第2回 スペイン法を学ぶ前に… – スペインの歴史を大まかに知ろう!(その1・古代から中世まで)

 

最終更新日: 平成29年(西暦2017年)7月10日

はじめに

今回から「スペインの歴史」についてのお話をやっていこうと思います。本講座は「スペイン法入門講義」ですが、歴史がある程度分からないと法律の概要をつかむことはできません。

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法というのは、その時代のその地域に住む人たちの価値観に基づいて作られるのが一般的です。したがって、外国法を学ぶ場合にその国の歴史の勉強を外して学習を開始しても断片的な知識しか身につけることができません。

一方で、歴史学という学問分野が独立して成り立つように、歴史の学習自体が大変価値のあるもので、ここでは法の勉強の手段として歴史を学ぼうとしているのに、歴史の学習という手段を目的化しかねず、歴史の学習をどのように按配したらよいのかが分からないという初学者は多いように思います。

そこで、ひとまずは以下に語る物語のあらすじを理解することに努め、興味が出てきたら後に深く学習してみるというスタンスで学習するようにしましょう。高校の「世界史」の試験対策を行うわけではありませんから、細かい知識まで記憶しようとする必要はありません。

なお、入門書として、上掲の立石 博高,内村 俊太「スペインの歴史を知るための50章 (エリア・スタディーズ)」(明石書店)・2016年は、コンパクトサイズでありながらスペインの歴史の急所を分かりやすさと深さが両立する書籍です。推薦図書としてあげておきたいとおもいます。

西ゴート王国の滅亡までの民族流入史

まずは、有史以前から「西ゴート王国」が登場し、彼らが滅びるまでにイベリア半島に流入した人々の歴史について、簡単に解説を加えていきたいと思います。

西ゴート王国滅亡までの年表

イベリア半島への人類の流入は有史以前からあったと言われています。クロマニョン人が住んでいた跡と言われる世界遺産のアルタミラ洞窟 (Cueva de Altamira)があるのはスペインです。

アルタミラ洞窟

アルタミラ洞窟は、現在のカンタブリア自治州にあります。前回お見せした自治州地図で場所を確認してみましょう。

スペインにおける自治州の地図

話が横道にそれますが、アルタミラ洞窟の実物は現在非公開とされているそうですが、レプリカが世界に3か所存在しています。その1つが日本にあります。三重県志摩市にある「パルケエスパーニャ」のハビエル城の中です。筆者が訪れたときに撮影した写真をお示ししておきましょう。

アルタミラ洞窟のレプリカ @ パルケエスパーニャ

地中海の覇権をめぐる争い「ポエニ戦争」とイベリア半島

イベリア半島は豊かな鉱物資源や農作物に恵まれていたため、様々な民族の流入があったようです。紀元前1000年頃にはピレネー山脈を越えてケルト人がやってきたり、紀元前9世紀頃からは地中海からフェニキア人が交易のためにイベリア半島にやってきて、ガディル(現カディス)やマラカ(現:マラガ)などに交易の拠点を置きました。

紀元前4世紀頃からは地中海交易の主役はフェニキア人が地中海交易のために北アフリカに作られた植民市のカルタゴに代わり、やはり彼らもイベリア半島にやってきました。

しかし、現在のイタリアにあるシチリア島をめぐる争いから西地中海の覇権をめぐってカルタゴとローマが対立を深め、やがて大きな争いになりました。これが「ポエニ戦争」(紀元前264年から紀元前146年まで)です。

「第1次ポエニ戦争」に敗れたカルタゴはシチリア島を失い、続いて紀元前237年にサルデーニャ島をローマに奪われました。ここで、カルタゴにとってイベリア半島から採掘される銀が重要な存在になってきます。カルタゴは傭兵を雇いますが、彼らにお金を払わなければなりません。そこで重宝したのが銀だったのです。そこで、カルタゴはイベリア半島内での勢力を拡大させます。この勢力の拡大を恐れたローマはカルタゴとエブロ条約を締結し、カルタゴは戦争を意図してイベルス川(現: エブロ川)を渡ってはならないと約束します。

ところが、カルタゴの最高指揮官であったハンニバルが紀元前219年にこの条約を破ると、これをきっかけに「第2次ポエニ戦争」が始まりました。ハンニバルはピレネー山脈を越えガリアを越えてアルプス山脈を越えてイタリア半島に攻め入り、ローマに大打撃を与えて勝利しました。一方のローマは大スキピオがイベリア半島におけるカルタゴの本拠地であったカルタゴ・ノバ(現:カタルヘナ)を陥落させ、紀元前206年にカルタゴはイベリア半島を手放し、ローマが駐留します。結局、紀元前202年のザマの戦いでカルタゴは敗れ、紀元前201年に講和条約を締結すると、イベリア半島の大半は正式にローマの傘下になりました。

後にカルタゴはローマに滅ぼされ、ローマはカルタゴ市民を奴隷にしました。

ローマの属州「ヒスパニア」

紀元前197年に、イベリア半島東部にヒスパニア・キテリオル、南部にヒスパニア・ウルテリオルと2つの属州が設置されました。その後、ローマの支配に対する反乱が何度も繰り返されましたが、ローマでオクタウィナアヌスが単独統治を確立すると、紀元前19年にイベリア半島全域がローマの領土になりました。

ローマの支配組織が確立しそれが安定化してくるとヒスパニアの経済活動も活発になりました。従来はローマへの資源供給地域でヒスパニアでなどの属州で作られた原材料をローマに持って行ってオリーブ油やブドウ酒を作りそれを属州に売っていたのですが、属州の自治市が自分たちでオリーブ油やブドウ酒を造るようになると、これによって経済成長をするようになります。また、土木工事などもさかんに行われるようになり、有名なものとしては、メリダ(現:エストレマドゥーラ自治州の州都)にある世界遺産のメリダの考古遺跡群にあるローマ劇場やミラグロス水道橋、これまた世界遺産になっているセゴビア水道橋などが建設されました。

こうして、紀元1世紀から2世紀にかけてイベリア半島は急速にローマ化が進みます。紀元74年にはヒスパニアの経済力の高まりを背景に、ラテン市民権をヒスパニアの全都市に与えました。ヒスパニアに住む人たちに対してローマで活躍できる道筋が切り拓かれたことを意味します。例えば、養子相続により初の属州出身のローマ皇帝となったトラヤヌス帝(在位: 98年-117年)、同じくヒスパニア出身のハドリアヌス帝や詩人のセネカなど、多くのの優秀な人物を多数輩出しました。

また、キリスト教がイベリア半島に伝わります。当初は土着信仰があり拒否されましたが、5世紀頃にはイベリア半島内に信者を増やしていきました。そして、ローマ帝国の支配体制が崩れてきてヒスパニアが独自の道を歩み出すと、教会組織がイベリア半島の中で重要な役割を演ずることになります。

ゲルマン民族の大移動

帝政ローマの勢いが弱まった頃、「ゲルマン民族の大移動」が始まります。この事件は「ローマ」の弱体化を決定的なものにするできごとであったと説明されることが多いのですが、イベリア半島にも大きな影響を与えた事件になりました。

年表で、ゲルマン民族の大移動とイベリア半島の様子を確認してみましょう。

ゲルマン民族の大移動とイベリア半島についての年表

年表だけでは具体性に欠けるので、wikipediaの地図も参照してみましょう。

411年のイベリア半島

411年のイベリア半島

ゲルマン民族の1つであるスエビ族が411年にスエビ王国を建国しました。後に示す西ゴート王国に併合されますが、公式(紙切れ)的には後にガリシア王国として1833年まで存在することになります。

また、高校生の「世界史」の授業でもおなじみのゲルマン民族のうちの1つである西ゴート族は、西暦415年西ゴート王国 (Reino Visigodo)を建国しました。

西暦476年に西ローマ帝国が滅びると、西ゴート王国のエウリック王はその混乱に乗じてフランスの中部からイベリア半島の南部まで勢力圏を広げました。そして、同じゲルマン民族でイベリア半島にも侵入していたヴァンダル族はジブラルタル海峡を南下し、ヴァンダル王国を北アフリカのカルタゴに建国します。

500年頃のイベリア半島地図

500年頃のイベリア半島地図

西ゴート王国は、成立したばかりのフランク王国と現在のフランス北部で対立し、西暦507年にはこの争いに敗れ、宮廷を南フランスからイベリア半島に移しました。西暦531年にも西ゴート王国は再び敗れてガリアの領地のほとんどを失います。そして、西暦560年に首都をピレネー山脈の北のトロサからトレド (Toledo)へ遷都しました。

ここで、西ゴート王国の特徴を理解するポイントを2つあげたいと思います。

  1. 西ゴート族はイベリア半島において支配する側であったのにも関わらず少数派(マイノリティ)であったこと。
  2. 西ゴート族の伝統として、「王位に登る資格を、血筋よりも実力に認める」という考え方を持っていたこと。

もう少し具体的に見ていきましょう。

まずは1番目の「西ゴート族はイベリア半島における少数派(マイノリティ)であった」という点について。このことは言い換えると、西ゴート族による政治を安定させるための基盤が弱かったことを意味します。したがって、国のリーダーになったのにもかかわらず、多くの努力を必要としました。例えば、西ゴート王国は熱心に「法典の整備」を行いました。当時の多数派はローマ人をはじめとした昔からイベリア半島に住んでいた人たちだったのです。西ゴート族は、彼らとの共存をうまく行うためのツールとして、他の文化圏の人々ともうまく交流を図る機能を多数持っていた「ローマ法 (Derechos Romanos)」を導入し、その傾向は時代を経るにしたがって顕著になっていきました。

また、キリスト教における教義の対立問題(「イエス・キリスト」は「神」か否か)においても、アリウス派(神はヤハウェのみで、イエスは神が創造した人間だ!)からカトリックへの改宗を行う(589年の「第三回トレド教会会議」)などの努力を行い、ローマ人の文化を多数取り入れていったのです。

そしてもう1つの「王位に登る資格を、血筋よりも実力に認める」という西ゴート族の伝統的な考え方について。実力がある人が王位につくべきだという考え方は、実力を蓄えた人たちによるクーデターを引き起こす遠因となってしまいました。一見、「実力主義」はよいことだと思ってしまうところですが、「我こそは!!」という人たちが次々と王位につけるとなると政治が安定しません。なんと、イベリア半島へ移り住んでから滅亡までの約200年間に26人の王が立ち、平均在位は8年足らずであったそうです。

やがて、アラビア半島で誕生し、勢いを増していたイスラムの勢力がジブラルタル海峡をこえてイベリア半島に流入すると、瞬く間に西ゴート王国は滅亡してしまいました(711年に最後の王であったロテリックがグアダレーテ河畔の戦いで戦死)。

イスラム支配とレコンキスタ

イスラムのイベリア半島への進出

イスラム勢力のウマイヤ朝は北アフリカにまで勢力を伸張させると、711年にベルベル人を率いた軍司令官のターリクのもとで、ジブラルタル海峡 (Estrecho de Gibraltar)を渡ってイベリア半島へ上陸し、西ゴート王国を滅ぼしました。ちなみに、イベリア半島南端のジブラルタルにある岬をなす一枚岩のことを、このターリク司令官の名前を取って「ジャブル・アル・ターリク(アラビア語で「ターリクの山」)」と呼び、これが今のジブラルタルの語源となったそうです。

勢いのあるウマイヤ朝は、サラゴサ (Zaragoza)やレオン (León)などイベリア半島の北部の都市まで進出しました。そして、カンタブリア山脈、ピレネー山脈付近を除くイベリア半島の大部分がイスラム勢力の支配下に入り、「アル・アンダレス」として716年よりウマイヤ朝の属州となりました。その後、ウマイヤ朝はピレネー山脈を越えてフランク王国に戦いを挑みましたが、732年の「トゥール・ポワティエ間の戦い (Batalla de Poitiers)」で敗れたため撤退します。

ところで、アラビア半島では、750年にウマイヤ朝が滅亡してアッバース朝が成立しましたが、この影響がイベリア半島にも及びます。756年にウマイヤ家のアブド・アッラフマーン1世がダマスカスからイベリア半島に逃げてきて、「後ウマイヤ朝 (Califato de Córdoba)」が建てられました。首都はコルドバ (Córdoba)です。

 

キリスト教国の誕生とレコンキスタ

一方のキリスト教勢力はと申しますと、718年に「アストゥリアス王国 (Reino de Asturias)」がスペイン北部に誕生して以来(914年に「レオン王国 (Reino de León)」と改称)、キリスト教諸国は小さな国を次々と設立していきます。それ以来、それぞれの地域で、時にはイスラーム勢力と、時にはキリスト教勢力同士とで争いを繰り返します。日本語では「国土回復運動」(キリスト教徒にとってみれば、イスラムからの「国土」を回復する動きである)と訳される「レコンキスタ (Reconquista: スペイン語では「再征服」の意味)」がここから少しずつ始まります。

イベリア半島にはピレネー山脈の向こうからもキリスト教の勢力がやって来ます。西暦778年、ピレネー山脈を越えてきてイベリア遠征を行っていた「フランク王国 (Reino de los francos)」のカール大帝が後ウマイヤ朝と衝突しました(ロンスヴォーの戦い)。この遠征によって後ウマイヤ朝は敗れ、勢力は弱まります。この時のエピソードをもとにした騎士道文学作品と言えば、あの有名な「ローランの歌」ですね。795年にフランク王国はピレネー南麓にスペイン辺境領をおきました。801年にスペイン辺境領はバルセロナまで南進し、「バルセロナ伯」をこの地におきました。

824年にフランク王国から独立しようと考えたバスク人たちが「ナバーラ王国 (Reino de Navarra)」を建国しました。

これからまもなくしてフランク王国は解体され、スペイン辺境領もバラバラになり有力諸侯たちがたくさん登場する中で次第に大きな3つの国が生まれます。それが、地中海沿岸を中心に勢力を拡大した「アラゴン王国 (Reino de Aragón)」とイベリア半島中部で勢力を拡大した「カスティーリャ王国」及びそこから分かれた大西洋側の「ポルトガル王国」です。詳しくはもう少し後で見てみましょう。

一方、後ウマイヤ朝は、10世紀前半のアブド・アッラフマーン3世のもとで最盛期を迎え、自ら「ハリーファ (カリフ: 預言者ムハンマド死後のイスラームにおける最高指導者のことを指す)」と称して、アッバース朝、ファーティマ朝といった他のイスラム勢力に対抗しました。首都のコルドバ (Córdoba)は、トレド (Toledo)とならんで西方イスラム文化の中心地となり、多くの学者が活躍しました。しかし、10世紀後半には、侍従が「ハリーファ (カリフ)」の権限を形骸化させて実権掌握を図るなど混乱が続き、短命で指導力を欠く「ハリーファ (カリフ)」が相次ぎました。このような中、1031年に内紛により後ウマイヤ朝は滅亡しました。

1031年のイベリア半島の地図

この後、「第一次タイファ時代」と呼ばれる時代が到来しました。「タイファ」とは、独立したムスリム支配の君主国、 首長国あるいは小王国をさす言葉です。この時期にイスラームの小国家がイベリア半島内に誕生します。代表的なターイファは、セビーリャ王国、トレド王国、サラゴサ王国、グラナダ王国、バレンシア王国などがありました。

ここで西ヨーロッパの様子を少しだけ見ますと、人口が急増します。彼らはイベリア半島にやってきてイスラーム勢力をイベリア半島から追い出そうとする「レコンキスタ」に関わるようになってきます。

このようにイスラーム勢力が半島内で小国に分裂すると、キリスト教勢力はいよいよイベリア半島を取り返す「レコンキスタ」の動きが活発化します。イベリア半島内で様々な場所で見られましたが、代表的な流れとして、大きく3つ取り上げることにしたいと思います。

第1に、スペイン北東部にあったアラゴン王国・カタルーニャ (バルセロナ)のルートをご紹介しましょう。「アラゴン王国」は、8世紀のイスラームのイベリア侵入の際にピレネー山脈に逃げ込んだ西ゴート王国のキリスト教徒たちが9世紀始め頃から次第に集団的にまとまりを見せたことがきっかけとなって誕生しました(1035年)。一方の「カタルーニャ(当時はバルセローナ伯領)」は、801年にフランク王国のカロリング王朝のルイ敬虔王が、南フランスからピレネー山脈を越えてイベリア半島北東部のバルセロナをイスラム教徒から奪回したのが始まりです。当初はフランク王国のスペイン辺境伯領として発展しましたが、やがて「カタルーニャ君主国 (Principado de Cataluña)」として発展します。やがて、アラゴン王国と婚姻関係などで同盟を締結し(1137年)、後に「アラゴン連合王国 (Corona de Aragón)」として西地中海の覇権を握るほどの勢力を誇示するようになっていきました。

アラゴン王国の国章

第2に、半島中央を北部山岳地帯から南部へと貫く中央ルートをご紹介しましょう。この地域は、前述したアストゥリアス王国(718年設立)が中心となり、イスラームや他のキリスト教系小国家との関係から、レオンに首都を移転し(914年)、さらに「城 (カスティーリャ)」と呼ばれる伯領を設置しました。その後、紆余曲折があり、1035年にフェルナンド1世が「カスティーリャ伯領」をナバーラ王のサンチョ3世から相続により取得した際に「カスティーリャ王」を称し、1037年には妻サンチャの兄であったレオン王のベルムート3世を倒してレオン王位を獲得し、「カスティーリャ=レオン王国」が誕生しました。

カスティーリャ王国の紋章

カスティーリャ王国の紋章

1085年にカスティーリャ王国のアルフォンソ6世 (Alfonso VI)は、かつての西ゴート王国の都であったトレド (Toledo)をついに奪回します。この時にトレドの中の図書館にあった大量のアラビア語の書物を発見し、これをラテン語に翻訳するように命じます。すると、ここにはアラビア関連の書物だけではなくプラトンやアリストテレスなどの古代ギリシアの文献も数多くあることが分かりました。ここからトレド翻訳学派 (Escuela de Traductores de Toledo)と呼ばれる学者さんたちが活躍し、「12世紀ルネサンス」に大きな影響を与えました。

一方で、劣勢に立たされたイスラム勢力は北アフリカに援軍を求め、1086年にアルジェリア北西部などに勢力を誇っていたベルベル人のムラービト朝がやってきて、「タイファ」諸王国を統一しました。1091年にはコルドバとセビーリャを占領し、1102年にはバレンシア、1110年にはサラゴサを占領しました。しかし、すぐにカスティーリャ王国が勢いを取り戻したのに加え、イスラムの小国とムラービト朝の対立が深まったことから、1130年にモロッコで成立したムワッヒド朝に滅ぼされ、イベリア半島は再び「第二次タイファ時代」と称される分権的な状況が生まれました。ムワッヒド朝は本格的にイベリア半島に進出しようと試みたものの、1212年にカトリック連合軍との「ナバス・デ・トロサの戦い (Batalla de Las Navas de Tolosa)」で決定的な敗北を喫し、再び小国分立の「第三次タイファ時代」を迎えるに至ってしまいました。

最後にイスラーム王朝で残ったのは、周囲を山で囲まれたグラナダ (Granada)というところにあった「ナスル朝グラナダ王国 (La dinastía Nazarí)」でした。

 

グラナダは攻めにくい土地で苦戦していたカスティーリャ王国は、先に述べた「アラゴン王国」と同盟を結びました。具体的には、アラゴン王国のフェルナンド2世(Fernando el Católico)とカスティーリャ王国の女王であったイサベル1世(Isabel la Católica)が1469年に結婚し、さらに1479年に「スペイン王国」を誕生させました。1492年、スペイン軍がグラナダに侵攻し、アルハンブラ宮殿 (La Alhambra)を攻略しました。こうして、2つのルートによる「レコンキスタ」は完結しました。

第3に、イベリア半島の西部の大西洋岸に位置したポルトガルのルートをご紹介しましょう。ポルトガルは西暦1143年に誕生しましたが、先にご紹介した2つのルートと比較するとレコンキスタ運動が早く終了し、1385年にカスティーリャ王国から独立すると、やがて海洋国家への道を突き進むことになります。特に、実は船に弱かったと言われているエンリケ航海王子が探検事業を始めたのは有名ですね。この講座はスペインについての講座なので、これ以上は言及いたしません。

このようにイベリア半島における「レコンキスタ」は終わるのですが、ここで注目すべき点は、イベリア半島におけるイスラム支配が、実に750年以上にも及んでいる点です。日本の歴史で言うと、奈良時代から戦国時代頃にかけてイベリア半島にはイスラムが存在していたという事実です。これは、ローマ帝国がイベリア半島にやってきて支配していた期間よりも長い期間イスラムがいたことを意味します。これだけ長い期間イスラム勢力が存在したのですから、イベリア半島がイスラムの影響を受けないはずがありません。

  1. 前述しましたが、キリスト教徒(カスティーリャ王国)がイスラムからトレドを奪還した後、「トレド翻訳学派」と呼ばれた学者さんたちが、イスラムが残していった文化やアラビア語で書かれた古代ギリシアの文化などの文献をラテン語に翻訳してヨーロッパに紹介したこと。
  2. アラビア語のスペイン語への流入。後に他のヨーロッパ諸国の言語にも影響を与える。
  3. イスラム勢力の中心地であったコルドバやトレドには、イスラムだけでなく、キリスト教徒やユダヤ教徒なども居住し、お互いが共存していた。
  4. 「灌漑技術」などの技術の飛躍的成長。アルハンブラ宮殿などにそれらを見ることができるほか、現在においてもオリーブの生産における灌漑施設に影響を与えているとも言われている。

ほんの一例を紹介しましたが、イベリア半島にイスラムが存在していたことは、当時のヨーロッパ全体にまで大きな影響を与えたのだということが分かります。

さて、ボチボチ講義のまとめに入っていきましょう。こうして「レコンキスタ」はキリスト教徒の大勝利に終わるのですが、時として「大勝利」は自制心をなくし、残酷な道への第一歩を踏み出すことがあります。キリスト教の勝利は他宗派であったユダヤ教やイスラム教を信じる人たちをイベリア半島から完全に追い出す方向に舵を切っていくことになりました。「スペイン異端審問」が本格的に始まります。さらに、グラナダが陥落した同じ1492年には、イサベル1世が雇ったイタリアのジェノバ出身の商人のクリストファー・コロンブスが新大陸を「発見」しました。ここから、スペインやポルトガルは、キリスト教が広まっていないアジアやアフリカやアメリカに進出していくことになるのです。

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次回はスペインが太陽の沈まない国と呼ばれた時代からナポレオン1世がイベリア半島に侵攻してきたぐらいまでを扱っていきたいと思います。

第2回確認問題

「第2回 スペイン法入門講義」の確認問題です。 上の文章を見ずに解答してみてください。いずれも短答式問題です。
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