時空の旅人
-難波・大坂・大阪-


Produced & Written by Kashiroman

目次


  1. はじめに
  2. 大阪までの旅
  3. 大坂への旅 -大阪城探訪-
  4. 難波への旅 -難波宮探訪-
  5. 現代に翔ける旅 -大阪歴史博物館を訪ねて-
  6. 大阪の街を歩く旅
  7. スタッフ・クレジット

1. はじめに


ぼくは歴史の探索をする旅をして散文を書くことが好きだ。過去には、「明治の京都を訪ねて」という作品も書いている。また、これは歴史探索の旅ではないけれども、東京の歴史も記した「ORTEGA」という作品や、ぼくのスペイン旅行記2作(「エル・ソル・イ・ラ・ルナ」と「510」)も、街の「歴史」について多く言及している。つまり、ぼくの「旅」というのは、「歴史」を感じるという行為を抜きして、存在し得ないものと言っても過言ではないと思う。

ぼくがまだ小学生だった頃、歴史や伝記の本を多読した。なぜ読み始めたのかはよく覚えていない。親に近所の図書館に連れられて、偉い人の本を読むように薦められたからかもしれない...。テレビの時代劇の影響で読み始めたかもしれない...。いずれにせよ、昔から歴史が好きだったという事実は確かなことである(詳しいかはどうかは別として...)。

現在ももちろん好きだ。しかし今は高校生頃までのように、ひたすら歴史の「知識」を増やすことに躍起になっているわけではない。最近は「知識」を増やすこと以上に歴史を「感じる」ことに対して喜びを感じられるようになった。史跡に立って昔の人の生活を何となく想像してみたりする。当時の為政者の政策を一般の人たちはどのように受け止め、どのように都市(まち)が変化したのかを史跡を見て感じてみる...。風の音を聴く、風が運ぶ都市(まち)の香りを嗅ぐ...昔の人は今こうやって吹いている風をどのように感じたのだろうか...。まるで時を超えて旅をしているかのような気分になる。

日常生活の場から離れ、「現在」という場を離れ、時空を行ったり来たりする...それがぼくの「旅」の仕方なのかもしれない。

今回は「大阪」という場所を選んでみた。大阪は、大阪駅や関西空港などといった交通の起点となるような場所には行ったことがあったものの、実際に街を散策して、時空を超えた「旅」をしたことはなかった。大阪は天下の名城「大阪城」があるし、幕末から明治の初期にかけては、大阪が日本の首都になるかもしれないという話もあるなど、日本の歴史を大きく動かした場所でもある。実は大阪の街をゆっくりと歩いたことがぼくにはなかった。日本の歴史でも重要な拠点となった大阪という場所には一度行ってみたかった。そこでブラりと大阪まで旅することにした。

また例によって忙しい...。ということで、今回も日帰り。だから行くところはかなり限られる。だから今回は大阪城を中心に周ってみようと思う。

時空の旅が今始まる...。


2. 大阪までの旅


大阪行きを実行したのは2003年7月20日。今回は一人旅である。マネージャーすら連れて行っていない。正真正銘の一人旅である。

目的地に着くまでのプロセスを楽しむのも旅の醍醐味である。よほど遠いところにでも行かない限り、ぼくは極力新幹線を使わないようにしている。新幹線は速くて防音壁があるために車窓からの景色がほとんど見えないし、他のお客さんの乗降の様子を楽しむこともできない(言葉がだんだんと変わっていく様は特に面白い)。車は最近でこそ少し自分でも乗るようになったが、基本的には自分に合った乗り物ではない。道路地図を見ながら未知の土地に自身の力で乗り込む面白さはあると思うが、景色を存分に楽しみたいと思うぼくにとって、運転という行為はよそ見ができないため、ぼくの旅(性格)にはあまり適さない。だから私鉄や在来線を使うことがほとんどである。

今回はJRを使った。名古屋からであれば、近鉄のアーバンライナーという特急で「難波」行に乗れば速くしかも快適に目的地まで行くことができるが、「旅」はやっぱりのんびり行きたい。「日帰りで大阪でのんびり」というのは贅沢かもしれないが、旅のプロセスもまた楽しみである。

[名古屋からの運賃・所要時間]
- JR在来線 新幹線 アーバンライナー
会社 JR東海&JR西日本
(東海道線)
JR東海
(東海道新幹線)
近畿日本鉄道
(名古屋線・大阪線)
(難波線)
目的地 大阪駅 新大阪駅 近鉄難波駅
運賃 3,260円 こだま 6,180円 (自由席) 4,150円 (特急料金含)
ひかり
のぞみ 6,640円
平均的
所要時間
2時間35分ぐらい こだま 1時間5分ぐらい 2時間6分ぐらい
ひかり 57分ぐらい
のぞみ 51分ぐらい
備考 新快速を乗り継いだ最短時間で算定。 運賃は自由席乗車時で算定(「のぞみ」は除く)。
新幹線の特急料金は、2003年7月20日付で算定しています。
所要時間は、アーバンライナーを利用した時の時間を記しています。

前日まで、KASHIROMAN.COMの名古屋のオフィスで、新しい作品の原稿の執筆とミーティングを夜遅くまで行なっていたため、朝起きた時は少々眠かったが、予定時刻通り、JR名古屋駅午前7:00発の区間快速米原行き(列車番号; 5401F)に乗車した。

電車は岐阜までは北西を目指してほぼ直線的に進んでいく。岐阜駅に差し掛かるところで線路が高架され、西に向かって線路がカーブを描く。岐阜駅は東西に拡がる駅である。新快速はここから各駅停車となる。今度は西に向かって線路は進んでいく。大垣を過ぎたあたりから濃尾平野から山の景色へと変化していく。伊吹山(1,377m)を中心とした伊吹山地の景色である。濃尾平野から伊吹山地の景色へと車窓が変化している場所こそ関ヶ原の戦いの舞台となったところである。その辺りに関ヶ原駅が存在する(日本の三大関所の1つの「不破の関」もこの辺りに存在する)。そんなに大きな駅ではないが、駅には観光客向けなのか、関ヶ原の戦いに参加した主だった武将の名前が並んだ看板が立てられている。

電車が南寄りに進路を変更したところに終着駅「米原駅」が存在する。この周辺は交通の分岐点である。JRも京都や大阪方面に向かう東海道線と敦賀や金沢へ向かう北陸本線が分かれるところでもあるし、道路でも名神高速道路と北陸自動車道のジャンクションになっている。駅も新幹線の駅があり、重要な駅の一つである。

米原駅には午前8:07に到着した。下車後、走って向かいのホームに停まっていたJR西日本の新快速の車両に乗り込んだ。この区間の最新鋭の電車223系である。223系は、阪神大震災(1995年)後に東海道線の需要の増強のために1995年に登場した車両である(1000番)。さらに、新快速の終日130km/h運転を実現させるため、1000番を補強する形で1999年に登場した車両が2000番と3000番である。1000番と2000・3000番との違いはライトの形状などである。

[JRを代表する2つの快速列車]
- 223系
(2000番・3000番)
313系
(0番・300番)
在籍 JR西日本 JR東海
運転開始 1999年 1999年
最高速度 時速130km 時速120km
シート 転換式クロスシート 転換式クロスシート
区間 長浜-神戸 米原-浜松
画像 223系 313系
写真の撮影日は旅行日ではない(撮影日は不明)...。

話は横道にそれるが、電車は関西の方が進んでいると言われることがある。自動改札機の導入や一度に小銭をたくさん入れられる券売機などは関西が発祥なのだそうだ。また、電車の中を見ても、関東を走っている電車の蛍光灯がむき出しになっている電車が多いのに対して、関西は蛍光灯にカバーが被さっている車両が多い。こういった現象(傾向)は、関東と関西とでは鉄道網の環境が違うから起こるそうである。例えば、関東の私鉄のターミナル駅はJRの駅に接続している(例えば新宿駅など)のに対して、関西の私鉄のターミナル駅はJRと独立している(例えばJR大阪駅と阪急梅田駅)のに加え、会社独自に持っているというケースがあったりとその相違はいろいろある。いろいろと調べてみると、面白い違いが出てくる。電車が好きな人はぜひ比較をしてみるといいであろう。

電車は米原駅を午前8:11に出発(列車番号; 3215M)。JR西日本の管轄に入った東海道線は、琵琶湖の南東の縁の型に合わせるかのように走っている。

ところで、琵琶湖を有する滋賀県のエリアは昔は「近江」と呼ばれていたということは知っている人も多かろう。「近江」とは字の如く「江(=湖)が近い」という意味なのだが、どこから近いのかといえば都から近いという意味である。つまり、「近江」とは、「都から近い湖のある地域」を意味するのである。しかしながら、なぜわざわざ「都から近い湖のある地域」という名前が付いたのだろうか。その答えは実にシンプルである。「都から近い湖のある地域」とは反対の「都から遠い湖」が日本には存在するからである。その湖がある地域のことを「遠江(とおとうみ)」と呼ぶ。現在の静岡県の西部の地域だ。静岡県西部にある有名な湖... 実は「浜名湖」のことである。日本の地名にも外国の地名にも、地名には様々なドラマやエピソードが隠れていることが多い。ぜひみなさんもみなさんの周りの由来などについて調べて見ると新たな発見があって面白いとぼくは思うけれどもいかがであろうか。

さて、電車は、江戸時代には井伊家の城下町として発展した彦根を通過し、聖徳太子が建てた百済寺に行ける最寄り駅の能登川駅、豊臣秀次によって作られた城下町の近江八幡、日本一大きな銅鐸が出土した町の野洲(野洲駅は、京都総合運転所野洲派出所があるため、この駅の始発・終着の列車が多い)の駅、中山道の宿場町として発展した守山、東海道と中山道が合流していた草津の駅に停車。線路は草津駅から複々線区間に入り、石山寺最寄の駅の石山駅そして滋賀県の県庁所在地である大津を通過する。ここまでは駅が近くなると家が多くなり、駅周辺にはショッピングセンターが立ち並び、駅を過ぎると家がだんだんと少なくなり、やがては田んぼと畑しかなくなる...そしてまた快速が停まるような駅に近づくと家が多くなり...の繰り返しがしばらく続く。しかし大津駅を越えると車窓の様子に変化が見られる。壬申の乱後に天武天皇の手によって作られたといわれる「逢坂の関」(百人一首にも出てくる関所である)があった付近を通過するとトンネルが多くなる(「逢坂山トンネル」という名前のトンネルがある)。京都の入り口であるという目印みたいなものだ。トンネル地帯の中間地点にある駅が山科駅である。JR湖西線と接続する。琵琶湖の西を沿うような形で線路が走っている。山科駅を越えて、トンネル地帯を潜り抜けると京都駅に到達する。33番線を有する日本で一番多くのプラットホームを持つ駅で(実際は休番も存在し、東京駅の方が使われているホームの数は多い)、JR山陰本線やJR奈良線への接続もある。京都駅を過ぎると、車窓はまた台地を思わせるような風景が続く。やがて大阪府に入り、最初に停まる駅は高槻駅である。ここはJR西日本の吹田工場高槻派出所があるため、始発終着の列車が多い。これを過ぎると、新幹線が開業した年に誕生した新大阪駅に到着する。各地の特急の始発駅としても機能している。

新大阪駅を過ぎ、やがて大阪駅16番線に午前9時29分に到着。忘れ物がないかを確かめ、東海道線の下りホームに降り立った。どんよりとした感じだったが雨は降りそうにもない天気であった。当初の計画ではこのまま環状線に乗り換えて大阪城公園駅まで行こうと思ったが、電車が好きなぼくはしばらく駅を歩いてみようと思い、全ての番線のホームに立ち寄った後、改札を出て、駅舎内を歩いてみた。駅は阪神・阪神・阪神である。例年は、あれだけ弱そうに見える阪神タイガースのロゴ・マークも、今年ばかりはなぜか強そうにしかもカッコよく見える...。中日ドラゴンズからレンタルしてやっている(笑)星野監督のおかげで、2003年シーズンの阪神は随分強くなって18年振りに優勝した。金本や伊良部といったベテランがチームにいい効果を与えているらしい。

再び改札近くまで帰ってきた。そして近くの券売機で切符を購入した。ついに大坂への旅の切符を手にした...。今、その旅が始まろうとしていた...。


3. 大坂への旅 -大阪城探訪-


ぼくは環状線のホームへと向かった。大阪駅から大阪城公園駅まで行くには外回りで行った方が速いため、早速外回り(京橋方面)の列車が停まるホームへと向かった。

環状線のホームに着いて嬉しかったのは、JR東海ではあまり見かけない車両が走っていたことだ。シャッターを切らないなんていうことはない。早速デジカメのシャッターを切った。環状線の車両を見てちょっとした感動をしていたため、ホームで10分ぐらい時間を食った。普通の人から見れば、単なる時間のロスかもしれないが、ぼくにとっては至福の10分である。

環状線に乗り、天満-桜ノ宮-京橋と停車し、大阪城公園駅に到着した。駅の改札付近には大阪城公園の模型が飾ってあった。それを眺めることまた10分...。模型の写真も撮った。ガラスケースの中にあるため、フラッシュの反射を防ぐためにフラッシュ機能をオフにし、蛍光灯の光が反射しない角度を計算した上でそれをカメラにおさめた。

大阪城公園模型
[JR大阪城公園駅内の大阪城公園模型]

大阪城公園駅は高架駅のため、階段で下まで降り、駅と大阪城公園を挟む道路(玉造筋)を渡り、大阪城公園の入り口に入った。公園はまだ午前10時を少し回ったばかりということもあってか、人も疎らにいるだけであった。公園内にあった看板を見ながら大阪城の天守閣の方向に歩いていった。

途中、大坂城ホールの入り口付近に立ち寄った。この日は、夕方から松任谷由実さんのコンサートがあるらしい。松任谷さんのコンサートは、1980年代頃から「ビジュアル・コンサート」ネーミングで、派手な演出のコンサートが行なわれてきた。今でこそ、アーティストのコンサートはいろいろな演出が加えられているが、松任谷さんはその元祖に当たるそうである。ぼくの好きなTM NETWORK(TMN)のコンサートやX JAPANのコンサートもど派手な演出で観客を魅了して止まないが(というより自分が魅了されていると言った方がいいのかもしれないが...)、派手なコンサートが好きなぼくとしては、映像でもいいので松任谷さんのコンサートは一度見てみたいとは思っている。大坂城ホールは、2003年9月に行なわれた「世界柔道」の会場にもなった場所で、この他にも年中通して様々なイベントが行なわれるようである。

大坂城ホールの東側には水上バスの乗り場があった。乗り場の近くでは水上バスのビラを配っており、ぼくもそれをもらった。水上バスのアクアライナーのコースの説明や乗船料などの説明が書いてあった。平野川(第二寝屋川)にある大阪城港を出発し、新鴨野橋、寝屋川橋を渡って天満橋に抜け(天満橋港)、さらに西に進んで土佐堀川に入って淀屋橋港に停まり、その後天満橋方向へ戻って堂島川に入り、難波橋まで回ってからさらに北上し、桜の宮公園や造幣局の沿岸を通り、桜宮橋を渡り、OAP港に到着する。OAP港を出発後は、再び寝屋川橋、新鴨野橋を通って大阪城港に着くという1時間の周遊ができるようになっているそうである(出発港はどこからでもよい)。また、大阪城港-天満橋港間などのように、区間乗船もできるようである。1時間に1便の運航である。周遊で1時間(1回)乗船すると大人1人で1600円である。アクアライナーに少し興味を持ったぼくは乗船場まで足を運んでみた。すると、大阪城の入場料と水上バスの乗車運賃とセットで購入すると割安になるというサービスがあることが分かった。なるほど、「お得」だと思った。しかしネックになったのは「時間」である。ぼくは今回の旅行で一番行きたかった場所は「大阪城」である。したがって、時間の制約を外してのんびりと展示品などを見たい。ぼくはこの手の博物館とか美術館に1度入ると、3時間や4時間は大概は出てこない。もし、ここで何時のアクアライナーに乗船しようと決めて大阪城に入城したとしたら、おそらくのんびりと展示品を見る「余裕」はなくなってしまうのではないかとぼくは考えた。それでは意味がない。だから、若干割高になるが、大阪城を見学して、さらにこれから行く予定のある大阪歴史博物館の見学の後に時間が余った時に水上バスは乗ることにしたので、チケットは大坂城の分のものを買うことにした。別の見方をすれば、時間を金で買ったのである。なお、大阪水上バスについては、こちら (>>http://www.keihannet.ne.jp/suijobus/) のホームページを参考にされるとよい。

ぼくは「安売りチケット問題」にケリを付け、北外堀と東外堀の間にある青屋門をくぐった。向かって右の方には観光バスがたくさん並んでいた。多くの家族連れがそこでは見られた。USJ(Universal Studio Japan)のようなテーマパークで人気アトラクションに並んで1日を家族で過ごして楽しむだけでなく、大阪城のような場所に家族で来て、親子で歴史を楽しむことも決して悪くはないなぁと思った。

大阪城天守閣
[大阪城天守閣]

バス駐車場の反対側には大きな大阪城の天守閣が見える。高さは55m。ぼくは一生懸命デジカメのシャッターを切るが、なかなか思うような写真が撮れない。写真というのは難しい...。写真専門のスタッフを連れてくればよかったと若干の後悔...。

現在の大阪城天守閣は、1931年に大阪市民の手によって、「大阪夏の陣屏風」に描かれている大坂城天守閣を参考にして、鉄筋コンクリート作りで復興されたものが基になっており、1997年に外壁の塗り替えや装飾部品の修復、耐震性の強化やエレベーターの設置なども行なわれ、歴史博物館としての機能もさらに充実させ(「平成の大改修」でバリアフリー化も行ない、誰にでも優しい博物館になっている)、現在に至っている。現在の大阪城は3代目である(大阪城の歴史は後術)。

チケットを買って検札を通った後、極楽橋を渡り、いよいよ天守閣に入る。入場料は高校生以上が600円で中学生以下は無料である。中学生以下が無料というのは驚きである。

天守閣に入ると、インフォメーションコーナーやお土産売り場(ミュージアムショップ)、シアタールームがある。もちろんパンフレットもあるが、日本語だけでなく、英語・中国語・ハングル語のパンフレットも用意されていた。ぼくの周りには、中国語や英語がかなり飛び交っていた。外国人にも大阪城は人気のようだ。ただ、残念だったのは、一生懸命勉強しているスペイン語の案内がなかったことだ。

天守閣は8階建て。見学の順路は、どうやら最上階の8階からのようだ。中に設置されていたエレベーターを使ってもよかったが、高さを実感したいがためにわざわざ階段を使って8階まで一気に駆け上がった、天守閣の最上階から大阪の街を展望したい一心で...。普段の運動不足が祟ってか、少し疲れた。

天守閣8階は展望台。だいたい50mの高さなのだそうだ。天守閣に入る前まではどんよりとしていたが、天守閣に上った頃には日差しがあたる程度まで回復していた。スタッフからの情報によると、この時間は名古屋は雨が降っていたのだそうだ。


[天守閣展望台から南方を望む]
(画面右の2つのビル; 左が大阪歴史博物館・右がNHK大阪放送会館)

行った日は、遠くの景色が見えるほど快晴ではなかったにせよ、上の写真の大阪歴史博物館やNHK大阪放送会館やそれらをつなぐ半球状の建物以外にも、大阪近鉄バッファローズの本拠地でもある大阪ドームをはじめ、大阪府庁、通天閣、大阪ビジネスパークにあるツイン21などをはじめとするビル群など、現代の大阪を代表するような多くの建物を大阪城から眺めることができた。

8階には、展望台以外にもお土産売り場があったり、昔の大阪の風景を見ることができるステレオスコープ「なにわ風景」などがあったりと、誰もが楽しめるフロアになっていた。バリアフリーにも気が配ってあり、車椅子のまま展望台に出ることも可能な構造になっていた。

階段を下って7階に向かった。7階は、大坂城を築城した豊臣秀吉の生涯についてのユニークな展示があった。その代表は「からくり太閤記」と呼ばれる展示だ。豊臣秀吉の生涯を、19のブースに分けて分かりやすく紹介したものである。1つのブースの中にミニチュア模型が置かれていて、その中をミラービジョンに映し出される秀吉や信長が動いて(台詞も付いて)、30秒程の劇がそれぞれのブースで行なわれる。

  1. 日吉丸誕生 -尾張の百姓家に生まれる-
  2. 蜂須賀小六との出会い -放浪する秀吉-
  3. ぞうり取り -織田信長に仕える-
  4. おねとの結婚 -身に過ぎた賢妻-
  5. 清洲城割り普請 -わずか3日で城を修復-
  6. 高松城水攻め -中国地方の平定に活躍-
  7. 信長葬儀 -京都、大徳寺にて信長の葬儀を行う-
  8. 賤ヶ岳合戦 -ライバル柴田勝家をやぶる-
  9. 大坂築城 -天下統一の拠点-
  10. 小牧・長久手合戦 -強敵、徳川家康と対決-
  11. 北野大茶会 -京都・北野にて空前絶後の茶会をひらく-
  12. 聚楽第行幸 -天皇を屋敷にまねいて大宴会-
  13. 小田原攻め -北条氏をたおし、天下統一ほぼ完成-
  14. 太閣検地 -天下統一の足がため-
  15. 大仏建立 -京都・方広寺に大仏をつくる-
  16. 朝鮮出兵 -九州・名護屋城まで遠征-
  17. 関白秀次追放事件 -秀吉のあと継ぎは?-
  18. 醍醐の花見 -秀吉最後の大宴会-
  19. 臨終

全部見ると約20分かかる。個人的に残念なのは、秀吉の伝記で一番好きな姉川の合戦で浅井・朝倉連合軍に信長軍が敗れ、殿(しんがり)を秀吉がつとめた時の信長と秀吉の「また岐阜で会おう」という感動的な場面がここになかったことだ(上の順序で言えば5.と6.の間)。「おねとの結婚 -身に過ぎた賢妻-」のところで、「ワシは城持ち大名になる」と言っておきながら、初めて城持ち大名になった場面がないなど、ストーリーの展開で若干納得できないところはあったが、トータルではユニークで興味をそそられる内容であった。

7階には、「早わかり大阪城史」のパート1として、「石山本願寺時代」の大坂城(?)の様子が模型・パネル等を使って説明されていた。

大坂城は豊臣秀吉が築城した城であることは周知の通りであるが、秀吉の前の時代は本願寺と信長の時代であった。

- 出来事
石山本願寺の時代 1496年 本願寺8世の蓮如が一向宗の坊舎を上坂(うえさか)台地の頂上に建てる。
1532年 山科本願寺が細川晴元や六角定頼や法華宗徒らにより焼き討ちにされた後、本願寺10世の証如が大坂の坊舎を本願寺の本山とする。
1570年 織田信長が11世顕如との石山合戦を始める。顕如は信長包囲網を敷き、各地でも一向一揆が起こる。
1580年 石山合戦終結。伽藍などは焼失。この地に信長は城番を置き、四国征伐の拠点にするよう、準備を始める。
1582年 織田信長が本能寺の変で死亡する。

室町時代中期から後期にかけて、一向宗(浄土真宗)は民衆信仰の頂点を極めたが、その時期に一向宗のリーダーとして君臨していたのが蓮如である。蓮如は、大坂湾と淀川、大和川に臨む上坂台地に坊舎を建てることで、摂津地方や播磨地方や紀州、さらには海運を通じて瀬戸内海から四国への布教活動を考えていた。

1532年に本山であった山科の本願寺が細川晴元らによって焼き討ちにされた後、本山を上坂台地の坊舎に移転し、各地の門徒から寄進を受けて壮大な伽藍を聳え立たせ、城造りの名人を加賀から派遣して城郭を形成していく。周囲には10町からなる「寺内町」を形成し、商業都市の堺にも肩を並べるほどの繁栄を見せるようになってくる。この寺内町には、守護や戦国大名などの介入を拒み、自由な生産・交易・生活空間を保障する「寺内特権」が存在し、これが寺内町の発展にもつながっていった。

しかし、「天下布武」をキャッチコピーにして戦国の世を統一しようという戦国大名の織田信長にとって、大坂にある「寺内町」は統制下に置きたい場所である。織田信長は、10年をかけて「石山合戦」を行なうことになる。当初は、本願寺に迫っていたが堅固な城郭に阻まれて失敗を重ねていた。そこで「兵糧攻め」を敢行し、1577年に「木津川沖の海戦」によって本願寺も加担していた毛利水軍を信長軍が破ると、本願寺は疲弊し、1580年についに本願寺は大坂を明け渡すことになる。

織田信長が10年を費やしてまでも大坂を奪いたかったのは、かつて蓮如が大坂から摂津地方や播磨地方や紀州、さらには海運を通じて瀬戸内海から四国への布教活動を考えていたのと同様に、瀬戸内海や九州征伐の拠点にしたかったためである。信長は城番を置き、四国征伐の拠点にしたが、心半ばにして本能寺で明智光秀によって殺される。その夢を受け継いだのが羽柴筑前守秀吉である。

そんな説明を読んだ後、ぼくは5階に降り立った。6階は城の構造上、何もない。5階は、「大坂夏の陣図屏風の世界」と題して、大坂夏の陣にまつわる様々な資料(屏風はもちろんであるが、松平忠直と真田幸村の激戦の様子をミニチュア人形で再現するコーナー)で、分かりやすく解説してくれるフロアである。

ここで、豊臣秀吉時代の大坂城の歴史について概観したいと思う。

[豊臣秀吉の天下統一事業と大坂城]
- 出来事
秀吉時代の大坂城 1583年 大坂城の築城を始める
賤ヶ岳の戦い (vs柴田勝家)
1584年 小牧長久手の戦い (vs織田信雄・徳川家康)
1585年 四国平定 (vs長宗我部元親)
大坂城天守が完成。羽柴秀吉が関白に任ぜられる。
1586年 太政大臣に任命。「豊臣」姓を賜る。
1587年 九州平定 (vs島津義久)
1590年 関東平定 (vs北条氏政・氏直)
奥州平定 (vs伊達政宗)。ここで天下統一が果たされる。
1598年 豊臣秀吉死去
1615年 大坂夏の陣により、大坂城炎上。

織田信長が本能寺の変で暗殺された後、天下統一の野望は豊臣秀吉が受け継ぐことになる。それと同時に、大坂の西国支配の拠点としての戦略的意図も信長から受け継ぎ、巨大な城を構築し始めた。これが豊臣秀吉の大坂城の始まりである。秀吉は、相次いで天下取りのための戦いを行なっていたが、大坂城及び大坂城周辺の街作りも着々と進めていった。1585年には本丸と天守が完成、さらに3年を費やして二の丸、西の丸を築いていった。

織田信長や豊臣秀吉が大坂に来る前までは、大坂城付近は本願寺の「寺内町」として発展したということは前述したとおりだが、豊臣秀吉による街作りによって、中世時代の経済力を吸収して「城下町」として発展した。

豊臣秀吉が「露と落ち露と消えにし我が身かな 浪速のことも夢のまた夢」という時世の句を詠んで死去したのが1598年のことであった。その後、京都の伏見城にいた遺児の豊臣秀頼と淀君が大坂城に入る。しかし時代は徳川家康のものとなっていた。徳川家康が「会津征伐(上杉景勝が大坂城に徳川家康に対して挨拶に来ないため、秀頼に対して「謀反」の疑いをかけ、自ら出兵した)」に出かける前までは大坂城西の丸で政務を取り仕切っていた。家康に対する反発心が最高潮に達した時、「関ヶ原の戦い」が起こった。結果は毛利輝元や石田三成らの反家康軍が敗れた。1603年に徳川家康が江戸に幕府を開き、あとは大坂にいる豊臣家だけが自分の目の上のたんこぶになっていた。

徳川家康と豊臣秀頼が二条城で会った時、秀頼の成長に驚きを隠しきれなかった家康は、ついに豊臣家征伐を敢行する。「方広寺大仏殿」の落慶の際に鐘銘に記された「国家安康」という文字に難癖をつけた事件をきっかけに、「大坂冬の陣」が始まる。家康軍は難攻不落の大坂城に加え真田丸という砦の攻略にも苦戦を強いられ、夜に空大砲を撃つなどの心理作戦に切り替え、講和して一時休戦した。講和の条件は、「本丸以外の二の丸、三の丸は壊し、堀を埋める」というものであった。徳川軍は、大坂城の外堀と惣掘を埋め、大坂城を裸城にしてしまった。その後、徳川家康は大坂城を攻め、秀頼・淀君らは自刃し、ついに豊臣秀吉時代の大坂城は灰燼に帰してしまったのであった。ちなみに、この一度講和条約を結んだ後に堀を埋めてから大坂城に総攻撃をかけるという戦い方は、かつて秀吉が家康を大坂城の天守閣に呼んだ時に、家康に対して堅守な作りの大坂城を自慢するために得意気になって話をした内容ほぼそのままであったらしい。家康は「城攻め」はどちらかというと苦手であったらしく(家康は野戦を得意とした武将であった)、大坂城を攻める時に秀吉の「自慢話」の内容を拝借したのかもしれない...。勝手ながらもそう思ってしまった。

現在の大阪城の5階は、秀吉時代の大坂城の最期となった事件である「大坂夏の陣」が大きく取り上げられたフロアである。このフロアのメインと言ってもよいのが「大坂夏の陣図屏風」に描かれている場面の詳しくてかつ分かりやすい解説をしてくれる「大坂夏の陣パノラマビジョン」である。大坂城の展示の中で一番感動したのが「大坂夏の陣パノラマビジョン」である。この屏風絵の見方が大きく変わったからだ。ぼくの今までの見方というのはやはり武将が中心だった。家康の馬印だとか真田幸村隊の赤で統一された鎧兜の様子など、どこにどんな武将がいるのかを中心に見ていた。ところが、大坂夏の陣の中で逃げ惑う女性の姿や武者の姿などにスポットが当たったときにぼくはハッとさせられた。盗賊や郎党などによって着物を脱がされた人たちの姿(着物は高額で売れるために着物を剥いでいった)、武器を取られて逃げ惑う武者たち、淀川を越えようとして溺れかかっている人たちなど、ぼくの目には戦によって傷つき戸惑う人たちの悲痛な叫びが映っていた。

「今も昔も変わらないなぁ...。」

ぼくは思わず呟いた。おそらく鉄砲もなかった時代の合戦から大量破壊が可能な武器が出現した今の時代の戦争に至るまで、戦争には良くも悪しくも「大義」が存在する。しかし、その「大義」のために、決して歴史に名前を残すことのない一般の多くの人の命が失われている歴史があるということを決して忘れてはならない。

ぼくたちはそういったコンテキストの中で生きている。多くの人たちの犠牲の下でぼくたちは生活しているのである。目の前で愛する人が無残に殺されていく... それをぼくはとても他人事だとは思えない。いろんな夢を持った人たち、いろんな才能を持った人たちが他人によって呆気なく殺されてしまうのはやりきれない思いである。その一方で、「人類の歴史」は「人殺し(戦争)の歴史」と言ってもいいぐらい、世の中の転換期には必ずといっていいほど戦争が起きている。戦争によって科学技術も進歩している。実はインターネットの技術も戦争によって加速度的に進歩してきたものだ。科学技術の発展によって人間の生活水準は向上しているとはいえるが、それが戦争を正当化する理由にはなららないであろう。また、金や権力や強さを求めるのも「人間」であるとも言えなくもないが、それを戦争という手段で人殺しをしてまでもこういったものを求めていいものなのだろうか。「戦争」はしてはいけないものであるとよく言われるが、単にそれを言うだけでは「戦争」はなくならない。人間はどうして「人殺し」を行なうのかといった問題を様々な角度から検証して「戦争」の本質を捉えない限り、いつまでたっても地球上からは戦争は消えないであろうとぼくは思う。しかしそれは並大抵ではない、かなり難しい作業になることは間違いない。

閑話休題。この他にも、5階には真田幸村隊と松平忠直隊の激戦の様子をミニチュア人形で再現した「ミニチュア夏の陣」がある。これもなかなかよくできている。

4階と3階は「豊臣秀吉とその時代」と題して、桃山文化と豊臣秀吉のかかわりを中心に展示場がある。もちろん「早わかり大阪城史」のコーナーもある。ここから、4階と3階の「早わかり大阪城史」の内容を紹介しよう。

3階と4階では、大坂夏の陣で焼失してからの大坂城の歴史が学べる。徳川家は、大坂城よりも大坂の街の復興に取り掛かり、町割や河川の開削を行ない、のちに「天下の台所」といわれる経済・流通の基礎を築いた。大坂は幕府の直轄地となった。大坂城は、1620年に幕府が西国大名に再建を命じ、豊臣時代以上に大きな天守閣や石垣を築いた。江戸時代にも落雷などで天守閣や門などが焼失するということもあったが大坂城は「戊辰戦争」の時に完全に焼失するまで、徳川幕府の威光を西国に示すための役割を担った。

展示品としては、3階には有名な豊臣秀吉の黄金茶室が原寸大で展示されていたり、豊臣時代の本丸(縮尺300分の1)と徳川時代の大坂城全域(縮尺350分の1)を精巧な模型で再現してあったりと、歴史的にも有名な大坂城に関連する遺品が展示されている。

2階の「早分かり大阪城」では、明治以降の大阪城の歴史を紹介している。1928年に当時の大阪市長であった関一氏が、昭和天皇の即位を祝う記念事業として大阪城の天守閣の復興を提案した。実は1655年に天守閣に落雷して以来、大阪城には天守閣は存在しなかった。復興にかかる費用は150万円(現在の価値で約750億円)であった。この費用は、市民の寄付でまかなうことになった。当時は不景気であったのにも関わらず寄付金は集められ、住友財閥の当主であった住友吉左衛門氏の25万円を筆頭に、最低10銭までの市民からの寄付金が続々と集まり、わずか半年間で目標額の150万円を達成した。1931年に、鉄骨・鉄筋コンクリートの高さ55mの大阪城の天守閣が蘇った。太平洋戦争では、城内及びその周辺には軍事施設が並んでいたために激しい爆撃に遭い、多くの建造物が破壊されたが大阪城の「天守閣」は生き残った。戦後、周囲の建造物の修復等が行なわれ、1997年の「平成の大改修」などを経て現在に至っている。

2階のその他の展示品としては、大阪城の石垣や鯱などについて学習できるパネルが飾ってある。ちなみに、大阪城の石垣は技術的にもかなり高度なものと言われている(そんなに石垣については詳しくないのでよくは分からないが...)。お城の外で直にそれに触れつつ、大阪城内のパネル展示で詳しく勉強するといいであろう。

大阪城は、「豊臣秀吉歴史博物館」に大阪城の歴史が学べるスペースがあるというような「歴史博物館」のような作りになっている。家族連れでも十分に楽しめる内容になっている。ぜひまた来てみたい。

豊国神社
[豊国神社]

大阪城の天守閣を出た後、豊臣秀吉・豊臣秀頼・豊臣秀長が祀ってある豊国神社でぼく自身やぼくの周りの憎めない友達などを含めた親しい人の、そしてぼくの尊敬する恩師の出世・開運を祈願した後(出世開運の神様として祀ってあるようである)、大手門から大阪城公園を出た。


4. 難波への旅 -難波宮探訪-


大阪城公園を南から出て、阪神高速道路東大阪線の高架をくぐりぬけると、難波宮跡がある。ここは、645年に起こった政治的クーデターの「大化の改新」の後に孝徳天皇が難波長柄豊碕宮[なにわながらのとよさきのみや]に都を移したのだが、難波長柄豊碕宮とはまさにこの場所である。

飛鳥時代から平安時代にかけて、都は次々と変わっている。都が変わることを「遷都 [せんと]」という。

天皇名 宮都名 主な出来事
推古天皇 飛鳥豊浦[とゆら]宮 のちに飛鳥子墾[おはりだ]宮 冠位十二階・憲法十七条 など
舒明天皇 飛鳥岡本宮 第1回遣唐使(630年)
皇極天皇 飛鳥板蓋[いたぶき]宮 大化の改新(645年)
孝徳天皇 難波長柄豊碕宮 改新の詔(646年)
斉明天皇 飛鳥岡本宮を中心 蝦夷討伐(658年)
天智天皇 近江大津宮 庚午年籍(670年)
天武天皇 飛鳥浄御原[きよみはら]宮 八色の姓(684年)
持統天皇 飛鳥浄御原[きよみはら]宮 のちに藤原京 飛鳥浄御原令施行(689年)
文武天皇 藤原京 大宝律令(701年)
元明天皇 藤原京 のちに平城京 蓄銭叙位令(711年)
「古事記」完成(712年)
元正天皇 平城京 三世一身法(723年)
聖武天皇 平城京・恭仁京・難波京・紫香楽宮・平城京 長屋王の変(729年)
藤原広嗣の乱(740年)
墾田永年私財法(743年)
大仏造営の詔(743年)

上の表は、聖徳太子が政治を行なっていた頃の天皇であった推古天皇以降の宮都の変遷とその時代の主な政策や出来事を簡単に表したものである(だいたい高校の教科書レベル)。これを見ても分かるように、この時代の天皇は代が変わった時、また場合によっては代が変わっていないにもかかわらず宮都の場所を変えている。その理由としては、

  1. 天皇一代ごとに都を変えなければならないという「慣例」があったため。
  2. どこかの都が落とされても他の都が政治的な機能を発揮できるようにしておくべきであるという「複都主義」の考え方があったため。宮都の他にも、歴代の天皇たちが離宮を作ったのもその現れである。
  3. 都が火災などの事故に遭った場合に他の都で政治が行なえるようにしておくため。
  4. 天皇の権力を誇示するため。
  5. 政教分離のため。
  6. 人事一新のため。

などといったことが挙げられる。この「難波長柄豊碕宮」は、飛鳥板蓋宮の大極殿で蘇我入鹿が中大兄皇子(のちの天智天皇)や中臣鎌足によって殺されて蘇我蝦夷が自殺をして蘇我氏が滅亡した後に、新たな地で天皇中心の新たな政治を行なおうということで遷都されたのが「難波長柄豊碕宮」であった。その願いは年号にも込められている。日本で最初の年号は「大化」である。「国をきく新しく化させたい」という意味なのだそうだ。

ところで、この地には都が2度置かれている。1度目は孝徳天皇の時代で、「難波長柄豊碕宮(前期難波宮)」と呼ばれた。2度目は、東大寺の大仏を建立した聖武天皇がこの地に都を置いている(744年)。2度目の時代は「難波宮(後期難波宮)」と呼ばれる。その時期の話を少ししたい。

聖武天皇は740年から745年のたった5年間のうちに都を3度変えている。740年に京都(山背国)の恭仁[くに]京に、744年には滋賀県(近江国)の紫香楽[しがらき]宮に、同年に難波宮へ遷都が行なわれた後、745年に平城京に戻っている。

聖武天皇は短期間のうちに遷都を繰り返したのはどうしてだろうか?その理由は様々であろうと思うが、高校の教科書などにはこの時期の政争や疫病の流行などの社会情勢に対して聖武天皇が不安を感じていていたからだと書かれている。


[奈良時代の政争]

奈良時代は、藤原氏とアンチ藤原氏との政治対立の時代であるといっても過言ではない。大化の改新で活躍した中臣鎌足は死ぬ直前に天智天皇から「藤原」姓を賜り、それは息子の不比等[ふひと]に受け継がれていく。不比等もなかなかの政治家であったらしいが藤原氏の台頭に対して快く思わない人たちも出てくる。藤原不比等の死後、天武天皇の孫にあたる長屋王が政治の中心に立つが、「長屋王の変」という政治的クーデターが藤原4兄弟(通常は「藤原四子」と呼ぶ)によって起こされ、長屋王は自殺に追い込まれる。何食わぬ(729年)顔して「長屋王の変」を起こした藤原四子とぼくは年号を覚えた(笑)。しかしその四子も相次いで病気で倒れ、今度はアンチ藤原氏の橘諸兄[たちばなのもろえ]や留学から帰国してきた吉備真備[きびのまきび]や法相宗の坊さんであった玄ム[げんぼう]などが政権の中心に就いた。

難波宮の大極殿跡地
[後期難波宮の大極殿跡地]

聖武天皇が都を頻繁に変え始めたのは「藤原広嗣の乱」が起こってからであった。橘諸兄の一派が政治の表舞台に出てきて快く思っていなかった藤原広嗣が大宰府で反乱を起こした。それが「藤原広嗣の乱」であった。この乱は鎮圧されたが、聖武天皇は度重なる政争や疫病の流行などに対して不安を感じるようになった。聖武天皇は「鎮護国家」の思想で仏教政策に走り(国分寺建設の詔や東大寺の建設はその例)、遷都を繰り返したのである。では、遷都をどうして繰り返したのかと言えば、孝徳天皇が都を変えて新たな時代を作っていこうということを誓ったのと同じように、聖武天皇も都を変えて今の政争や疫病の流行を抑えて気分を一新して政治を行ないたいという思いが強かったからだと思う。実は相次ぐ遷都の中で、この難波の地が選ばれたのだ。西国やアジアの拠点となりうる場所であったからなのだろうか。聖武天皇が都を難波の地にどうして置こうとしたのかの真相はよく分からない。しかしこの地で歴史の息吹を感じられただけでもぼくは幸せだった。

難波宮跡は、約9万平方メートルにもわたり、史跡公園として整備保存されている。

この他にも大阪城公園周辺は、現在の大阪の政治的な中心地であるだけでなく、由緒ある歴史的な建造物や遺跡が数多く存在する。

NHK大阪放送会館と大阪歴史博物館のエントランスホール。当然ながらエントランスホールが歴史的遺構なのではない。エントランスホールの地下には、難波長柄豊碕宮(前期難波宮)の「並び倉庫」の跡が眠っている。そしてそれを見ることができるのだ。大阪城公園の南西にある上町筋の信号を渡ると目の前には幾何学的なデザインをした建物が2つ並ぶ。手前の10階建てのビルが大阪歴史博物館である。奥に見えるのがNHKの大阪放送会館である。そこに着いた時に地面を見ると、コンクリートのブロックが敷き詰められている。しかし注意深く見ると、その中に丸くて赤いコンクリートブロックが混じっている。それは、難波宮で使われいた倉庫の柱の位置と大きさを表したブロックである。決して目で見てそれが倉庫の柱跡を表すものだということは分からない。ぼくも始めてみた時にはそんなものがあるとは知らなかった。このことは大阪歴史博物館でやっていた難波宮跡を見られるツアでボランティアのガイドさんに教えてもらった。そのツアに参加すれば、特別に大阪歴史博物館とNHKの地下にもぐらせてもらい、実際の遺跡を見ることができる。

また、並び倉庫の遺構は大阪歴史博物館のエントランスホールで一部地面がガラス張りになっているところがあり、そこから見ることができるようになっている。NHK大阪会館や大阪歴史博物館のある場所というのは、難波宮跡地の上に建てられているということになる。さらに言うと、大阪歴史博物館の入り口には古墳時代のものと思われる大型倉庫が復元されている。いずれにせよ、古代の日本史が好きな人にとってはたまらない場所であるはずだ。

現代の大阪城周辺の地図

難波宮跡の東側には「歴史の散歩道」が南へと伸びている。「関ヶ原の合戦」の前に細川忠興の夫人のガラシアが石田三成方の人質にされかかったおりに屋敷に火をつけて自害した「越中井」や、その細川ガラシアの像やキリシタン大名であった高山右近の像がある「聖マリア大聖堂」などもある。残念ながら、時間の都合でそれらの場所は行くことができなかったが、今度ぜひ行ってみたいと思う。


5. 現代に翔ける旅 -大阪歴史博物館を訪ねて-


NHKのエントランスホールで、パン2枚とバニラ・プラペチーノだけの簡単な昼食を済ませた後、ぼくは隣の大阪歴史博物館に向かった。といっても、ビルは違っても中ではつながっており、簡単に行くことができる。もちろん、前章で紹介した並び倉庫の柱跡の丸く赤いコンクリートが一定の間隔で存在する。

昼飯前に難波宮跡のツアには参加したので、早速チケットを購入して展示品を見るために受付を済ませた。受付嬢からエレベーターを案内された。どうやら展示は10階から始まるらしい。ぼくはエレベーターに乗り込んだ。

エレベーターという閉ざされた空間は若干薄暗く、小さくBGMがかかっていた。エレベーターはものすごいスピードで上に向かった。

ドアが開いた。まずそこに見えたのは、「大阪の歴史」が一目で分かるプロローグ「水都への誘い」というコーナーがあり、オーロラビジョンにコンピューターグラフィックなどを用いて古代の難波の地形の変化や宮廷の様子の再現などの映像が流れ、これを全部見ると「大阪の歴史」が一通り分かるような仕組みになっている。ここは広々としたホールの正面にスクリーンがあったのだが、ぜひ長椅子でもよいので椅子が若干ほしいところだ。じっくり見ているとなかなか勉強になるからである。

ビデオを全部見終わった後、いよいよ古代の難波の様子を見ていくことになる。

この博物館の作りは次のようになっている。なお、内容欄に書いてあるコメントはぼくが書いたものである。

テーマ 内容
10階 古代 難波宮の時代 難波宮をメインに、その前史などを踏まえ、難波が昔から国際都市であったことを紹介するフロアである。
9階 中世 大坂本願寺の時代 各地に町場ができた。聖徳太子の「天王寺信仰」や寺内町などが各地に出来上がる。その様子を模型などを使って分かりやすく紹介するフロア。
近世 天下の台所の時代 江戸時代に入り、豊臣から徳川へと世の中が変わり、「天下の台所」として大坂は発展。お金の流通の様子を実践的に紹介するコーナーがあり、楽しく分かりやすい。
8階 歴史を掘る・特集展示
近代 大大阪の時代
7階と8階が吹き抜けになっている。8階は「なにわ考古研究所」という子供向けの遊び場があり、模擬発掘やパズルなどを使って遊べるコーナーがある。
7階 近代 大大阪の時代 近代から現代にかけての大阪の様子が展示されている。

それぞれのフロアを順番に見ていくことにしよう。

まずは10階。難波は瀬戸内海・九州へと続き、アジアへの重要な交通の拠点になっていた、いわゆる国際港であったようだ。多くの渡来人も住んでいたらしい。古墳時代から奈良時代に上町台地(大阪城がある付近の難波周辺で高台になっている部分)に国家施設(古墳や都など)が次々と誕生したのは、国際港たる難波津からを国家施設などを仰ぎ見ることができる。このフロアは、国際都市の難波の発展の様子を模型や映像や埴輪などの歴史的遺品などを展示しながら紹介している。後期難波宮を原寸大で再現したものや、当時の儀式の様子を再現した映像など、分かりやすく紹介してくれる。

9階に下りると中世・近世の大坂が広がる。歴史の中心が京都や鎌倉に行っても、大阪は四天王寺の聖徳太子信仰や浄土信仰、住吉大社では和歌信仰という信仰が流行するが、そういった中で寺内町や門前町が各場所で発展する。特に発展した寺内町と言えば、大阪城の章でも述べた大坂本願寺の寺内町である。税を免除し、商売がやりやすくなり、より活気のある町になっていった。しかし織田信長によって自治はなくなって信長による支配があったものの、豊臣秀吉が大阪城を築城すると寺内町から城下町として発展していく。大坂夏の陣により大坂の城下町は廃墟と化すが、幕府の政策により幕府の直轄地となり、政治的には西国に目を光らせながらも次第に「天下の台所」としての役割を担うようになる。こういった中世・近世の様子を、模型や歴史的な遺品などを展示することで紹介している。ここでの注目点は、江戸時代の「貨幣制度」を分かりやすく実践的に紹介してくれるコーナーだ。ここには両替商がやっていた仕事をボランティアが実践してくれる。今の金融機関の多くは、江戸時代にできた両替商から来ているという説明や(もちろん知っていたが...)、金・銀・匁の単位についての説明、江戸と大坂とでは流通している貨幣が違っていたので両替商という商売が生まれたという話をしてくれながら、実際に貨幣を触って(もちろん模型だが)丁寧に解説してくれる。これはなかなか面白い。高校の日本史の授業でもそういう説明は行なわれるが、やはりこちらの方が分かりやすい。子供も理解していたようだった。

完成した後期難波宮大極殿跡の絵のパズル
[完成した後期難波宮大極殿跡の絵のパズル]
(諸事情のため、モザイクを入れました)

8階は「なにわ考古研究所」と題して、発掘作業をシミュレーションできたり、パズルを完成させて大阪所縁の歴史的建造物を完成させたりと子供が楽しく遊べるフロアである。ぼくも大人気なく一生懸命パズルを完成させていた。殺気立っていた(!?)せいか、周りには誰も人が寄ってこなかったばかりか、怪訝な目で見られていたようだった。周りは子供ばかり。大人が椅子に座ってパズルをやっていたのはぼく一人だったから仕方ないのかもしれないが...。

7階は近代・現代を紹介するフロアである。戊辰戦争で徳川慶喜が大坂城から脱走し、やがて大坂城は全焼する。首都移転問題で、日本の首都を大坂にすべきだという「大阪遷都論」というのが大久保利通によって建議されたのだが、結局事実上京都から東京に都が移された(詳しくは拙稿「明治の京都を訪ねて」)。大阪は一時期不景気で悩まされるが、造幣局が作られ、紡績工場が建設されて、一転して大阪は「煙の都」とも呼ばれるほどの工業都市へと成長する。煤煙問題なども起こったが大衆文化も花開く。しかし太平洋戦争の空襲等で大阪は壊滅的なダメージを受けた。戦後は経済を中心に大阪の街は発展するが次々と歴史的な堀が埋め立てられる。現在は歴史と共存する新しい都市像を模索しているところである。そんな激動の時代の様子を地図やおもちゃなどの当時の物を展示することで紹介している。当時灯っていたネオンも灯してあり、大正デモクラシーの頃の大衆文化を印象的に表現している。

大阪歴史博物館は、上述した常設展の他にも特別展が行なわれていることがある。残念なことに、ぼくが行った日は特別展が終わったばかりで、次の特別展の準備をしている最中ということもあって、特別展を見ることができなかったが、常設展もなかなか楽しみながら大阪の歴史に触れることができて、なかなか充実していると思う。エレベーターがタイムマシンみたいになっていて時空を飛んで過去の大阪に触れながら下のフロアに降りながら現代に近づいていくように見せているのはニクい演出である。

別のフロアには図書館や研修室やホールなどもあり、シンポジウムをはじめ、様々なイベントもできるようになっている。

1階に戻った後は売店で大阪歴史博物館の公式ブックを購入した。美術展や博物館などに行くと必ず買ってしまう本...。おかげでぼくの事務室の本棚には何十冊も博物館や美術展関係の本が並んでいる。だんだんとたまっていく...。

ぼくは歴史の旅を満喫して大阪歴史博物館を後にした。


6. 大阪の街を歩く旅


ぼくは、今回の一人旅が大阪城と大阪歴史博物館に行ければそれでいいと思っていた。しかし時間はまだ午後3時を回って少ししか経っていない。もう帰るのはさすがに勿体ないなぁと思った。まずは大阪城公園付近を散策することにした。

谷町地下道
[谷町地下道]

大阪歴史博物館からさらに西に向けて歩くと南北に通る大きな道路につながる。それが「谷町筋」である。大阪では、一般的に南北に通る道路のことを、「何某「筋(すじ)」」と呼ぶ。この谷町筋付近は、「タニマチ」という言葉ができた場所である。「タニマチ」とは、説明するまでもないとは思うが、力士の後援者や贔屓筋のことを「タニマチ」と呼ぶ。明治時代に、谷町筋に住んでいた相撲が大好きなあるお医者さんが、力士の怪我の治療代を請求しなかったところから由来して、力士の後援者のことを「タニマチ」と呼ぶようになったそうなのである。街を歩いていて「谷町地下道」を見つけ、ふとそのことを思い出したのでカメラにおさめた(笑)。

谷町筋を歩いていて、大阪市営地下鉄の「谷町四丁目」駅などを見ていると、大阪に鉄道博物館があることを突然思い出した。時間的にきちんと見られるかどうかは分からなかったがとにかく行ってみることにした。

JR弁天町駅駅付近に到着したのが午後4時過ぎ。交通科学博物館の閉館時刻は午後5時30分。1時間30分ほどは見られる。博物館や美術館といったものをじっくり見る場所で時間の制限を設けて見ることほどぼくにとっては気持ち悪いことはないがやむを得ない。チケットを購入して早速中に入った。入場料は大人(高校生以上)1人あたり400円であった。

この博物館は、鉄道を中心に、様々な角度から交通に使われている技術・仕組み・仕事・交通と生活との関わり・交通の将来についてなど、実に多角的な視点から「交通」の世界を見ることができる。

ここからは、印象に残ったスペースを紹介したい。

エントランス・スペースを抜けると「第1室 明日に向かって」というスペースがあり、そこにはリニアモーターカーなどの次世代の鉄道の姿を見ることができる。また、新幹線0系の運転席にも実際に乗ることができる。ここでいろいろな人たちの多くの夢を運転手が運んだに違いない。ここでも周りは子供ばかりだったが、躊躇なく入って一人で運転席を占拠して(といっても1分ほどだが...)、バチバチ写真を撮った。

新幹線0系の運転席
[新幹線0系の運転席]

考えてみれば、新幹線0系も、東京オリンピックが行なわれた1968年頃では最も近未来的な乗り物であったに違いない。しかしそれからたった35年ぐらいで現役を引退しているのである。技術の進歩というのはもちろん素晴らしいことではあるが、片一方でこうして現役を去っていく車両もあるのだ。科学技術の進歩の影の部分を見たような気がした。

第2室は「鉄道の誕生」と題して、鉄道が日本に伝わった直後から明治後期にかけての日本の鉄道の歴史が分かるコーナーがある。日本で最初に開業した新橋駅の開業時の駅の様子が模型で再現されている。

昭和5年頃の標準的な駅の様子
[昭和5年頃の標準的な駅の様子]

ぼくが印象に残ったのは、1930年に当時の鉄道省が通達した「小停車場本屋標準図」などを参考に、昭和初期の駅舎内を再現したものだ。鉄道省が「標準図」なるものを各地に通達したのは、日本が昔は「中央集権的官僚国家」であったことを物語っているのではないだろうか(戦前であれば今以上に「中央集権的官僚国家」であったかもしれないが...)とついつい考えてしまった。今のぼくの感覚であれば、客のニーズに応えられるような施設を作ったり、駅の利用者に好印象を与えるような駅舎やデザインにしたりするはずだから、わざわざ政府から「これが標準図です」などと言ってくれるのはお節介だ。戦前と現代とを比較すること自体が適切ではないかもしれない。しかし、もしも戦後58年経った今でも政府が「中央集権的官僚国家」のような発想でいるとすれば、それは実に悲しいことである。現在の日本は、人間の尊厳を基調とし、各々の精神的な自由権・身体的な自由権・経済的な自由権などの「自由権」が保障された国であるが、政府が次々といろいろなものに「規制」をかけてしまうのは、個人の自由な思想などに対して「制限」をかけて「自由主義国家」でなくなってしまう。ぼくは個人が自由に「伸び伸び」と生活できる環境で暮らすことが理想だ。だから、政府から「これが標準図です」などと言ってくれるのはお節介だと感じたわけである。

第3室は「鉄道のおいたち」と題して、蒸気機関車の模型(佐賀藩精錬方製造蒸気車雛形(複製))や鉄道の路線の拡張の様子を略地図を使って説明していたりしている。

第4室は「鉄道車両のしくみ」と題して、電車のモーターを実際に動かしたり、電車の扉の開閉が実際にできたり、またJRの221系の運転シュミレータがあったりと、子供から大人まで楽しく過ごせる場所である。221系は、第1章「大阪までの旅」で紹介した223系の1つ前にできた車両であり、223系と同様に新快速や大和路快速で使われている。

[朝に撮影した丹波路快速(221系)]
[朝に撮影した丹波路快速(221系)]

第5室は「鉄道の施設と仕事」と題して、安全運転のための信号設備、電気を送る変電所、線路を構成するさまざまな器具や機械など、鉄道には列車を安全・正確に走らせるためのいろいろな施設がある。また、これらの鉄道施設とそこで働く人々のさまざまな仕事を紹介している。券売の仕事にコンピューターが導入されたのは昭和30年代頃で、それ以前の券売業務がどのように行なわれていたか、コンピューター化された直後の業務、さらにIT化が進んで技術的にも大きく進歩している現在の券売の業務の仕組みを比較しながら説明している。

第6室は「鉄道とくらし」と題して、鉄道がどのように社会に影響を与え、日本の文化や産業の発達に貢献してきたかを紹介するコーナーである。大阪を中心とした主要都市間の時間短縮の変遷や私鉄や都市交通の歴史的変遷をパネル資料などを含めた様々な資料が展示されている。

ここまでじっくり見ていると、もう午後5時が過ぎていた。閉館時間は午後5時30分である。残りの30分は、屋外に展示されている列車の写真を撮りたいと思い、第7室の「航空・船・自動車のあゆみ」はさっと見て、早速屋外に出て見た。

外には2つの蒸気機関車と1つの往年の特急列車が展示されていた。建物の手前から、「D51形蒸気機関車-ナシ20形食堂車-230形蒸気機関車」が連結されたもの、「C62形蒸気機関車-スシ28形食堂車-マロネフ59形寝台車」が連結されたもの、「キハ81形ディーゼルカー(くろしお)-クハ80系電車-モハ80系電車」が連結されたものが展示されている。ぼく以外にも、多くの鉄道ファンがシャッターを押していた。

[往年の蒸気機関車D51(デゴイチ)が展示]
[往年の蒸気機関車D51(デゴイチ)が展示]

今ではほとんど見られなくなった機関車や鉄道にこういう形で会うことができるのはなぜか懐かしい気持ちがする。D51(デゴイチ)が活躍している時代に生まれていたわけでもないのに...。

これらの車両は横からも見ることができる。昔の「京都駅」をモチーフに作られたプラットホームがあり、そこから昔の寝台車の様子や食堂車の様子や特急の1等席などの様子などを窓越しに見ることができる。時期によっては、食堂車でご飯が食べられるようなイベントもやっているようである。

蛍の光が館内で鳴り始めたので、ぼくは交通科学博物館をあとにした。

その後、エッフェル塔を真似て作られたといわれる通天閣のある「新世界」などを周り、そこで串かつとお好み焼きを食べた。新世界の串かつは有名である。またお好み焼きは大阪の名物である。昼には満足にご飯が食べられなかったため、できるだけ多くの食べ物を夕ご飯には食べようということで、1時間30分で2件の店に立ち寄った。店内にあったテレビには当然のように阪神戦が映っていた。試合開始前から阪神寄りの実況&解説でほぼ毎試合見せられれば、ぼくは「洗脳」されて阪神ファンになってしまうだろうなぁと思った。ぼくは名古屋の人間だが、中日戦を試合開始前から試合終了まで生中継をするのは、おそらく日本シリーズの時ぐらいであろう。開幕戦であっても、試合開始前から放送することはあっても、延長がないために、ゲームが速く終わらない限り、試合終了まで見られることは対読売戦でなければないであろう。お好み焼き屋の大将にそんな話をしたら同情してくれた。なるほど、応援しているチームは違えど、この人は野球が好きなんだと思った。自分のチームが強くなれればそれでいい、球団の親会社が儲かればそれでいいという発想で球団経営をしている、野球よりもお金が好きな「極悪オーナー」がプロ野球界にいるのは誠に残念ではあるが、プロ野球チームのオーナーからファンも含めて心底「野球」が好きな人たちによって「野球」というスポーツが支えられていれば、それはスポーツ界にとって実に幸せなことではなかろうか。

[新世界から通天閣を望む]
[新世界から通天閣を望む]

夕ご飯を食べた後、「新世界」を抜けて日本橋(「にっぽんばし」と読む)の電気量販店街を歩いた。街には「六甲おろし」が流れ、星野監督や今岡選手、金本選手などのポスターが貼られていて、街一色「阪神タイガース」であった。

この1日ですっかり「大阪」の虜になってしまった。おそらく大阪が歴史や伝統を通じて対話ができる街であったからだと思う。

今回の大阪、京都はもちろんであるが、東京だって名古屋だってロサンゼルスだってバルセローナだって歴史を通して対話ができる街である。何も歴史を勉強するのは学問のためだけではない。過去の街の姿と対話をすることで、自分が歴史というコンテキストの上に乗っかっているだけのチッポケな存在に過ぎないことを認識しながら、現在の自分や未来への自分に対して生きる指針を与えてくれるもの、それが歴史なんだろうと思う。

今日は、大阪という自分の住んでいない街の歴史に触れることで、人間はコンテキストを感じることのできる生き物であるということを実感したような気がした。歴史という名の文脈を有機的に解釈することで、そこから古今東西・老若男女の喜怒哀楽を感じることができる。1人で大阪に来て、実際にそんなに多くの人たちと話をしたわけではないのに、いろいろな人たちと対話をしたような気がする。そして自分の心が温かくなっているような気がするのである。楽しかったというより充実した1日であったような気がする。

ぜひまた大阪という街で時空を越えて満喫できる旅行の第2弾を企画してみたいと思う。また旅行記が書けることを楽しみにして...。


7. スタッフ・クレジット


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Published by KASHIROMAN.COM on October 24, 2003


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