第4回 スペイン憲法の歴史を見ながらスペインの近現代史を見てみよう!

最終更新日: 平成29年(西暦2017年)8月28日

目次

はじめに

講義をはじめるにあたって

前々回においてはスペインの古代から中世、前回はスペインの近世について学習しました。

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今回は、隣国のフランスにおいてフランス革命が起こり、その流れでナポレオンが登場し、ピレネー山脈を越えてスペインにやってくる頃から物語をスタートさせます。ナポレオンがイベリア半島に侵攻すると、スペイン国民は独立を守ろうと懸命に闘いました。そして、憲法を制定します。

しかしながら、スペイン国内の政情は不安定でした。王制が廃止され、共和制が敷かれた時代もあります。また、国際問題においてもかつて「太陽の沈まない国」だったのに次第に領土は失われ、ついにはアメリカ大陸にあった植民地も独立が進むことでなくなっていきました。

その後も次々とスペインには難題が降りかかっていきます。内憂外患のスペインは現行体制である「1978年憲法」までどのような歴史を歩んだのでしょうか。それを憲法史とともに見ていくことにしましょう。

スペイン憲法史の特長

1つ1つの憲法や歴史を細かく見る前に、大雑把にスペインの憲法の変遷を見てしまいましょう。

下の表を見ていただいても分かるとおり、自由主義派の作った憲法と穏健派の作った憲法が交互に成立しています。

憲法名
(日本語とスペイン語)
特徴 国会の構成 憲法の
性格
1812年憲法 [カディス憲法]

(Constitución de de Cádiz de 1812)

1791年フランス憲法を取り入れ、立憲君主制、国民主権の原理に立脚した。フェルナンド7世の絶対君主制と穏健派と自由主義派の両派抗争の中で廃止、復活を繰り返し、実効性があったのは1812年-1814年と1820年-1823年の間だけであった。 一院制 自由主義派
1834年王国憲章

Estatuto Real de 1834

1833年フェルナンド7世没後、王位継承をめぐり穏健派と自由主義派の両派間で「カルリスタ戦争」が起こり、そのうち穏健派政権が成立し、1834年王国憲章が制定された。フランス1814年憲章の影響を受け、立憲君主制を採用した。 二院制 穏健派
1837年憲法

Constitución de la Monarquía española de 1837

自由主義派は1812年憲法を範として1837年憲法を制定。立憲君主制、国民主権を標榜した。出版の自由などが認められた。 二院制 進歩派
1845年憲法

Constitución de la Monarquía española de 1845

1837年憲法は穏健派によって転覆され、1845年憲法が成立。1834年王国憲章を基本とし、1837年憲法の国民主権を廃し、国王の権限強化、国会の権限制限をはかった。 二院制 穏健派
1869年憲法

Constitución de la Monarquía española de 1869

1868年名誉革命後、自由主義的な1869年憲法が制定された。立憲君主制、国民主権を定めた。 二院制 自由主義派
1876年憲法

Constitución de la Monarquía española de 1876

アルフォンソ12世により制定。立憲君主制。政治形態は1845年憲法から、人権規定は1869年憲法から取り入れられた。1923年のプリモ・デ・リベラ将軍の独裁まで実効性を保った。 二院制 穏健派
1931年憲法

Constitución de la República española de 1931

アルフォンソ13世のローマ亡命後、暫定政府は共和制を宣言し、1931年共和国憲法が制定された。1812年憲法、1869年憲法及びドイツの「ワイマール憲法 (Weimarer Verfassung)」を範とした。共和制、国民主権。この憲法で陪審制度が導入されていることと、カトリックの国でありながら離婚制度を導入したことは画期的である。 一院制 自由主義派

 

スペイン歴代憲法の条文翻訳の紹介

スペイン歴代憲法の条文は以下に掲げる通り翻訳されています。いずれも、スペイン憲法研究の大家でいらっしゃる池田実先生によるものです。

  •  [資料](邦訳)スペイン1812年憲法(カディス)憲法『山梨大学教育人間科学部紀要』巻号頁 1/ 1, 87-113出版日 1999/12
  •  [資料](邦訳)スペイン1808年憲法・1834年王国憲章『山梨大学教育人間科学部紀要』 巻号頁 1/ 2, 132-146出版日 2000/03
  •  [資料](邦訳)スペイン1837年憲法・1845年憲法『山梨大学教育人間科学部紀要』 巻号頁 2/ 1, 234-246出版日 2000/12
  •  [資料](邦訳)スペイン1869年憲法『山梨大学教育人間科学部紀要』 巻号頁 4/ 2, 46-56出版日 2003/03
  •  [資料](邦訳)スペイン1876年憲法『山梨大学教育人間科学部紀要』 巻号頁 5/ 1, 139-147出版日 2003/12
  •  [資料](邦訳)スペイン1931年憲法『山梨大学教育人間科学部紀要』 巻号頁 6/ 2, 155-170出版日 2005/03

なお、今回の講義においても、上に掲げた池田実先生の翻訳を引用して、歴代の憲法の説明を試みています。

バイヨンヌ憲法の制定(1808年)

ハプスブルク家からブルボン家に移行した後のスペインは、対外的な影響力は隣国のフランスと比較して明らかな衰えがあったものの、国内の経済は農業改革やアメリカ植民地貿易での利益などで経済成長が見られた時期でもありました。

しかし18世紀末になると、スペインのお隣のフランスでは、アンシャン・レジューム体制に対する不満から起こったフランス革命(1789年)が起こりました。フランス革命によりフランス国内は大混乱に陥りました。そのような中で混乱を収めたのが、かの有名なナポレオン・ボナパルト (Napoleon Bonaparte)(ナポレオン1世)でした。フランスの荒波がスペインにも降りかかってきます。

ナポレオン1世は「フランス革命を輸出し、欧州諸国の絶対王政を打ち倒す」ことを名目に侵略戦争を開始します。ナポレオンは特にイギリスを敵視します(イギリスはホントは立憲君主国だったので絶対王政国家ではありません!)。イギリスは産業革命に成功していたので、安くて品質のよい綿織物が欧州市場に出回っていました。一方のフランスの製品はいまだに手工業で、価格競争に負けていました。フランス製品を欧州に売り込むためにはどうしたらよいのかを考えた結果、イギリス製品を強制的に欧州大陸から排除すればよいではないかと考えました。そして、「革命の輸出」によって欧州を統一してしまえば市場統合も実現できるので、結果として欧州市場をフランスの市場にすることができるとフランスの財界とナポレオン1世は考えたわけです。そこで、1806年に「大陸封鎖令 (Continental System, Continental Blockade)」を出しました。これは、当時フランスの同盟関係にあったスペインにも大きな影響を与えることになりました。

この「大陸封鎖令」に対して、スペインの隣国であるポルトガルは「中立」を保っていたため、ナポレオンはポルトガルへの侵攻を計画しますが、その「通り道」にあたるのがスペインです。ナポレオンはスペインとの間に「フォンテーヌブロー密約」を結び、ナポレオン軍のスペイン通過を認めさせます。その後、ポルトガルを征服したナポレオン軍は「ポルトガルの支配を強めるため」という口実で、スペインに兵を駐留させ、ついにはスペインの北部を占領してしまいました。やがて、ナポレオン軍は首都のマドリードにも進軍しました。

フランシスコ・ゴヤ作「カルロス4世の家族」
カルロス4世は中心よりやや右寄りにいる男性。
フェルナンド7世は鮮やかな青い衣服を身に着けている左側の青年。

一方、スペインの国内も、政治家としてはあまり評判のよろしくなかった当時の国王であるカルロス4世の政治に不満をもっていた皇太子のフェルナンド7世が、国内の保守派と共にカルロス4世に対してクーデターを起こしました。一度は失敗するものの、民衆の支持により1808年3月にカルロス4世は退位を宣言、フェルナンド7世は即位します(アランフェスの暴動)。ところが1808年4月にカルロス4世は退位を撤回。スペインに2人の国王が存在するという異常事態が起こります。

こうした国内の混乱に乗じて、ナポレオン1世は2人の国王をバイヨンヌに連れ出し、両者の王権の放棄を認めさせます。代わってナポレオンの兄のジョセフがホセ1世としてスペイン国王に即位しました(1808年6月)。さらに、フランスのバイヨンヌ(場所は下のgoogle mapを参照)にスペイン議会を召集して「バイヨンヌ憲法 (El Estatuto de Bayona de 1808)」を制定しました。

 

カディス憲法の制定(1812年)

スペイン独立戦争  (Guerra de la Independencia Española)

バイヨンヌ憲法が制定される2ヶ月ぐらい前に、スペイン王室のフランスへの移動問題を阻止するために、1808年5月2日にスペインの民衆はついに立ち上がりました。これが、いわゆる「スペイン独立戦争 (Guerra de la Independencia Española)」(英語では、”Peninsular War”ということから、日本では「半島戦争」の名前の方が一般的である)の始まりであると言われています。このときの様子を、かの有名な画家であるフランシスコ・デ・ゴヤ (Francisco de Goya)が描いています。

ゴヤ作「1808年5月2日エジプト人親衛隊との戦闘」

「5月2日 (El Dos de Mayo)」が描かれている場所は、現在のスペインにおける国道の起点 (日本でいう東京「日本橋」にあたる場所)になっている「プエルタ・デル・ソル (Puerta del Sol)」というところです。

ゴヤ作「1808年5月3日プリンシペ・ピオの丘での虐殺」

1808年11月に、ナポレオンは自ら20万の大軍を率いてスペインへ侵攻、1809年1月までにイベリア半島にいたイギリス軍を駆逐し、後事を部下に託して帰還しました。しかしながら、その後もスペイン側はゲリラ戦 (guerrilla)を各地で繰り広げ、またイギリスの支援により粘り強く抵抗を続けます。フランスは大軍をスペインに駐留せざるを得なくなりました。

フランスのナポレオン軍が「ロシア遠征」で敗退したことをきっかけに弱体化したのを見て、スペインはフランスからの独立を本格的に目指しました。スペイン国内の独立派たちは、1810年にスペイン南部の古都のカディス (Cádiz)で、独立派の中の自由主義派が中心となってコルテス(国会)を開きました。そこで、出版の自由や領主裁判権の廃止、異端審問制の廃止などが決議され、ついに1812年にスペイン国内初の近代憲法「カディス憲法 (La Constitución de Cádiz)」を制定しました。カディス憲法がスペインで初めての憲法であると一般的には解釈されています。確かにバイヨンヌ憲法はスペインの統治をするために制定されたものでしたが、自分たちの手で作った憲法ではないため、スペインでは憲法としてカウントしないというのが理由のようです。

カディス憲法の内容

形式を見ると、全10章で条文数は384条もあります。

内容をかいつまんで解説します。条文について、スペイン語版についてはwikisourceから引用したものであり、和訳は先にご紹介した[池田実「(邦訳)スペイン1812憲法(カディス憲法)」『山梨大学教育人間科学部紀要』第1巻第1号・1999年]を参照しています。また、ポイントの列挙に際しては、[黒田清彦「憲法」(原誠編『スペインハンドブック』所収)三省堂・1982年]や[中川和彦「ラテンアメリカの独立の動きと先駆的憲法」成城法学 (61), 67-93頁, 2000-03]を参照しています。

まずは主権在民を謳っています。カディス憲法第3条を見てみましょう。

<カディス憲法第3条>

La soberanía reside esencialmente en la Nación, y por lo mismo pertenece a ésta exclusivamente el derecho de establecer sus leyes fundamentales.

主権は本質的に国民に存し、したがって、基本法を制定する権利は、国民のみに排他的に属する。

カディス憲法が制定されたとき、国王のフェルナンド7世はまだフランスにいました。ですから、カディス議会は国王が国内にいないのだから共和制を敷くように考えてしまいがちですが、立憲君主制を採用することを憲法で謳いました。

<カディス憲法第14条>

El Gobierno de la Nación española es una Monarquía moderada hereditaria.

スペインの国民政府は、世襲の穏健な君主制である。

さらに、

<カディス憲法第179条>

El Rey de las Españas es el Señor Don Fernando VII de Borbón, que actualmente reina.

スペイン国王は現に君臨するブルボン家のフェルナンド7世陛下である。

と定められ、フェルナンド7世がスペインに帰国してからのスペインの未来を描いています。

王位継承についてはカディス憲法第174条から第184条に定められ、ここに細かな規定が存在します。次回の「スペインの国王と日本の天皇について比較しよう」で少しだけカディス憲法における王位継承の規定についての解説をする予定です。

次に自由権についてです。宗教の自由は以下に示す通り認められていませんでした。

<カディス憲法第12条>

La religión de la Nación española es y será perpetuamente la católica, apostólica, romana, única verdadera. La Nación la protege por leyes sabias y justas y prohíbe el ejercicio de cualquiera otra.

スペイン国民の宗教は、現在及び将来にわたり永久に、唯一神聖な使徒継承のローマ・カトリック教である。国民は、賢明かつ公正な法律によりこれを保護し、かつ、他のいかなる宗教の行使もこれを禁ずる。

一方で、

  • 職業選択の自由(カディス憲法23条)
  • 人身保護(カディス憲法第287条、第296条、第297条、第303条)
  • 私有財産権(カディス憲法第294条)
  • 住居の不可侵(カディス憲法第306条)

といった権利が認められており、自由主義的な色彩も憲法典ではみることができます。

次に統治機構の条文をあげてみます。特徴をあげてみましょう。

  • 三権分立が規定されている(カディス憲法第15条、16条、17条、242条)
  • 立法権は議会と国王にある(カディス憲法第15条)
  • 一院制である(カディス憲法第27条)
  • 国会議員は三段階(小教区代表→郡代表→県代表)の選挙人の選挙によって選出される。
  • 第1段階において普通選挙(男子のみ)が実施される
  • 国務大臣は国会議員でなくてもよい(カディス憲法第95条)
  • 国王は法律の裁可及び公布を行う権能を有した(カディス憲法第142条)が、不裁可権もあった(カディス憲法第144条)
  • 政府は国会に対して責任を負う(カディス憲法226条)

この憲法は、スペインから独立したラテンアメリカ諸国の憲法にも一定の影響を与えたといわれています。

カディス憲法のその後 - フェルナンド7世の帰国後の様子

1813年6月にホセ1世はフランスに逃れると、ナポレオンはフェルナンド7世をスペイン国王として認めました。翌1814年にようやく我らが国王であるフェルナンド7世がスペインに帰国することになりました。フェルナンド7世をフランスから取り返すというつもりでスペインの独立を必死で守って必死で戦争をやってきたので、スペイン国民はこの帰国に大喜びでした。いよいよ憲法に基づいた政治が行われる…と思いきや、フェルナンド7世は、なんとカディス議会と憲法の無効を宣言してしまいました(絶対主義王政復古 (Restauración Absolutista))。

フェルナンド7世とともに自由主義的なボクらの国を作っていこうと考えていた自由主義者たちはフェルナンド7世に対して不満を抱きます。そこで、1814年頃から幾多のクーデター宣言(プロヌンシアミエント)がされるようになりました。いずれもクーデター宣言(プロヌンシアミエント)は失敗に終わりますが、1820年のリエゴ大佐の蜂起は成功をおさめ、フェルナンド7世はカディス憲法の復活を誓わざるを得なくなりました。

カディス憲法が復活した3年間を「立憲制の3年間 (Trienio Liberal)」と呼び、この間は自由主義的な政策が行われました。また、ポルトガルやイタリアなどの近隣諸国に革命運動を波及させました。

これに反発したのがフランスです。1814年に「ウィーン会議」でナポレオン戦争の戦後処理が行われました。会議の登場国は、イギリス、ロシア、プロシア、オーストリアそしてフランスです。この会議において、なぜか敗戦国のはずのフランスのタレーランが主導権を握り、「ナポレオン戦争、さらにフランス革命前の秩序に戻して、欧州諸国の勢力均衡を図ろう」という方向で合意がなされました。これを「ウィーン体制」と言います。

ところが、フランスのお隣のスペインで起こっていることというのは王権が制限された自由主義的な進歩的な政治で、フランス革命以前の体制でやっていこうという「ウィーン体制」の思想とは相容れません。このような自由主義的な動きが欧州に広がると、また「革命」が起こるかもしれないと「ウィーン体制」側にいる国々は考えます。そこで、フランスはスペインに兵を送り、自由主義者たちを攻撃しました。自由主義者たちは何もすることができず、結果としてカディス憲法は再び停止され、フェルナンド7世による統治が始まりました(1823年)。これはフェルナンド7世が死亡するまで続けられ、「忌むべき10年間 (Década Ominosa)」と呼ばれます。

王位継承問題

1829年にフェルナンド7世は姪のマリア・クリスティーナを4度目の妻として迎えました。フェルナンド7世は次に生まれる子が仮に女子であったとしてもその者に王位を承継させることを決心していました。

1829年10月にフェルナンド7世に子どもが誕生しました。性別は女子、名前はイサベル。後のイサベル2世女王です。1830年にフェルナンド7世が国事詔書で女子に王位継承権を認めることをを公示しました (Pragmática Sanción de 1830)。「サリカ法典」の廃止です。1833年、フェルナンド7世は自由主義勢力を取り込み、議会を召集してイサベルを王位継承者として誓約を行いました。

フェルナンド7世からの王位継承問題とカルリスタ戦争に係る略系図

これに反発する者が当然出てきます。フェルナンド7世には2人の女のお子さまがいらっしゃいましたたが、実はフェルナンド7世には弟がいました。もし女子に王位継承権がなければ、フェルナンド7世にもしものことがあれば次の王位に就くのは王弟カルロスです。「次の国王は私だ!」と思っていたカルロスは反発します。

フェルナンド7世が1833年9月に崩御すると、娘の3歳のイサベル2世が女王に即位します。もちろん3歳のお嬢さまには政務を担当するのはムリなので、摂政に王妃のマリア・クリスティーナが就きました。 これに反発したカルロスはカルロス5世を自ら名乗り自ら即位宣言します。これに呼応したカルロス支持者(カルリスタ)は蜂起しましたが、1839年にベルガーラ協定を結び、事態は収束しました。結局、「イサベル2世、摂政マリア・クリスティーナ」という体制でスペインの治世は進んでいきます。

1834年王国憲章 (Estatuto Real de 1834)

フェルナンド7世が崩御し、「イサベル2世、摂政マリア・クリスティーナ体制」の中では自由主義者の穏健派(moderado)が政権を担当。リーダーのマルティネス・デ・ラ・ロサは、先ほど述べたカルリスタとの対立の中でフェルナンド7世体制の諸制度を廃止する政策を取り、フランスの「1814年憲章 (Charte constitutionnelle de 1814)」の影響を受けて立憲君主制を採用、さらにイギリスの議会制度を参考にして穏健的な「1834年王国憲章 (Estatuto Real de 1834)」が作られました。

特色としては、カディス憲法が一院制であったのに対して「1834年王国憲章 (Estatuto Real de 1834)」では、貴族院と衆議院の二院制を採用しました(1834年王国憲章第2条)。また、七部法典を始めとする中世以来の伝統的君主制を志向していると言われています。

1837年憲法 (Constitución de la Monarquía española de 1837)

1837年憲法制定の歴史的背景

一方、自由主義者の進歩派 (Los progresistas)が活動を活発化させると、摂政のマリア・クリスティーナ王妃はメンディサバルに政権を委ね、1812年憲法の復活を認めます。しかしながら、カディス憲法は理想的すぎて実情にそぐわないうえに、条文数が多すぎて使い勝手がよろしくなかったことから、カディス憲法の理念を大切にしながら、穏健派と進歩派が妥協して生まれた憲法が「1837年憲法 (Constitución de la Monarquía española de 1837)」です。全13編77条から成り立っています。

1837年憲法の内容

ここでは主としてカディス憲法と比較をしていきます。なお、条文についてはカディス憲法のスペイン語はwikisourceから引用したものです。和訳は、[池田実「(邦訳)スペイン1837年憲法・1845年憲法」『山梨大学教育人間科学部紀要』第2巻第1号・2000年]を参照しています。また、ポイントの列挙は、[黒田清彦「憲法」(原誠編『スペインハンドブック』所収)三省堂・1982年]を参照しています。

1834年王国憲章よりは自由主義的な性格を持った憲法ですが、穏健派と進歩派との妥協の下で制定された憲法であるため、カディス憲法と比べると保守的な面もあります。

二院制の採用

カディス憲法では一院制を採用していましたが、1834年王国憲章と同様、二院制を採用しています。

<1837年憲法第13条>

Las Cortes se componen de dos Cuerpos Colegisladores, iguales en facultades: el Senado y el Congreso de Diputados.

国会は上院及び下院という、権能において対等な、2つの共同立法機関により構成される。

国王の立法に対する拒否権、議会の召集・停止・解散権、大臣の任免の自由

一方で、カディス憲法と比較して保守的な性格が出ていると言われる代表例が次のものです。

議会の召集・停止・解散権(1837年憲法第26条)

Las Cortes se reúnen todos los años. Corresponde al Rey convocarlas, suspender y cerrar sus sesiones y disolver el Congreso de los Diputados; pero con la obligación, en este último caso, de convocar otras Cortes, y reunirlas dentro de tres meses.

国会は毎年召集する。国会を召集し、停会し、閉会し及び下院を解散する権限は国王に属する。但し、下院を解散する場合には、国王は、3か月以内に次の国会を召集し集会させなければならない。


国王の立法に対する拒否権(1837年憲法第39条)

Si uno de los Cuerpos Colegisladores desechare algún proyecto de ley, o le negare el Rey la sanción, no podrá volverse a proponer un proyecto de ley sobre el mismo objeto en aquella legislatura.

両院の1つが法律案を否決し、又は国王が裁可を拒否したときは、同一立法期において、同一内容の法律案を再び提出することができない。

大臣の任免の自由(1837年憲法第47条10号)

Además de las prerrogativas que la Constitución señala al Rey, le corresponde:

10. Nombrar y separar libremente los Ministros.

憲法が国王に付与する大権に加え、国王は次の権能を有する。

10号 任意に大臣を任免すること

基本的人権の保障の拡大

  • 出版・表現の自由(1837年憲法第2条)
  • 請願権(1837年憲法第3条)

などがあります。

信教の自由については次のように緩和されています。カディス憲法と条文を比較してみましょう。

<カディス憲法第12条>

La religión de la Nación española es y será perpetuamente la católica, apostólica, romana, única verdadera. La Nación la protege por leyes sabias y justas y prohíbe el ejercicio de cualquiera otra.

スペイン国民の宗教は、現在及び将来にわたり永久に、唯一神聖な使徒継承のローマ・カトリック教である。国民は、賢明かつ公正な法律によりこれを保護し、かつ、他のいかなる宗教の行使もこれを禁ずる。

<1837年憲法第11条>

La Nación se obliga a mantener el culto y los ministros de la religión católica que profesan los españoles.

国民は、スペイン人の表明するカトリック教の信仰及び司祭を維持する義務を負う。

信教の自由についての直接的な条文は存在しないものの、国教制は採用していないことは明文上分かります。

1845年憲法 (Constitución de la Monarquía española de 1845)

1845年憲法制定の背景

進歩派の政策は特にブルジョワジー(特にバルセロナ)からの反発が強く、政権は穏健派に移ります。すると、今度は保守的な傾向の「1845年憲法」が制定されました。

1845年憲法の内容

1845年憲法は「1834年王国憲章」を基本とし、1837年憲法の国民主権を廃し、国王の権限強化及び国会の権限の制限を図りました。

1869年憲法 (Constitución de la Monarquía española de 1869)

1868年9月革命(名誉革命)

この頃、イサベル2世は穏健派政府を支持していました。しかし1868年7月に進歩派が自由主義連合と反政府協定を結ぶことに成功したことがきっかけで、同年9月に進歩派がイサベル2世の退位を要求しました(クーデター宣言)。イサベル2世はフランスに亡命しました。ほとんど流血を見ずにイサベル2世の追放に成功したためにこれを「名誉革命」と呼びました。

この翌年、セラーノ政権のもとで新たな憲法が制定、公布されました。これが「1869年憲法」でした。

1869年憲法の内容

自由主義的な憲法が制定されました。スペイン語版の条文は、wikisourceを参照しています。内容は[黒田清彦「憲法」(原誠編『スペインハンドブック』所収)三省堂・1982年]を参考に列挙します。

  • 信教の自由がスペイン憲法で初めて認められた(1869年憲法第21条)
  • 衆議院と参議院からなる二院制(1869年憲法第38条)
  • 財産及び軍事に関する立法については衆議院の優越がある(1869年憲法第50条)
  • 立憲君主制を謳う

「第一共和政」の成立と崩壊

イサベル2世を追放して王位に就く者がいないのに、憲法典には「立憲君主制」を謳っています。これは新たな国王をスペインに迎えなければならないことを意味します。そこで、政権を担っていたプリム将軍は、イタリアのビクトル・マヌエル2世の次男のアマデオ公爵をアマデオ1世としてスペイン国王に迎えました。

しかしブルボン王朝の支持者からの反発が強く、結局アマデオ1世は2年持たずに退位してしまいます。ここで王がいなくなったので、「共和制」(第1共和政)を宣言します(1873年2月11日)。

共和制に基づいた憲法草案(スペイン憲法史上初の政教分離規定、連邦制などが特徴)ができあがっていました (Proyecto de Constitución Federal de la República Española de 1873)が、王制を支持する人たちがこれに反発。1874年12月にマルティネス・カンポス将軍がサグントの乱を起こし、イサベル2世の子であるアルフォンソ12世が王政復古 (Restauración borbónica)を宣言し、共和制はあっけなく崩壊しました。

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1876年憲法 (Constitución de la Monarquía española de 1876)

1876年憲法の制定とその特徴

アルフォンソ12世がイギリスから帰国し、イサベル2世より王政復古の大義を託されていたカノバス・デル・カスティーリョ (Antonio Cánovas del Castillo)が中心となって、新たな憲法が制定されました。これが「1876年憲法」です (「1876年憲法」スペイン語版はこちら)。

この憲法は、王政復古があったといっても絶対王政ではなく立憲君主制を採用し、政治体制は1845年憲法、人権規定は1869年憲法から折衷的に取り入れた憲法でした。

アルフォンソ12世の治世では、保守党 (Partido Conservador)と自由党 (Partido Liberal)の二大政党制で、これまでの不安定な政情と異にする時代が続きました。

この憲法は後述するプリモ・デ・リベラ将軍の独裁が始まる1923年まで実効性を保ちました。

米西戦争 (Guerra hispano-estadounidense)とその後のスペイン

スペインは大航海時代に新大陸(現在のアメリカ大陸)に進出して植民地を作っていました (くわしくは前回の講義)。

南米の国々の独立運動が激しくなったのは、ナポレオンがイベリア半島に侵攻し始めた頃でした。ナポレオンがフェルナンド7世を退位させ、自分の兄ジョセフ(ホセ)をスペイン王として即位させました。本国のスペインではこれをめぐって「スペイン独立戦争 (Guerra de la Independencia Española)」が起こりましたが、アメリカ大陸のスペイン植民地の副王(スペイン国王から任命されている)たちは、ナポレオンの兄を支持すべきかフェルナンド7世を支持すべきかで困ってしまいました。

このように植民地を統治する側が混乱していることが独立を求めるクリオーリョ (criollo)たちにとっては願ってもないチャンスになりました。政治的経済的にスペイン本国の植民地政策に不満を持っていたクリオーリョたちが中心になり、1810年には南米各地で自治と独立を求めて評議会が作られていきました。この後相次いで独立宣言をし、1825年にはベネズエラ、コロンビア、エクアドル、ペルー、ボリビア、チリ、アルゼンチン、パラグアイ、ウルグアイが実際にスペインから独立を果たしました。

しかし、これらの国々は独立したからといって国力が突然上がるわけではありません。ここで登場したのがアメリカ大陸で大国になりつつあったアメリカ合衆国の登場です。南北戦争(1861年から1865年まで)で勝利した北部は保護貿易政策によって産業資本家が急成長します。1890年にいわゆる「フロンティアが消滅」し、市場を海外に求めます。その海外とは主として南米と清です。この時代ですからまだ飛行機はありません。海外に行くには蒸気船が必要です。そのためには燃料である石炭を補給する基地が必要です。その基地として、アメリカ合衆国はカリブ海のキューバや清の足掛かりとなる太平洋のフィリピンが必要だったのです。なぜアメリカ合衆国にとってこの場所に基地があった方がよかったのかというと、当時はアジアに行くのに太平洋を横断して行きませんでした。また、スエズ運河もありません。アメリカ合衆国東海岸から大西洋を横断し、インド洋、マラッカ海峡を抜けて南シナ海に向かうという航路を使っていました。ちなみに、有名なペリーが日本にやってきた(黒船来航の事件)のもこのコースです。しかし、キューバとフィリピンは1890年前半はまだスペインの植民地でした。

当時、キューバやフィリピンはスペインによるサトウキビのプランテーション経営に苦しめられており、独立運動が起こっていました。アメリカ合衆国はこれに乗っかってアメリカ軍艦のメイン号の撃沈事件を口実にスペインと戦争を始めました。これが「米西戦争」です。

スペインはアメリカ合衆国に敗れ、アメリカは合衆国はフィリピン、グアムおよびプエルトリコを含むスペイン植民地のほとんどすべてを獲得し、キューバを保護国として事実上の支配下に置きました。この結果、南北アメリカ大陸と太平洋からスペインの勢力が一掃されることになり、レコンキスタ終了頃から続いた、スペイン・ポルトガル中心の「帝国主義」はこの戦争をもって幕切れとなりました。

世界の植民地を失ったスペインでしたが、一方で「98の世代 (Generación del 98)」と呼ばれる人たちがスペインが抱える課題を論壇を通じて積極的に発言するようになりました。

ロシア革命とスペイン

1914年に始まった「第1次世界大戦 (Primera Guerra Mundial)」によって生じた経済のインフレーションなどで、スペイン国内の経済は危機的な状況に陥っていました。

また、1917年における「ロシア革命 (Revolución rusa)」の成功は、労働運動をさらに刺激しただけでなく、カタルーニャ地方やバスク地方における反専制・地域独立の意識を高めました。都市部、農村部を問わず各地で頻発していた暴動、要人テロが第1次世界大戦の後も続き、深刻な政治的混乱が起こっていました。

プリモ・デ・リベラによる独裁政治

第1次世界大戦後のスペイン領モロッコにおける民族運動鎮圧に苦慮したことから、軍部の責任問題が浮上していました。

そこで登場したのが、プリモ・デ・リベラ将軍でした。1923年にプリモ・デ・リベラ将軍がクーデターを起こし、「1876年憲法 (Constitución de la Monarquía española de 1876)」を停止し、独裁政治を行いました。

彼の独裁政治は、混乱の収拾を望む世論が強かったため、共産党や急進的な労働組合の一部が抵抗したものの、プリモ・デ・リベラ独裁政権は、総じて各層から容認されました。あいつぐテロは収束し、労働者によるストやデモの件数も大幅に減少しました。また、国内産業の保護・育成を進め、公共工事を行って経済復旧に努め、それなりの効果は出ました。

しかし、この政権は、第1次世界大戦の混乱を収拾するために作られた暫定的な政権であるという考え方が一般的だったため、次第に左翼勢力や地方自治の動きを抑えられていた地域主義政党からの不満が次第に高まっていきました。また、1927年に始まる通貨危機の影響で、次第に経済界からの支持も失い始め、やがて政権は崩壊しました。

1931年憲法 (共和国憲法) (Constitución de la República española de 1931)

スペイン「第2共和政」が敷かれる

プリモ・デ・リベラ政権が崩壊すると、それを全面的にバックアップしてきた国王のアルフォンソ13世への不満も爆発します。1931年4月14日にアルフォンソ13世はこういった状況を受けて王位を放棄してローマへ亡命しました。暫定政府は共和制を宣言し、「第2次共和制」が誕生しました。

アルカラ・サモーラを首班とした暫定政府は制憲国会を開き、1931年12月9日に「1931年憲法 (Constitución de la República española de 1931)」を成立させました。

1931年憲法の内容

1812年憲法(カディス憲法)及び1869年憲法に基づき、ドイツで制定されたワイマール憲法を範とした1931年憲法(共和国憲法)が制定されました。「1931年憲法 (Constitución de la República española de 1931)」のスペイン語の条文についてはこちらで見ることができます

特徴をいくつか概観してみましょう。ポイントの列挙に際しては、[黒田清彦「憲法」(原誠編『スペインハンドブック』所収)三省堂・1982年]を参照しました。

  • 統一国家の内部において独立の政府を有する自治州を容認した(1931年憲法第11条)
  • 社会権を大幅に保障した(1931年憲法第25条から第50条まで)
  • 国会は一院制(1931年憲法第51条)
  • 国家元首たる大統領には軍人、聖職者または王族であってはならない(1931年憲法第70条)
  • 政教分離が明記(1931年憲法第26条)
  • 信仰の自由(1931年憲法第27条)
  • 国富は国民利益に従属し、公益の必要があれば相当の保障のもとに没収され、所有権は社会化され得る(1931年憲法第44条)

さらに、自治州に関しては1932年にカタルーニャ政庁が、1936年にガリシア政庁とバスク政庁が認められました。この話は自治州の設立のところでももう1回出てきます。

第2共和政への不満とフランコの登場

急進的な労働組合のもとで実施されるデモや左派・右派間のテロの続発など、治安の悪化は深刻な問題となりました。その上、徹底した政教分離政策を実施したために、敬虔なカトリック教徒(特に農村部)から不満の声があがるようになっていきました。

こういった状況の中で、右派勢力の組織化が進み、後のフランコ政権を支えた政党のファランヘ党が、前述したプリモ・デ・リベラの息子であるホセ・アントニオを中心に結党されました。

当初は期待されて「第2次共和制」がスタートしましたが、「議会制民主主義」を以ってしても国内の混乱状況を解決するに及ばなかったため、ファシズム政権の樹立を待望する主張が強まっていきました。そのような中で登場したのが、フランシスコ・フランコ・バアモンデ (Francisco Franco Bahamonde)でした。

スペイン内戦  (Guerra Civil Española)

「第7回大会コミンテルン世界大会」(1935年)の後に実施された1936年2月の選挙では左派勢力の結集が図られ、いわゆる共産党を含む反ファシズム連合政権である人民戦線が勝利し、「人民戦線内閣」が誕生し、大統領にマヌエル・アサーニャ首相が就きました。

これに対して、フランシスコ・フランコ・バアモンデ (Francisco Franco Bahamonde)将軍は、この年の7月に人民戦線内閣に対して反乱を起こしました。これが「スペイン内戦 (Guerra Civil Española)」の始まりでした。

スペイン内戦関係図

内戦が開戦した当初は共和国政府軍の勢力が勝っていたものの、次第に国内の重要拠点を反乱軍によって抑えられ、1939年4月1日に反乱軍がマドリードを鎮圧し、反乱軍が勝利しました。

この戦いは、単にスペイン国内の政争が講じて発展した「内戦」という意味合いだけでなく、ナチス=ドイツやイタリアのムッソリーニ政権の台頭など、ヨーロッパではファシズム勢力が勢いを増していた時期で、大きな戦争が起こる予兆がありました。イギリスやフランスは、そのことを恐れて「スペイン内戦 (Guerra Civil Española)」には敢えて参加しませんでした。一方で、ナチスをはじめとするファシズム勢力は、さらにヨーロッパでの勢力拡大を図るために様々な武器を開発していたようで、それを内戦で新兵器を「実験」で使用するといったこともあったようで「第2次世界大戦の予行演習」と言われました。

ピカソ「ゲルニカ」

「スペイン内戦 (Guerra Civil Española)」の惨状を描いた絵画として有名なものとして、パブロ・ピカソ (Pablo Picasso)の「ゲルニカ」をあげておきたいと思います。「ゲルニカ」は、スペイン北部のバスク地方にある人口6000人の小都市で、フランコの依頼でドイツ軍が無差別空爆をして、死者は598名、1500余人の負傷者を出しました。戦争の醜さと恐怖を絵の中で表現し、1937年のパリ万国博覧会のスペイン館に出展されました。

また、アメリカの作家であるヘミングウェイは義勇軍側に参加し、スペイン内戦を描いています。

フランコ時代における7つの基本法  (Leyes Fundamentales)

フランコ体制と国際関係

「スペイン内戦 (Guerra Civil Española)」が終息した直後のスペインは、内戦による影響で経済的に困窮し、国土も荒れました。したがって、スペイン内戦が終わった後の半年後頃に始まった「第2次世界大戦 (Segunda Guerra Mundial)」に参加する国力すら残っていませんでした。

フランコは人民戦線側の勢力を徹底的に排除し、1931年憲法で認められていた「地方分権的」な体制をひっくり返し、公的な場面においてカタルーニャ語やバスク語の使用を禁止しました。

フランコ総統

1945年5月にドイツが連合国軍に敗北し、さらに連合国軍のサンフランシスコ会議においてスペインを排除する決議が可決、1946年2月に国連総会でのフランコ政権非難決議が可決されて各国大使の召還勧告と国連機関からの排除を決議されると、フランコは「脱ファシズム」政策を強めていきます。スペインは国際的に孤立を深めていきました。

しかしスペインが国際的舞台に戻ってくるチャンスが到来しました。それは冷戦の激化によるものです。アメリカ合衆国は、地政学的にスペインを西ヨーロッパや地中海や大西洋に関わる戦略的要地とみなしました。1950年11月に国連はスペイン排斥決議を撤回、1955年12月に国連加盟を果たしました。

7つの「基本法」と「フランコ体制」後の体制づくり

法律的な観点から考えると、フランコ時代には「憲法典」は存在せず、それに変わる「基本法 (Leyes Fundamentales)」が実質的に憲法の役割を果たしました。

以下、発布順に「7つの基本法」のあらましをご紹介します。

基本法名 発布時期 概要
1 労働法典
(Fuero del Trabajo)
1938/3/9 労働者保護のことや垂直的労働組合への参加を規定。ストライキ権は認められなかった。
2 国会設置法
(Ley Constitutiva de las Cortes)
1942/7/17 一院制国会の設置を規定。当初は選挙権は著しく制限されたが、1967年にほぼすべての成人に選挙権が認められるようになった。
3 スペイン国民法典
(Fuero de los Españoles)
1945/7/17 スペイン人の権利及び義務を定めたプログラム規定的性格の規範。
4 国民投票法
(Ley de Referendum Nacional)
1945/10/22 国会が可決した法律に対する諮問的国民投票を規定した。投票権はすべての成年(21歳以上)男女が有していた。
5 国家元首継承法
(Ley de Sucesión en la Jefatura del Estado)
1947/7/26 スペインを「カトリック教的、社会的及び代表制的」な「王国」と規定し、国家元首たる総統 (Caudillo)であるフランコが、将来国家元首を継承する国王又は摂政を国会に提案することができる旨定める。
6 国民運動原則法
(Ley de Principios del Movimiento Nacional)
1958/5/17 フランコ体制の政治理念を集大成し宣言したもの。
7 国家組織法
(Ley Orgánica del Estado)
1967/1/10 これまでの基本法の規定のいくつかを修正。内閣総理大臣の職を新設し、国家元首の権限の一部を委ねるとした点は目新しい。

 

「基本法 (Leyes Fundamentales)」は、フランコが存命の時に7つの法典が成立していました。

「国家元首継承法 (Ley de Sucesión en la Jefatura del Estado)」によれば、「スペインは、カトリックにして、社会的かつ代議制の国家であり、その伝統に従い、王国である。」(国家元首継承法第1条)とされ、国王になる条件としては「カトリック教徒たる30歳以上のスペイン人男子」(国家元首継承法第9条)であるとされました。その一方で、「王国」でありながら「フランコ大元帥が国家元首である」という規定もあります (国家元首継承法第2条)。この点について、通説ではフランコが王権を代行している状態なのだと解されます。

国家元首継承法 (Ley de Sucesión en la Jefatura del Estado)において、「将来国家元首を継承する国王又は摂政をフランコが国会に提案することができる」旨が定められましたが、実際には1969年7月にアルフォンソ13世の孫のホアン・カルロスをフランコの後継者に指名します。ホアン・カルロスは、「神の名において、国家元首フランコと国民運動原則法ほか基本諸法に忠誠」を誓いました。

1975年11月20日にフランシスコ・フランコ・バアモンデ (Francisco Franco Bahamonde)が死亡すると、ドン・ホアン・カルロス王子は国王ホアン・カルロス1世 (Juan Carlos Alfonso Victor María de Borbón y Borbón)として即位し、11月22日に下院でスペインの国家元首としての宣誓を行いました。

 

スペインの国営放送TVEにその時のアーカイブがアップデートされていたので、ご紹介いたしました。

1978年憲法 (Constitución española de 1978)

ホアン・カルロス1世はフランコから指名を受けた国王だったので、これまでのような「フランコ体制」を維持するかのように見られていました。しかし、国王即位式において、

  • スペインに仕えること、それは「ブルボン家」のモットーでもあり、幼少の頃から父にそう教育された。
  • 国のために全力を尽くす。
  • 立憲制度の緩和役として、また忠実な監視役として行動する。
  • 民衆の王となる。
  • スペインの将来が実に有望なものであることを確信している。
  • 新しい世代にこそ優秀な人材がある。

といった内容を、フランコの偉業を形式的に称えながらも、「民主化」に向けての力強い意思表示も巧みに言葉を選んで演説を行いました。

当初は「君主制」について懐疑的に見る国民も多かったのですが、国王の対話路線でイデオロギーの対立を克服して、市民権を得るようになっていきました。

1976年11月に8番目の「基本法 (Leyes Fundamentales)」として「政治改革法 (Ley para la Reforma Política)」が議会で承認されました。内容は、

  1. 民主主義
  2. 国会の二院制
  3. 憲法の改正
  4. 下院の優越
  5. 国民投票

についての規定が設けられました。同年12月に国民投票が実施され、投票率78%で賛成が94%を占めました。

「政治改革法 (Ley para la Reforma Política)」が優れている点は、フランコ体制の枠内でつくられた「基本法 (Leyes Fundamentales)」という位置づけのもとで制定された法律であり、フランコ体制の手続を通じて、フランコ体制を内側から切り崩し法的連続性を損なうことなく漸進的に民主主義体制に移行しようとした点にあります。

1977年6月15日にホアン・カルロス1世体制になってから初めて総選挙の実施され、ホアン・カルロス1世の下で「民主化」を推し進めるスアレス政権を支持する結果となりました。

こうした中で、いよいよ憲法の制定作業に入ります。1977年8月初めに主要政党議員からなる起草委員会が設置されます。10月にモンクロア政治協定で基本的一致がなされます。1978年5月に起草委員会のもとの小委員会(非公開)が、起草委員会に原案を提出。以後、討議が公開の場にうつります。

1978年10月に上下両院において草案が可決され、12月6日に国民投票が実施されました。投票率67%で、89%の賛成を得て得て承認されました。この日が現在のスペインの憲法記念日になり、祝日になっています。12月27日に国王の裁可を得て、12月29日に施行されました。

 

新憲法においては、主権在民が謳われ、基本的人権の尊重、国民統合の象徴として国王の地位が憲法典上明記され(くわしくは次回)、複数政党制、議院内閣制(くわしくは第8回の講義)、自治州について(くわしくは第12回)などが規定されました。

フランコ体制の末期から新憲法の制定までのプロセスについてはさまざまな学問分野から様々な研究がなされており、様々な評価がなされています。このテーマだけでも1コマ分の講義はできるぐらいなのですが、今回は「スペイン法」の講義であり目的からはやや外れてしまいますので、深く取り扱うことは控えたいと思います。

このあたりの事実については、[碇順治「現代スペインの歴史―激動の世紀から飛躍の世紀へ」彩流社(2005)]がくわしいです。ぜひ学習の際にはお読みになられることをおススメします。

おわりに

今回の講義は憲法制定史を軸にしながらスペインの近現代史を扱ってきました。取り扱った分量が大変に多いにもかかわらず、「いいところどり」をしてしまったためにやや正確さに欠けるところもあるとは思いますが、エッセンスは詰め込んだつもりです。

[立石 博高,内村 俊太編「スペインの歴史を知るための50章 (エリア・スタディーズ)」明石書店(2016)]など優れた歴史概説書も多数出版されているので、参考になさってください。

それから、スペイン法の歴史に着目した興味深い書籍もあります。

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こちらの書籍は歴史だけでなく、ある程度この講義でスペイン法について学んだ後にお読みになられた方が内容が分かってくると思います。ぜひ今後の学習対象として検討してみてもよいでしょう。

第4回確認問題

「第4回 スペイン法入門講義」の確認問題です。 上の文章を見ずに解答してみてください。いずれも短答式問題です。
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お疲れ様でした!第4回確認問題のテストを終了しました。 解答スコアは %%SCORE%% / %%TOTAL%% 問正解です。 %%RATING%%
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