ORTEGA
Produced & Written by Kashiroman
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ぼくが旅エッセイを書くのはこれで3度目になる。処女作がスペインのマドリーを訪問した「エル・ソル・イ・ラ・ルナ」で、2作目が京都を訪れたことを題材にした「明治の京都を訪ねて」である。2作品とも、事実に対するアプローチの仕方は異なっている。前者はぼくが見た事実をほぼ忠実に再現しているのに対して、後者にはフィクションも一部入れている。しかし、このように昔の作品の「書き方」を思い出したところで、それはぼくにとっては無意味な作業だ。なぜなら、前はこう書いたから次はこう書こうとか、そのような器用なことはぼくにはできないからだ。パッと思い浮かんだアイデアをもとにサッと書く、それがぼくの書き方なのだ。
とはいえ、やはり「旅エッセイ」というのにはある程度のやり方というのはある。
ぼくは「もうこれで終わりだ」と決め込んでかかって一気に作品を仕上げていきます。だからもう2度とやらないという気持ちで原稿にかかっています。でも不思議と書きたくなってくるんです。今の気持ちを整理する道具として、「執筆」という手段はとても大事なものなのです。
もし「旅行」を単なる「思い出」だけとして残すのであれば写真だけでもいいのかもしれない。しかし、敢えて時間をかけて文章を書いて、写真よりも時間をかけないと記憶のフィードバックができない文章という媒体を使って自分の「記憶」を「記録」として残すのはなぜなのか。その理由は2つある。1つ目は、前述したぼくのエッセイの書き方を参考にしていただきたいのだが、ぼくは「旅行」を行なう際にはそれなりの「下調べ」をしていく。歴史的建造物はどんな背景があって作られたのかとかその地域の名産はもちろんだが、目的地にたどりつくまでの「道」の歴史(電車で行けば鉄道の歴史になる)なども調べていく。しかしせっかくこのように調べた知識をそのままにしておいたとすれば、実に勿体ない。そこで、下調べをしたことを文章にまとめてしまうことで「記録」として残していつでもフィードバックができるようにして「自分なりの知識の宝庫」として残したいという欲求がある、それが1番目の理由である。2つ目の理由は、執筆する際に旅行に行った時に感じたこと - 感動したこと、辛かったことなど - を反芻していくので、単に後になって「写真」を見る以上に「思い出」として残り、記憶の整理がきちんとできるからである。
また、自分の書いたエッセイをインターネット上に載せるのにも理由がある。それは、自分の蓄えた知識をインターネット上で公開することで誰もが(自分も含めて)ぼくの得た知識に触れることができるため、他人からの批判を受けることができるし、デジタル媒体で公開しているので2次使用が容易なため、大いに利用してもらえるからである(もちろん、ぼくのサイトから引用した旨の記述は言うまでもなく必要ではある)。
ぼくは「スペイン法ホームページ」のプロジェクトの打ち合わせのため、南山大学法学部の黒田先生のところにいた。ぼくは黒田ゼミの卒業生で、「スペイン法ホームページ」は黒田先生とのコラボレーションで作るということにしていた。もともと、ぼくは黒田先生のゼミのページの総合プロデュースも委託されていて、それを活性化させるためにちょっと「スペイン法」で何かやってみるかということで始めたプロジェクトである。これが完成すれば、おそらく日本で最初の本格的「スペイン法解説サイト」ということになる。これで、日本の文化水準を微力ながらも向上できたらということを謳っている。
話はそれたが、ホームページの打ち合わせの時だった。
「実は秋頃にゼミで東京に行こうとぼくの中では計画があってね。河村のところにみんなで行って、ちょっと勉強させてあげたいと思っている。」黒田先生がおっしゃった。「河村」とは、衆議院愛知県1区選出の河村たかし議員のことである。河村議員は先生の大学時代の「後輩」にあたるそうだ。ぼくは先生の言葉に応えた。
「僕らの時はこんなことありませんでしたもんね。いいですね。ぼくなら喜んで行きますよ。」ぼくも答えた。黒田先生は法学部長室から見えるタワーズを見つめてこうおっしゃった。
「君は確かうちの宇都宮の高校時代の先輩にあたるそうじゃないか。」この時、ぼくはある案が浮かんだ。「そうです。宇都宮は後輩です。彼とは仲がよくて、たまにぼくの事務所に遊びに来てくれるぐらいです。」
「君の事務所は東京じゃなかったか?」
「東京もよかったんですけど、郷里に戻ろうということで東京の事務所はぼくがプロデュースするバンドのSigloX (シグロックス)に譲って名古屋に本拠を戻したんですよ。ですから最近はずっと名古屋生活です。」
「そうか。実は宇都宮はうちのゼミのゼミ幹として随分活躍してくれていて、本当によくやってくれるよ。南山法学部の学生の顔だよ、もはや。」
「それは宇都宮から聞いています。」
「東京研修旅行について書かせてください。」こうして黒田ゼミの「東京研修旅行」に同行しながら「エッセイ」を書くことにしたのである。「どういうことだね?」
「はい、ぼくがゼミの研修旅行を文字に起こしてそれを公開するということを考えてみてください。これは単に自己満足じゃくて、南山大学としてもいい宣伝媒体になるんじゃないかと思うんですよ。南山の法学部ではこんなこともやるんだって。大学のパンフでは語れない細かい部分だって表現できますし。」
「分かった。それについては君に任せるよ。」
「そのついでと言ってはなんですが、ぼくのスタッフも同行させてください。だいたい20人弱ぐらいになってしまうんですけど...。東京には自分の事務所もありますから、宿などの心配は結構です。」
「分かりました。」
ぼくは東京研修旅行の話を直哉から聞くために、何度かぼくの名古屋の事務所に呼んだ。東京研修旅行の進行状況を聞き出していた。
「それがなかなか進まないんだよ。河村たかし事務所と何度か連絡はとっているみたいだけどなかなか日にちが決定していないみたい。本当にいつになるのか俺も分からないよ。」直哉はぼくに助けを求めるように話をしてきた。
「こういう場合っていうのは2種類あって、むこうが本当に決まっていない場合ともう一つ、むこうはいつでもよろしいですよと言っていただけているにも関わらず、それに手をこまねいてなかなか仲間に話が出来ていない、あるいは意思疎通ができていないかの2種類なんだよ。どっちなんだろうね。」
「河村議員のところに行くだけじゃなくていろいろ行きたいんでしょ?国会以外にも。例えば最高裁判所とか...。一応ゼミ合宿なんだし...。そうすると早めに手を打っておかないと行けるところがいけなくなっちゃうよ。」
ぼくはアドバイスをした。実を言うと、ぼくが大学生だった時に、実は個人旅行で滅多に見られない(これもおかしな話だとは思うが)最高裁判所の見学をしたことがあった。小中高校生の修学旅行のコースで最高裁判所に行くというのは聞いたことがないし、法学部生ならば一度は行っておきたいところではないかと思ったから例で最高裁判所の名前を挙げたのである。さらに、直哉ではなく阿部が河村事務所と直接やり取りしていたので、阿部に対して「早めに手を打つように」言うことが必要だと直哉にアドバイスをしておいた。
研修旅行に関しての動きが活発になったのは2001年10月23日のことだった。直哉はアルバイトのため、急いで帰路につこうと思い、自転車置き場まで狭い南山大学のメイン・ストリートを駆けていた。直哉の視界には河村たかし事務所と連絡をとっている阿部が見えてきた。直哉は阿部に声をかけた。
「阿部くん、加奈ちゃんでも待ってるの?」このやり取りを見ても分かるように、ゼミ生に対してのベクトルが彼にはない。阿部のポジションを「ゼミ生と河村事務所との連絡役である」と定義するのは誤っている。「連絡」ではいけない。自分(たち)の利益を如何に相手に伝えて「相手の利益を調整するか」という役割なのである。特に組織の外部の人との接触の場合に必要なことは、「自分の意見を主張し、相手との妥協点を見つけてそこにうまく落とす」ことであると思うのだ。阿部がこのやり取りや直哉からの意見を聞いてどのように思ったのかは分からないが、ぼくは直哉の意見の方が分があると思う。「そう。」
「そんなことより東京の件はどうなったの?ゼミのみんなも予定が心配だっていう話がいっぱいでてきているよ。」
「河村事務所からはいつでもいいよ、って言ってきたよ。」
「それってどういうこと?」
「いつ本会議が入るか分からないから。だからいつ会えるとも分からないんだよ。ひょっとしたら行っても会えないかもしれないし、たくさん会えるっていうことも考えられるみたいだよ。」
「こっちのスケジュールの調整、特に忙しい先生のスケジュールを調整して河村事務所にこの日にしたいって言った方がいいんじゃないの?」
「........................。明日ゼミでみんなに聞いてみようかと思って。」
「それじゃぁ遅いって。むこうも忙しいかもしれないけどこっちだって先生のご都合をはじめとしてみんないろいろと忙しいんだよ。それを考えないと。先生は11月の上旬は会議がぎっしり入っているって言うし、少なくとも教授会の入る水曜日は避けなきゃいけないよね。さらに準備期間をおいたら11月下旬ぐらいになりそうだってことぐらい分かるだろうよ。そういうことは事前にゼミのメールとか電話で話しておいて、次の日までに考えてきてもらうのが手順ってもんだよ。いいよ、あとはぼくがやるよ。」
翌日のゼミで、日にちが11月29日と30日の1泊2日になり、その間に「衆議院議員会館」「国会議事堂」「マッカーサー・ルーム」「東京証券取引所」に行くことが決定。ぼくのお薦めした最高裁判所は残念ながら行くことができなかった。ホテルはいずれの場所にも近い「オリンピックイン神田」に決定した。
その後、頑丈な「東京研修旅行しおり」を黒田ゼミの中心人物の1人でもある遠藤が中心となって準備を始めた。しかし黒田先生の10月25日の3年生の黒田ゼミでの一言で参加者は膨れ上がった。
「4年生が中心となって実は東京研修に行くことになりました。国会議員とお話できるというまたとない機会を4年生が中心となって作ってくれました。君たちもどうだ?」教室にしばらく沈黙が続いた。その沈黙を打ち破るかのように黒田先生が口を開いた。
「君たちにはこの仕切りができるかな?こういう仕切りができないというのであれば、ここで便乗しておいた方がいいと思うよ。」手がぱらぱらと挙がりはじめた。やがて3年生の黒田ゼミ生の全ての手が挙がった。
「4年生は宇都宮と遠藤が活発にゼミを盛り上げてくれているのですが、ぜひ君たちにもそれを見習ってもらいたいとも思っています。」
この一件があった夜、直哉はぼくの事務所に来た。
「3年生が東京研修に参加することになったんだ。参加者が20名っていうんだからもうびっくりだよ。それ以上にちょっと気になるメールがあってね。プリントアウトしてきたからちょっと見てみてよ。」直哉がぼくにプリントアウトされたメールを渡してきた。差出人は3年生のゼミ生であった。
宇都宮先輩へ はじめまして。わたしは黒田ゼミ法学演習1の浅野一美といいます。 黒田ゼミ演習1はどうやらまだまだ活発になりきれていないので、先輩方の力をお借りすることが多いと思いますが、どうぞ見捨てないでやってください。よろしくお願いします。 ---- 南山大学法学部 浅野 一美 |
彼女たち3年生はいったいこの東京研修旅行に何を望んでいるのだろうか?直哉は当惑した。
「3年生がゼミ活動に活発になりきれていないのはどうしてなのだろうか?指導者っていうのか、司令塔がいないのだろうか。先生がおっしゃった言葉のノリだけで東京に来られても困る。」ぼくに話してきた。
「早合点しちゃダメだよ。"ゼミ活動に活発になりきれていない"んなら、こちらから無理にでも乗せればいいんだよ。黒田先生は"ゼミ活動に活発になりきれていない "3年生にてこ入れしたくて君たちの手腕に期待しているんだよ、きっと。」ぼくは答えた。
「これを機に活発になってもらえばそれはそれでいいし、20人という大所帯で行く盛り上がり方 ってのもあるだろうからそいつに期待してみるしかないね。これを機に3年生独自の盛り上がり方ってのも発見できるだろうし。そうだ!!3年生に調べ学習をやってもらったら?」直哉は言った。
「それはいい考えだと思うよ。結果を期待するとかしないとかじゃなくて、勉強して行ってそれで何か得るものがあれば彼女たちにとっても素晴らしい経験だと思うよ。」ぼくは答えた。さらにぼくは直哉を激励した。
「黒田先生としても、すごく君も含めたゼミの幹部がしっかりやってくれるから、3年生にそういうものを見せたいっていう気持ちもあると思うんだよ。ぜひ頑張ってくれよ。」しかしこういった考え方は、必ずしも直哉のお膝元の4年生にも浸透しているとはいえなかった。
「会いに行けるだけでも意義はあると思う。各自で勉強していったらいいんじゃないか?わざわざしおりなどというものは作る必要はないんじゃないか?」
阿部は直哉の方針に反対した。ゼミの中心的人物の一人である佐竹が阿部の意見に反対した。
「勉強もして行かずに河村議員のところに行くなどということは失礼にあたるだろう。一人一つとまではいかないけど、ある程度の勉強は絶対的に必要だと思う。」
遠藤は違った視点で直哉の意見を支持した。
「阿部は議員に会えるかどうか分からないと言いましたよね。重要なのは勉強することでしょう。議員に会うとか会わないとかはきっかけでしょう。ゼミとして勉強をやるのは当然でしょう。」直哉がこれに加えて言った。
「ぼくはやる気のある奴と一緒に東京に行きたい。みんな卒論とかで忙しいから、個人でやるなんて言ったら3つも4つもやりたいなんて奴だって出てくるんだろうけど、そういう奴も時間的な関係で勉強できないだろう。東京研修を通して勉強したいという人の権利をゼミ幹として保障したいんだ。みんなで分担してそれをまとめて情報をみんなで共有できるようにしておきたいんだ。勉強せずに行ったら絶対みんな後悔するはず。あー勉強しとけばよかった、なんていう轍をみんなに踏ませるような真似はゼミ幹として断固としてさせたくない。」批判の声は他にもあった。
「宇都宮はちょっと管理しすぎなのでは!?」そんな批判もあったが、圧倒的に4年生のゼミ生は直哉支持の方向に傾いていた。
そして完成したものが下の写真である。しおりの中身は、
というラインナップだ。
しおりの表紙は、ちょうど「東京研修旅行」が行われる時にやっていたドラマ「レッツ・ゴー! 永田町」(NTV系毎週水曜日22:00-23:00)のロゴ・マークを参考にして(いや、ほぼパクリといってもいいだろう...)作ったものらしい。遠藤が作ったらしい。そしてしおりの中身は、わずか2週間ほどで作り上げたとは想像しがたいぐらい充実したものであった。
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こうして一通りの準備は完了した。こうしてあとは当日を待つだけとなったのであった。
ぼくは2001年11月29日午後10時00分にはもう名古屋駅にいた。集合時間までちょっと時間があったので、この作品の下書きを執筆していた。下の左の写真にあるのがその様子だ。名駅から名古屋のぼくのスタジオは近いので歩いてきた。この日は昼間は寒かったが、寒さ対策をきちんと施したせいか、暖かかった。だからバスターミナル近くの軽食店でアイスコーヒーを飲んだ。
その後、直哉を含む南山大学法学部黒田ゼミのメンバーが合流した。3年生・4年生合計14名が合流した。次の日の朝に残りのメンバーが合流する。参加者メンバーの多くが駅構内にあるコンビニエンス・ストアで、ビールや発泡酒、日本酒など10数本やお菓子を買い込み、「ドリームなごや4号」に乗り込んだ。上部の右写真のとおり、午後11時30分の出発であった。
バスの中ではまずコンビニで買ったお菓子類を食べていた。やがてバスは東名高速の名古屋ICへと向かった。車内はもう消灯時間をすぎていたが、周りの様子も気にしながら、ゼミ生はお菓子類を次々と口の中に入れていた。
一方のぼくたち"KASHIROMAN.COM"のスタッフは、夜行バスを追いかけながら、車の中で取材しているスタッフの報告を逐一受けていた。ぼくも車の中にいた。ぼくが直哉の声を直に聞けたのは、三ケ日付近で下りた翌11月29日の午前1時00分頃だった。
「バスの中はみんなまだ起きてたみたいだよ。それにしても雅子様はどうなの?もしも...ってなことがあったら皇居に行けないでしょ?」最新ニュースをぼくに尋ねてきた。この時、実は皇太子妃雅子様のご出産が間近だったのである。もし、お産まれになるようなことがあれば、おそらく皇居は閉鎖されるに違いない...。そう読んでいたから、直哉はぼくに質問を投げかけてきたのだ。
「何もニュースは来ていないから大丈夫だと思うよ。それよりあんた寝なきゃいかんよ!!明日はきついんだから...。」直哉はそう言って仲間の下に帰っていった。「分かってるって!!」
それからバスを再び東名高速を東へ走らせ、東京へと向かった。次にバスが停まったのは運転手交代のためで、その場所が静岡営業所。次に停まったのが足柄にあるサービスエリアであった。時間は早朝の3時30分は過ぎていただろう。乗客の皆さんは熟睡中なのか、さすがにバスから出てくるお客さんは少なかった。出てきたのは直哉と佐竹と遠藤の3人ぐらいで、スタッフの取材によれば、それ以外の黒田ゼミ生でバスから降りた人間は2・3人程度だった。ぼくは直哉と佐竹を早速追ってみた。
「腹減ったな。何か食べようか?」話を持ちかけたのは直哉の方からであった。佐竹はこの話のフリには驚いていたが佐竹自身も、
「何食べようか?」と話を合わせてきた。ちょっとした沈黙が続いた。佐竹は直哉に話をしようと思ってしゃべりかけた。しかしもうそこに直哉の姿はなかった。佐竹は直哉の姿を追った。佐竹が気付いた時、直哉はすでに「アメリカン・ドッグ」を買っていた。それを遅れてバスから降りてきた遠藤も見ていた。
「もう3時30分だよ。よく食べるなぁ。こんな時間に。」とまるで遠藤も他人事であった。
このように直哉の姿に呆れていた2人であったが、結局遠藤は「アイスクリーム」を、佐竹に至っては「ラーメン」を食べて「からあげ」に「焼きおにぎり」に「雪見だいふく」を購入するという始末。このトリオの食欲は東京に行っても続くことになるのだが...。
3人はバスの中に戻った。直哉がまずアメリカン・ドッグの包装を開けようとした。しかしバスの中は暗い。そこで手元にあった読書灯を付けようと、読書灯のある荷物置きの棚に手をやった。その時である。バス中に耳を強く刺激するような大きな音が鳴り響いた。
「ピー」シーンとしたバスの中に鼓膜を気持ち悪く揺らす音が響いた。と同時に不気味な赤いランプがバス中についた。
「バスを降ります。」バスはまだSAに停まっている。直哉は読書灯と間違えて停車ボタンを押してしまったのだ。これはあとで聞いた話だが、あの「ピー」という音で目を覚ました人がかなりいたらしい...。しかし当の本人は全く反省の色がない。それどころか支給されていた毛布に顔をうずめてクスクスと笑っていたのだ。遠藤と佐竹も笑いをこらえるのに必死だった。
やがて、直哉の笑いが収まった。と思ったら熟睡していた。この図太い神経はどこから来るのだろうか。呆れてしまう。
バスは東名高速を降り、霞が関を通過して終点の東京駅に着いた...。
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