれだけ広大なものであるということを誇示したいという意思の表れという意味合いだけでなく、国内には法律が依然として各地方(レコンキスタ時代の小国毎)それぞれに存在しており、それらの連合王国を為政者が支配していることを意味しているのです。つまり、近世のスペインは、緩やかな連合王国であったということができるのです。

大航海時代におけるスペイン

前回の講義でも解説したとおり、西暦1492年にイベリア半島における最後のイスラム王朝であるナスル朝グラナダがスペイン軍に屈服し、イスラムがイベリア半島から消滅しました。スペインにおいてレコンキスタが完成したと言い換えてもよいでしょう。

さて、冷蔵庫のない時代において、食物をどのように保存するかは生活の死活問題でした。特に肉の腐敗を避けるための香辛料は重要なものでした。香辛料の産地はインド。ヨーロッパの国々は香辛料を求めるためにインドとの交易を如何に図るのかが課題でした。

ところが、当時は以下の商人がインドとの交易を独占している状態でした。

  • インドと西ヨーロッパを結ぶ紅海貿易ではエジプト(マムルーク朝)の商人
  • 地中海の東方貿易(レヴァント貿易)ではヴェネツィア商人が独占

さらに、オスマン帝国が台頭して東地中海を征服する勢いであったため、安定的かつ安価に香辛料を手に入れるためには、どうしてもインドとの直接交易を行うための新航路の開拓が必要だったのです。

スペインの一足先にレコンキスタが終了していたポルトガルは既にアフリカ最南端の喜望峰を回って(到達したのは1488年)インドとの航路を開拓している最中でした。

一方のスペインは、船を持っていたヴェネツィア商人のコロンブスが時のスペイン女王であったイサベル1世に謁見し、トスカネリの「地球球体説」を根拠にして大西洋をずっと西に行ってもインドに到達することができることを主張し、援助を取り付けました。結果として、コロンブスは新大陸(アメリカ大陸)にたどり着きました。

ポルトガルとスペインは、新航路開拓によってたどり着いた場所での争いが絶えなかったことから話し合いをし、「トルデシリャス条約 (Tratado de Tordesillas)」を西暦1494年に締結しました。これは、地球上に「デマルカシオン」という子午線を引っぱって、ヨーロッパ以外の新領土について、西経46度37分を境に東側はポルトガル領(主にアフリカとアジア)、西側はスペイン領(主に新大陸)として両国で世界を分けようというものでした。後にポルトガルは、新大陸の東側(現在のブラジル)が西経46度37分より東側に存在することを確認し、新大陸でありながらポルトガル領になりました。これはアジアからスペインの影響力を排除するという意味を持ちました。

この時点ではスペインは香辛料を手に入れていません。スペインは新大陸からさらに西を目指して、本当にインドに行き着くための航路を開拓します(実際に太平洋を渡り航路を開拓できたのはマゼラン率いるスペイン艦隊。これが世界初の世界一周である(1519年から1521年)この頃にはカトリック両王からカルロス1世に治世が代わっている。これを再現した船が建設され、日本にも訪れた)。しかしながら、スペインは新大陸においてスペインの発展にとって「重要なもの」を手に入れました。新大陸にはアステカ帝国とインカ帝国という2つの国が存在しましたが、スペインはこの2つの国を征服したのですが、インカ帝国南部において世界最大規模のポトシ銀山を発見し、ここで銀を手に入れたことです。スペインは先住民を奴隷にし、銀をヨーロッパに持ち込みます。そうすると、西ヨーロッパではたちまちインフレが起きます。すると、銀(貨幣)を持っている人は損をし、農作物はインフレで価格が上昇するので、農民は得をします。一方の東ヨーロッパにおいては、領主は農民に対して農作物で地代を徴収し、その農作物を物価の高い西ヨーロッパに売るので領主の懐は温かくなり、領主の権力が強まるという現象がみられるようになりました。

「宗教」的な統一を目指す

カトリック両王は、王朝の統一や領土的な統一だけでなく宗教的統一も目指していました。ここでいう「宗教」とは、カトリックのことを指します。

カトリック両王は、異端審問所を開設して、イベリア半島にいたユダヤ教徒やイスラム教徒に強制改宗か国外追放かの選択を迫ります。こうした政策によって、レコンキスタ時代においてイベリア半島における商工業の一端を担っていたユダヤ教徒やイスラム教徒は国外脱出をしました。

後のカルロス1世(カール5世)やフェリペ2世の治世になっても基本的にはこの姿勢は変わらず、他のヨーロッパで起こっていた宗教改革の動きに対抗する形でより強固なものとなり、外国からの書物の輸入を禁じたり、外国への留学も禁止され、科学技術の発展や近代思想の形成を長く妨げる結果となりました。

 『カスティーリャ語文法 (Gramática de la Lengua Castellana)』の出版について

中世のヨーロッパにおいて古典や聖書が書かれていたのはラテン語であり、ラテン語から派生した言語は卑しい俗語とみなされていました。そのような中で、ラテン語学者であったアントニオ・デ・ネブリーハが俗語にも文法があると考えて、カスティーリャ語の文法書を作りました。それによって、ラテン語にも負けない文法理論体系があることが明らかになったことから、スペイン王権下で非カスティーリャ語話者がカスティーリャ語を学ぶのに大いに役立つことになりました。こうして、カスティーリャ語がスペインにおける中心的な言語に成長していくきっかけになりました。

スペイン・ハプスブルク家(アブスブルゴ朝)の誕生

カルロス1世(カール5世)の時代

カトリック両王の娘のフアナは、代々神聖ローマ皇帝に選ばれていたハプスブルク(スペイン語発音: アブスブルゴ (Casa de Habsburgo))家に嫁いで男の子を産みました。その人の名前を「カルロス1世」と言いました。

スペイン・ハプスブルク家の誕生

1516年にカルロス1世がカスティーリャ王国とアラゴン連合王国の新王に即位し(スペイン・ハプスブルク王朝の始まり)、1519年にマクシミリアン1世が没すると、カルロスは神聖ローマ皇帝選挙に立候補し当選。皇帝としてはカール5世と名乗ります。スペイン王国は、ピレネー山脈を越えたヨーロッパの国際政治にも関与する存在になったことを意味します。

コルテスによりアステカを征服し、ピサロによってインカを征服し、それらを植民地化し、新大陸から莫大な銀を手に入れて大金持ちになった一方で、ヨーロッパの宗教問題でカール5世は悩まされます。世にいう「宗教改革」の動きです(1517年のルターによる「95か条の論題」という意見書がヴィッテンベルク大学付属教会の扉に提示された)。また、神聖ローマ帝国内が混乱していることに乗じてヴァロア朝フランスやオスマン帝国も動き出して神聖ローマ帝国は両国によって挟み撃ちにされたりして、カール5世はこれらの対応に苦慮しました。結局、神聖ローマ帝国内が分裂して宗派による対立をしている間にフランスやオスマン帝国を利するだけだということで、1555年にアウクスブルクの宗教和議を結び、領邦教会制を敷くことになりました。

フェリペ2世の時代

西暦1556年にカール5世(カルロス1世)は王位を弟と息子に継承しました。

スペイン・ハプスブルク家の系図

息子のフェリペ2世はスペイン王を、弟のフェルディナントは神聖ローマ帝国を継ぐことになりました。

スペイン王を引き継いだフェリペ2世の時代に、スペイン・ハプスブルク家は最盛期を迎えます。1580年に母親がポルトガル王女だったのでポルトガル王を兼ねることになった(ポルトガル併合)時点で、スペインは最大領土を保有することになりました。具体的には、インディアス(新大陸)、フィリピン、ネーデルラント、ミラノ公国、フランシュ=コンテ(以上カスティーリャ王国領)、サルデーニャ島、シチリア島、ナポリ王国(以上アラゴン連合王国領)、ブラジル、アフリカ大陸の南西部、インドの西海岸、マラッカ、ボルネオ島(以上ポルトガル王国領)です(wikipedia情報)。

広大な領土を統一するために、1561年にバリャドリードにあった首都をマドリードに移転し、マドリード郊外にエル・エスコリアル修道院を建て、ここでフェリペ2世は執務を行います。父親のカール5世は広大な領土内を動き回りながら政治を行ったのに対し、フェリペ2世はここに籠って政務に専念したことから別名「書類王」とも呼ばれています。1584年に天正遣欧使節をこの宮殿で歓待しています。なお、慶長遣欧使節団派遣については大変面白いエピソードがあるのですが、それは[黒田清彦「日西交流秘話―― Japón氏来名を機として――」南山大学ヨーロッパ研究センター報第10号pp. 1-11 (2004)]に譲りたいと思います。

 

フェリペ2世はカトリックによる国会統一を図ろうと考えていました。そのため、反カトリック勢力に対しては毅然とした態度を取りました。

1571年にスペインはローマ教皇やヴェネツィアと協力して地中海を支配していたオスマン艦隊を破ります。世に言う「レパントの海戦 (Batalla de Lepanto)」です。

ネーデルラントにおいて、フェリペ2世は宗教改革によって生まれたカルヴァン派に対して宗教弾圧を行いました。ネーデルラントはハプスブルク家領でした。宗教改革の流れで、勤勉だった北ネーデルラントの人々はカトリックからカルヴァン派への改宗が進みました。一方の南ネーデルラントの人々はカトリック教徒が多い状況でした。カルヴァン派が多い北ネーデルラントはスペインから独立するために動き出します。西暦1568年にいわゆるオランダ独立戦争が始まりました。結果として、北ネーデルラントを構成するホラント州を中心に「ユトレヒト条約」が結ばれてスペインから独立し、ネーデルラント連邦共和国が誕生しました。南ネーデルラントを構成する州はそのままスペイン領にとどまり、これが後のベルギーになります。

さて、このオランダ独立戦争に絡んできたのがイングランドでした。フェリペ2世はまだ王子だった頃に、イングランドのメアリー1世と政略結婚をします。メアリー1世は宗教改革の流れでカトリック教会から独立して設立されたイギリス国教会を廃止してカトリックを復活させました。これにフェリペ2世が喜んだわけです。あわよくばイングランド・ハプスブルク家の誕生か!?というところでしたが、メアリー1世は子どもを産まないまま病死してしまいました。この後、メアリー1世に嫌われていたエリザベス1世が女王に即位すると、イギリス国教会を再建してカトリックを禁止します。イングランドに野心を持っていたフェリペ2世はエリザベス1世に政略結婚を企てるも失敗し、次に女王の暗殺を企てました。一方のエリザベス1世は先に述べたオランダ独立戦争を支援し、スペインに対抗します。フェリペ2世はこれに激怒して無敵艦隊 (Grande y Felicísima Armada)をドーヴァー海峡に送り込みました。ところが世界最強の無敵艦隊は数で劣るイギリス海軍に敗れ(1588年「アマルダ海戦」)、制海権を失いました。

高校生の世界史の教科書にも出てくるこういった戦争は、フェリペ2世のカトリック信仰が由来して起こっているものだとも言えるのではないかと思います。

このように、スペインはフェリペ2世の時代に最大の領土を誇りました。しかし実際は、軍事費の増大、新大陸から流入した銀を使って産業を興さなかったり、本国以外の産業や植民地の資源に依存していたこともあって、スペインの勢力はこの時代を機に衰えていきます。

フェリペ2世以降のスペイン・ハプスブルク家

フェリペ2世の死後、息子のフェリペ3世 (在位: 1598年-1621年)、さらにその息子のフェリペ4世(在位: 1621年-1665年)へと治世が変わっていきます。

この頃になるとスペインの衰退が決定的になります。ポルトガル(1640年独立宣言、1668年リスボン条約により承認)やオランダは独立しました。国内問題としては、カタルーニャでは反乱を起こされてバルセロナの農民が副王の殺害に及び、スペイン国王からの離反を宣言し、フランスのルイ13世を国王にすることを宣言しました。また、ピレネー条約により領土の一部をフランスに割譲してしまいました。一方で、ディエゴ・ベラスケスやムリーリョなどの優秀な画家を輩出しました。時の国王であったフェリペ4世は彼らを保護し、プラド美術館 (Museo del Prado)の展示の基礎となりました。

1665年にフェリペ4世の息子、カルロス2世が即位をしました。カルロス2世は嫡子を設けなかったことがきっかけで、ヨーロッパを巻き込んだ大きな戦争が起こります。それが「スペイン王位継承戦争 (Guerra de Sucesión Española)」です。

スペイン王位継承戦争とブルボン・スペインの誕生

スペイン王位継承戦争

カルロス2世は、病弱で性的に不能で嫡子を設けることができませんでした。この頃、王の異母姉はフランス・ブルボン王朝のルイ14世(太陽王)に嫁ぎ、妹は神聖ローマ帝国皇帝のハプスブルク家のレオポルト1世に嫁いでいました。言葉だけでは分かりにくいので、下に家系図を示したのでご覧になって人物関係を確認してみましょう。

スペイン王位継承をめぐるブルボン家とハプスブルク家

そのカルロス2世が1700年に死亡したのですが、カルロス2世は次のような遺言を残していました。

ルイ14世の孫のアンジュー公フィリップ」を跡継ぎに指名する

この遺言を実行されると、スペインはフランス・ブルボン家のものになってしまいます。これは、北米(ルイジアナ植民地)やインド貿易などで対立していたイギリス、オランダあるいはオーストリアにとっては脅威になります。そこで、直ちに神聖ローマ帝国皇帝のレオポルト1世の子のカール大公を跡継ぎにすることを主張し、スペインの王位継承をめぐる戦争が勃発しました。

ブルボン家 ハプスブルク家
王位継承主張者 アンジュー公フィリップ (1700年にフェリペ5世として即位) カール大公 (1703年に即位)
国内問題 主体 カスティーリャ王国 アラゴン連合王国
主張 スペインの没落傾向に歯止めをかけるため、国王の絶対的権力と中央集権化政策を求めた。 親戚関係にあったオーストリア・ハプスブルク家から新国王を。あくまで既存の”緩やかな連合”を主張。
国際問題 主体 フランス 対仏連合
(イギリス/オランダ/神聖ローマ帝国/ポルトガル)
主張 スペイン王位をブルボン家に継承させることで、スペイン領土(無論、新大陸も含む)の獲得を目指す。 「新大陸」の大西洋貿易による富をフランスに独占させたくない!!
アラゴン連合王国に対しては、旧アラゴン王国の地域が以前より持っていた地域特権の擁護を約束。

 

全ヨーロッパの国々を敵に回したフランスは苦境に立たされました。北米ではアン女王戦争(1702年 – 1713年)によりイギリス軍に敗北しました。

それではイベリア半島におけるスペイン王位継承戦争の様子を見ていきましょう。カール大公は、徴兵や徴税についてフェリペ5世に不満を持っていた旧アラゴン連合王国(バレンシア、バルセロナ、アラゴン)を味方につけるために、旧来の特権と法を擁護することを約束しました。それを受けて旧アラゴン連合王国の地域はカール大公の味方になりました。旧アラゴン王国はバルセロナを占拠してフェリペ5世と戦います(第1次バルセロナ包囲戦)。フェリペ5世はフランスと協力してバルセロナを攻めますが、旧アラゴン王国は耐え抜きました(第2次バルセロナ包囲戦)。

ところが旧アラゴン連合王国の地域の人たちにとって大きな事件が起こります。西暦1711年にスペインの王位継承を主張していたカール大公が神聖ローマ帝国の皇帝に就任することが決定しました。それをカール大公を推していた対仏連合国は黙って見ていませんでした。なぜならば、もしもカール大公がスペイン王に即位すると、かつてのカルロス1世(カール5世)のようにスペインとドイツの王を両方兼務して強大な国家ができあがる可能性が生じるからです。そのため、対仏連合国も渋々フェリペ5世をスペイン王と認めざるを得なくなりました。そこで、講和条約を結び (1713年のユトレヒト条約・1714年ラシュタット条約)、彼らは戦争からは手を引いてしまいました。

ここで、条約の内容を簡単にまとめておきましょう。

  • スペインはブルボン家のフェリペ5世が王位継承する。但し、フランスとスペインの合併は禁止する。
  • フランスの北米植民地の一部をイギリスに割譲する
  • スペインは、軍港のジブラルタルとメノルカ島をイギリスに割譲する
  • スペインは、南ネーデルラントをオーストリアに割譲する

このように国際問題は解決されました。イギリスは実利をとってまさに独り勝ちでした。特にジブラルタル港を得たことは、地中海を通ってアフリカへ向かうルートを確保することができたため、イギリスにとっては大きな意味を持っていました。ちなみに、現在もジブラルタルはイギリス領であり、スペインには返還されていません。


 

さて、イギリスやフランスは手を引いても、イベリア半島特にバルセロナにおけるカスティーリャと旧アラゴン連合王国の対立は解決していませんでした。イギリスなどの援軍がいなくなった旧アラゴン連合王国軍は劣勢になっていきました。西暦1714年9月11日に、バルセロナにあるモンジュイックの丘でついに旧アラゴン連合王国軍は敗れました (Onze de Setembre)。ちなみに、この日は今では「カタルーニャ自治州の祝日」になっています。カタルーニャ地方の自由と固有制度の喪失を想起させる日を記念日とすることで、自らのアイデンティティの保持を表明しているという解釈がされています [立石博高,奥野良知「カタルーニャを知るための50章 (エリア・スタディーズ 126)」明石書店・2013年]。

カタルーニャ自治州

スペイン王位継承戦争後の政策

王権がブルボン家に移ったスペインは中央集権へと舵を切りました。1707年から1716年にかけて、「新国家基本令」をアラゴン、バレンシア、マヨルカ及びカタルーニャにおいて公布して、各地方の慣例や特権などを廃止しました。一方で、スペイン王位継承戦争においてフェリペ5世を支持したバスク地方とナバラ地方については従来の特権を維持しました。さらに、公用語はカスティーリャ語に限定され、フランスの官僚制度を取り入れました。

このようにスペインの近世は「太陽の沈まない国」から王位継承戦争に巻き込まれ、ハプスブルク家からブルボン家に代わり、分権的な国家から中央集権的な国家へと変容しました。

ブルボン王朝は、フェリペ5世の後、ルイス1世(在位1724年)、フェリペ5世(復位)(在位1724年から1746年)、フェルナンド6世(1746年から1759年)、カルロス3世(1759年から1788年)、カルロス4世(1788年から1808年)へと王位は継承されていきました。

ゴヤ作「カルロス4世の家族」

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さて、次回はいよいよフランスではナポレオンが登場します。そして、イベリア半島にも大きな影響を与えました。そして憲法ができます。憲法の変遷を見ながら、スペインの近現代史を見ていきます。いよいよ本格的な「スペイン法」の講義が始まります。

第3回確認問題

「第3回 スペイン法入門講義」の確認問題です。 上の文章を見ずに解答してみてください。いずれも短答式問題です。
スタート
お疲れ様でした!第3回確認問題のテストを終了しました。 解答スコアは %%SCORE%% / %%TOTAL%% 問正解です。 %%RATING%%
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