「明治の京都」を訪ねて
 
 

Produced & Written by Kashiroman 

Released on Oct. 13, 2001 [2nd edi.]


目次

 
  1. はじめに
  2. 到着まで
  3. 京都市役所付近の散策
  4. 京都市歴史資料館
  5. 東山散策
  6. 旅路の終着
  7. STAFF CREDIT

はじめに

「何故、このテーマなんだ!?」

そんな疑問を皆さんは抱くと思う。

しかしぼくはこれは前から関心のあるテーマだった。明治以前は桓武天皇が長岡に都を移してから(784年)ずっと「京都」は日本の中心であったことは周知のとおりだ。一時期、鎌倉時代や江戸時代にはそれぞれ鎌倉、江戸に政治の中心が移動したことがあったが、それでもやっぱり日本の中心、都は「京都」にあった。なぜなら平安時代に入ってから天皇はほとんど京都を出ることはなかったからだ。しかし明治時代になって「江戸」に天皇が移られ、「江戸」は「」の「都」という意味合いで「東京」という名前に変わり、さらに日本の首都は「東京」に移転され、遷都の詔が発せられないままいつの間にか日本の中心は「東京」になってしまったのだ。

しかしぼくは一つ自分の中でしっくりこないことがあった。それは、幕府と政府軍(薩長軍)が激戦を繰り広げたとされる「鳥羽伏見の戦い」以降の京都の歴史というのがすっぽぬけているということだ。ぼくは修学旅行を始め、何度か京都には訪れているが、いったいどうやって今の京都の街の姿になっていったのかということをふと考えた時、自分の心の中にはその答えが見えてこなかったのである。

京都に住んでおられる方にとっては小学校かどこかできっと郷土の歴史っていうことで京都の歴史を学ばれているに違いない。しかし、ぼくは京都市民でもなければ京都府民でもない。単なる京都という街が好きな非京都市民(府民)なのである。そこでいろいろな文献を調べて、「明治以降の京都」を堪能するために、京都に旅立つことにしたのであった。


到着まで

2001年8月8日の午前7時30分、ぼくは「東京駅」に事務所のスタッフと共にいた。マネージャーのかよちゃんが新幹線の切符を買ってきてくれるのをもう一人のマネージャーの本埜(ほんの)君とJRハイウェーバスのある八重洲口付近で待っていた。

その後かよちゃんと合流し、ぼくたちは朝ご飯を買って19番線に停まっていた午前8時07分発の新幹線ひかり号に乗り込んだ。あのいつもの長いアナウンスが続き、新横浜駅に停車、出発した後に買った弁当を開けて食べ始めた。小田原、熱海、三島の辺りは特にトンネルが多く、あの耳がキーンと鳴るやつが何度も何度も起こった。

ぼくはそもそも「新幹線」という乗り物があまり好きではない。ぼくにとってあの乗り物はあまりにも速すぎるからだ。目的地に早く着くことはいいことだ。だからぼくも仕事で名古屋や大阪に行く時はよく「新幹線」を使う。でも今回のような「旅」をするときはぼくはあまり「新幹線」を使わない。旅をする場合は、「新幹線」ではなく「幹線」の東海道線や中央線、時には「地方交通線」を使ってのんびり行くのがぼくの趣味だ。でも今回は時間がない。前日の夜遅くまでスタジオにこもってぼくのプロデュースするSigloXのレコーディングをしていたし、次の日にはまた彼らのレコーディングに立ち会わなければならないことになっているし、他のプロジェクトの打ち合わせもいくつか入っているという忙しさだ。だから正直言って時間がない。だから「新幹線」にしたのだ。

しかし...である。今回の京都訪問は何かしら気分が違っていた。新幹線で移動しているにも関わらず、旅の過程を楽しむ余裕がぼくの心の中にあったからだ、次の日は忙しいにも関わらず...。普段は何かの原稿を車内で書いたり、あるいはプロジェクトの書類に目を通して新幹線の中を過ごすのであるが、今日は窓に映っている景色を見るようにしてみた。旅行気分を少しでも自分の中で作り出すためだ。新幹線といえば、トンネルも多いし、騒音防止のためにたてられているコンクリートの壁で景色はあまり見えないと思っていたが、実は意外とよく見えるものだ。というより景色を見ながら、その景色の向こう側にあるいろいろな歴史の知識やぼくが普段から思っている「都市」の特徴と自然にリンクしてくる。

静岡駅を通過している時に見える駿府城もとてもきれいだ。形が素晴らしい。ぼくは建築のことはあまり詳しくないが、安土桃山時代(特に桃山時代、つまり秀吉の頃)から江戸時代初期に建てられた城は大きく分けると城の表面が「白」のものと「黒」のものと2種類に分けることができるそうだ。そして、「白」色の代表格が江戸城本丸(現在はない)で、「黒」色代表が大坂城なのだそうだ。そして、関ケ原の戦いの頃やそれ以降の城を見ても、徳川方についた武将が建てた城というのは白が多いそうである(御三家の城である名古屋城や和歌山城・伊達政宗の仙台城など...)。そして豊臣方についた武将が建てた城というのは黒が多いそうである(加藤清正の熊本城など)。よく見れば駿府城はその典型ではないか!!真っ白い城壁が朝日にあたってとても鮮やかだ。ただ、こういう話は例外も多いから注意しなければならない。しかし経験則があたるとやっぱり気持ちがいい(ぼくは人前ではあまりこういう自己流経験則を語ることは多くないが...。よっぽど主観的な発言の許されるところでしかそういうことは言わない。人間付き合いのエチケットだと思うからだ。)。そう思いながら静岡駅付近を通過。

江戸時代は橋がかけられなかったという大井川。これは西から幕府を倒す軍勢が江戸へ行きにくくするために徳川家康がわざわざ橋をかけさせなかったという有名な話もある。こんなところに橋がかけられていないとしたならば、どのようにしてここを渡ったのだろうか。きちんと「渡す人」がいたということは知っているが、それにしても不自由だろう。

そう思っていながら段々とウトウトとして気付いたら名古屋...。名古屋は新幹線のほとんど全ての車両が止まる。そういうせいもあってか、人の出入りがとても激しい。実はこの名古屋という街も仕事ではよく来るところだが不思議で仕方のない場所だ。
名古屋の特徴といえば「自己完結都市」だということをいつも思う。つまり名古屋にはトヨタなどの大企業も数多く存在しているせいか、就職も望まなければ困るところではなさそうだし、そんなに不自由な都市ではない。しかし、同じ大都市である東京や大阪、京都や神戸と比べてもあまり観光地が多くないし、働くという視点に立っても北海道や東北の人なら名古屋よりも東京に行くだろうし、九州や四国、中国地方に住んでいる人ならば大阪に近い。北陸地方に住んでいる人だって、実は大阪の方が交通の弁がいい。だから名古屋というのはどうしても縁遠く感じてしまってもおかしくない。言い換えれば、外との触れ合いの少ない都市のような気もしないでもない。名古屋人は一般的に保守的であると言われているが、こうした事情もあるからなのだろうか。本当に名古屋はいろんな意味で変な「都市」だとぼくは思う。
と根も葉もないことを考えながら岐阜羽島を越え、毎年冬になると1回は必ずといっていいほど新幹線が雪で止まる「岐阜羽島-米原間」を走っていた。東北新幹線とは違って、雪の対策が十分に進んでいない造りになっているそうなのである。
新幹線はこんな雪深いところを走らせる予定はなかったそうだが、とある岐阜羽島出身の政治家(名前はもちろん知っています)がここに新幹線を引っ張ってきたということらしい。そしてもっとすごいのは、その政治家の像が岐阜羽島駅に立っているというのだ。そういうことをいえば、上越新幹線を新潟に誘致したのは他でもなくあのロッキード事件で捕まったあの人だし、山梨にリニアモーターカー試験場を誘致したのはあのリクルート事件や脱税事件に大きく関わり、中曽根内閣と竹下内閣の時に自民党の副総裁を務めたあの人なのだそうだ。
そうこうしているうちにあっという間に京都に着いてしまった。時計の針は午前10時45分を指していたのであった。この間、マネージャーの2人には完全に仕事をさせていた(笑)。
京都市役所付近の散策

新幹線のプラットホームに降り立った後、ぼくたちは最初の訪問予定地であった京都市役所付近にどうやって行ったらよいかを議論した。しかしかよちゃんの説得的な(?)理由によって一瞬にして決定された。

「最近陽射しが強くて日に焼けるのがイヤなのよ〜。」

ごもっともだ。しかしながらそれ以上にカヨワイ(?)女性の言うことには男性である本埜君とともに従わなければならないという不文律に従ったという方が答えとしては適切なのかもしれないが...。

それはともかく、JR京都駅の高架部分を勢いよく駆け下り、京都駅の地下街を通って駅にたどり着いた。そこで自動券売機で切符を買うわけだがそこに人間が介するということは、よほどのトラブルでもない限りあり得ない。そう、あまり駅で駅員を見なくなったのだ。いたとしても自動改札機の横に設置されている精算所にいるぐらいだろう。

ぼくは改札口に立っている駅員の切符を切る音がたまらなく好きだった。

「カチンカチン」

という音と、あの「凸型」の切れ端が改札口付近にいっぱい落ちていたが、あの風景はぼくには忘れられない思い出の風景だ。

(あぁ〜、これが駅の音なのかな...)

ぼくはあの「音」に憧れて駅員になろうと思ったことがある。でも「駅の音」が自動改札機のバカでかいサイレン音に変わってから、どうも駅員になる夢はなくなった...

そんなことを思い出しながら切符を買って、途中で東西線に乗り換えて「京都市役所前」に向かった。

ぼくがここに来たかった理由は実はぼくが小学生の頃に修学旅行で泊まったホテルや班行動で夜の買い物をした新京極を散策するためだ。まずは京都市役所駅を降りてその新京極の商店街に入っていった。ちょうど新京極の商店街の入り口付近には本能寺がある。まずはそこに立ち寄って御参りをした。

実はこの本能寺とぼくの修学旅行には密接な関係がある。実はぼくの小学生の頃の修学旅行の当日が織田信長が死んだ日だったのである。しかも泊まるホテルはこの本能寺付近の、いや本能寺という名前の入ったホテルだったのである。さらにいうと、部屋によってはその本能寺が見えて、その日は信長の亡霊が出るということで話が持ちきりになっていたことを思い出していた。ぼくは、

「あの本能寺って信長が殺された場所じゃないんだよ。移ったんだよ、本能寺の場所が...。」

と言って話を止めようとしたことを覚えている。あまりにぼくにとってはバカバカしい話だったからである。

修学旅行の夜は、新京極で買い物をしたことを覚えているが、あそこでは何も買わなかったことを覚えている。旅行会社と商店街が協定を組んで、ちゃんと商店街で消費者が落とした(買った)ものは旅行会社に回る、というシステムを小学生ながらぼくは理解していた。だから他の人は修学旅行ということで財布の紐が少し緩みがちだったが、ぼくはかなり財布の紐がきつかったことを覚えている。結局2000円のお小遣いは4分の1を残して帰ってきた。使う必要がないところでお金は使う必要はない。

物を買うときは単純に自分が使っている姿を想像して買うことがぼくは多い。でも他の人たちが買うようなキーホルダーや木刀をぼくが使う姿は見えなかった。お土産として買ったのは高い宇治茶・漬物・箸と印籠・武家カツラだ。特に前者は家族で食べる絵が浮かんだから買った。後者は、お笑いの小道具として買ったのだ。ぼくは修学旅行から帰ってきた時に余ったお金については、当時バスケットボールの少年団に入っていたが、その時のスポーツドリンク代に当てたいということを親に話した。こういうケチなところは昔からほとんど今も変わっていない。

実は、修学旅行に来て、いろいろなお寺や神社を周っていて一番ほしかったものといえば、その寺社仏閣の本である。しかしながら、1冊1000円以上もする本を買うわけにはいかなかった(これを買うと、お小遣いを出してくれた親にお土産を買う金がなくなる)。所詮、小学生には安いキーホルダーとか絵葉書ぐらいしか買わせてくれないのか!!と悔しい思い出も残っていた。今、こうして大人になって自分の稼いだお金を使って京都に来て、それなりのお金を使うことができるのは何かしらの幸せを感じる。
あの時の修学旅行は、周りのガキくさい雰囲気に嫌気が差していたが、一方で自分もバカになってバスの中で大騒ぎをしたり、クシャミで他人のカバンを落とすという芸当もやってのけたり(?)、学校に迎えに来ていた父兄を爆笑の渦に巻き込んでやろうと思って、東映太秦映画村で買ったカツラをかぶって、学校に着いたときにバスの中から手を振ったりと実は自分もガキくさいことをやっていたりと...、明らかに自分の中の気持ちに自己矛盾が生じていても、やっぱり微笑ましい思い出だ。小学生だから許される(?)ことなのかもしれない...。あるいは単なる自分勝手な人間だった(いや今もそうかも...)かもしれない。
そんなことを思っていたらもう自分の腹時計は悲鳴を上げていた。そこで商店街をグルグル見渡すとなんとマクドナルドやサブウェイ、ケンタッキーやトンカツ屋のチェーン店があって、
(こんなのあったっけ?)
なんていう思いに刈られながらも、安いトンカツ屋のチェーン店に入り、680円の「ヒレカツ定食」を一気に平らげた。

その後、店を出てぼくが小学生の時の修学旅行の時に泊まった「ホテル」を見ながら、京都市歴史資料館に向かって北上した。


京都市歴史資料館

事前に最寄の地下鉄の駅からの所要時間をインターネットで調べていったのだが、どうもその時間内にはつきそうもない。インターネットには「地下鉄東西線の京都市役所前から10分」と書いてあったが、とても10分では行ける距離ではない。実際ぼくたちは信号待ちを含めて20分弱は歩いた。

これはおかしいと思い、京都から帰った後にPCの地図で時速4kmで設定して時間を計ってみたところ、15分00秒かかる距離であることが判明した。つまり地下鉄東西線京都市役所前駅から京都歴史資料館までは1kmあるという計算になる。そうするとこのホームページに載っていた時間で歩いた速さは「時速6km」ということになる。あとで聞いた話だが、目的地までの所要時間を計算する時の徒歩の速度というのは、「分速80m」なのだそうだ。時速に直しても「時速4.8km」だから、このホームページの計算方法がいかにテキトーなものかということが分かった。

左手には京都御苑を、右手には新島会館(同志社大学の寮)を望みながら午後1時00分ぐらいに京都歴史資料館に入っていった。

まずは展示室でやっている中世の書状の催しがあったのでマネージャーの2人に展示物についての解説を加えながら見ていった。寄進地系荘園の契約書などが展示されており、ぼくみたいな日本史が好きな人間にとってはとても楽しい時間だった。

次に2Fに上がって研修室に入った。事前に電話で調べ物をしたいということを東京から電話をしていたため、ぼくたちの姿を見てすぐに本を何冊か紹介していただけた。本の中味は「近代の京都」である。ぼくは席について早速読んでみた。

ぼくは勉強をほとんどしていかなかったため、文章の飲み込みがいまいちよくない。さらに食事後の睡魔も襲ってくる。こういうときには多くの人は寝るか動くかのどちらかをするだろう。ぼくは動いた。ぼくは入り口付近にあった棚のところに行き、立てかけてあった資料館のパンフレットを取り出した。そうしたら「映像展示室」という文字が見えた。基礎がないぼくは、まず映像で京都の概史を頭に入れておいてから本を読むほうが得策だと考え、早速「映像展示室」に行ってヴィデオを見た。

1本目に見たのは「京都1100年 -近代化へのうねり-」というもので、幕末から遷都1100年に至る近代化の努力を探った内容であり、ぼくにとってはまさに打ってつけだった。具体的な内容は次のようなものである。

このようにして、「衰退か発展か?」という問題を京都市民をあげて解決していったという内容だった。

2本目に見たのは「近世の京都 -京の幕末維新-」というもので、京都が政争の中心となった幕末維新時に、京都の市民は時代の嵐の中でどう生きたか、市民の視点から映像化した作品であった。1本目のものと内容はよく似ていたが、若干、幕末に重点が置かれていたように感じた。具体的な内容は次のようなものであった。

内容は重複していたが、歴史の理解を深めるにはいいヴィデオであった。

3本目に見たのは「京・自治の源流」というタイトルのヴィデオである。ヴィデオの内容説明には「応仁の乱のさなか、自営のために組織された京の町組を、その成立から実際の運営の様子までを解説する。」と書いてあったが、これは1本目に見たヴィデオで「町組単位で「小学校制度」を整えた」というところで、京都市民に「自主自立の精神」があったおかげで、全国よりも3年よりも早く小学校の制度を整えることができたという内容のナレーションがあったのだが、その「京都市民の自主自立の精神」とはどのような歴史的背景をもってして生まれてきたのかという疑問を解決したかったため、このヴィデオを見た。そうすると、別の視点から明治時代の京都を見ることができた。

「応仁の乱」頃から「町の自治」が存在していたという記録が残っているということを考えれば、おそらく京都は単に「朝廷」があるという政治のシンボルとしての「都市」であったというのではなく、「自治」が発展するだけの「産業」があった都市だと言うことができると思う。「産業」の力が強ければ、「お金」が入ってくるので、その分だけ社会的に「強い立場」に立つことができる。また、「商業」が発展していれば、商人どおしのある種の「妥協」が必要であり、どうしても住人が集まる機会が必要であろう。「京都」は室町時代の頃からそういう都市だっただろう。

このように、ヴィデオ学習は一定の成果をあげることができた。やや蛇足的な話だが、ヴィデオを閲覧するときに使っていた机の端を見ると、平成2年に宝くじの収益金でこのヴィデオコーナーが作られたのだということが書いてあった。なるほど、宝くじがこのようなところにも使われていると驚かされた。ヴィデオの内容一覧は京都歴史資料館のホームページの中に載っている。

さてさてヴィデオを見終わった後、再び研修室に戻り、紹介された本を一通り読んでみた。そうしたらこれがよく理解できる。歴史を理解するには「流れ」を覚えるといいとよく言うが、まさしくその通りであるということが分かった。ここでいう「流れ」とはまさに大局的に見た室町後期からの「京都の歴史」である。ぼくは先ほど紹介された本を読んでほしい部分だけコピーをした。そして、明治維新前後の京都を調べた。

「東京」改称について

1868年7月17日に「江戸ハ東国一ノ大鎮四方輻湊ノ地、宜シク親臨以テ其政ヲ視ルヘシ。因テ自江戸ヲ称シテ東京トセン。是、朕ノ海内一家東西同視スル所以ナリ。衆庶此意ヲ体セヨ」という詔を出し、明治天皇はやがて東幸した。全国統治のため東京行幸・東京遷都が794年以来続いた「都」の盛衰に絡む問題であるとして、京都町民は大混乱した。

明治天皇はこの年の末に京都に帰ってきた時、京都市民に対して酒237石余、するめ118500余枚、その他合わせて合計金4266両余を下賜した。これは、天皇が京都を長期にわたって離れていたことによる京都市民の不安を慰撫する意味がこめられていたと考えられているが、これによって、東京遷都の政治的意図が変化するわけではなかった。そして、「太政官(今で言う「内閣」に相当する)」が東京に移転するという事実上の遷都宣言を行ない、1869年3月7日に再び東京に向かって出発してしまったのである。

これに京都市民が反発しないわけがない。町組毎の「デモ」もあった。「天皇に還幸していただきたい」という運動である。しかしその運動とは裏腹に、今度は皇后まで東幸されてしまった。京都の行政機関は、市民に対する慰撫につとめながらも、恐れたのは「どんどん焼け」、「鳥羽・伏見の戦い」と「東京遷都」による「京都の衰微」であった。そこで、洛中地子銭免除を行ない、産業基立金10万両を東京遷都の代償として支払われたが、しかし人口も35万人前後から22万人まで急激に減り、京都は危機を迎えていた。

 
参考文献;京都市編「京都の歴史7」(京都市史編纂所)
殖産興業政策
京都は、明治に入ってから全国的に展開されていた「殖産興業政策」を京都に導入した。その代表格なのが、先ほどヴィデオで見た「西陣織物会社」の留学生によって導入された「ジャカード織機」を使って西陣織の発展と「琵琶湖疎水」と「第4回内国勧業博覧会」であった。ぼくが調べた本にはあとの2つが載っていた。

「疎水」とは、「灌漑・給水・舟運または発電のために、新たに土地を切り開いて水路を設け、通水させること。また、そのもの。多くは湖沼・河川から開溝して水を引き、地形によってはトンネルを設けることもある。」(新村出編「広辞苑[5版]」岩波書店)というものである。

琵琶湖疎水」は、京都を上げて取り組んだ一大プロジェクトである。琵琶湖の水を京都盆地に引くことによって船運・灌漑・近代産業の用水とするものである。実は、すでに江戸時代から有名な商人の角倉了以[高瀬川を作るなど、河川工事にも積極的に関わってきた人]の息子であった角倉与一には「琵琶湖と京都とを直接結んで大量の物資輸送を容易にする」という構想があったのだから、「琵琶湖疎水」を作ることが京都の発展にとって如何に大きな一大事業であったことを伺わせることができる。
しかし江戸時代から明治の初期まで実現しなかったのは「工事費」が不足していたからである。総工費は当時でも125万円であり、内訳は産業基立金35万円、国庫補助金などが充てられたが、地元負担金も65万円もあった。最終的には京都・伏見・宇治川を使って大阪に達する水運路が完成した。さらに、蹴上(けあげ)ではこの高低差を利用して日本最初の事業用水力発電所が作られた。これは当初の計画にはなかったが実現した。
戦後には陸上運輸が発達したため、従来の主目的であった水力や舟運の占める地位が低下し、1948年にはインクライン [傾斜面にレールを敷き、動力によって台車を走らせ、貨物や船を昇降させる一種のケーブル‐カー] の稼動が停止して、その役割を終えた。代わって上水道や発電といった近代都市住民の生活に欠かすことのできない機能に重点が移っていった。変わった琵琶湖疎水の使われ方として、円山公園の噴水や瓢箪池の水を挙げておきたい。詳しいことは京都市水道局のホームページにも説明が載せられているのでそちらもご覧頂くとみなさんも理解が深まるかもしれないと思う。

次に「内国勧業博覧会」についてである。これは、大久保利通が国内の殖産興業の促進を国民に紹介しまたそれを促すために始めた国内博覧会である。第1回目は東京・上野で開かれ、京都は第4回に行なわれた。1895年は、桓武天皇が大極殿で正月の拝賀を受けてから1100年になるため、それを記念して「平安遷都紀念祭」を挙行し、京都復興の好機としようという計画が打ち出された。そして、そのモニュメントとして創建されたのがあの「平安神宮」である。この博覧会は、敷地が51000坪、出品数16万9000点、1895年4月1日から7月1日までの入場者数は113万7000人に達したのだという。また、これに伴って琵琶湖疎水を利用して日本発の市街電車が運転された。さらに、今ではお馴染みの「時代行列」もこの博覧会を機に始まったお祭りである。これは大成功であり、近代都市京都の出発点となるできごとであった。

 
参考文献;足利健亮編「京都アトラス」中央公論社(1994)

こうして歴史資料館の2Fの研修室で調べて、京都市歴史資料館をあとにした。


東山散策

時計はすでに午後4時00分を指していた。まだ帰るには少々早い時間だったので、地下鉄で「東山」まで向かうことにした。目的地は「平安神宮」である。平安神宮は何回も行っているところだ。京都に来るうちの2回に1回は来ているところだ。それでも...だ。  

しかし今日は目的があったのだ。近代都市京都を知らしめた「第4回内国勧業博覧会」の様子をこの目で見に行くためだ。といってもタイムスリップをするわけではない。ぼくにとってはその跡地に向かうだけで十分だった。平安神宮の立看板で、ここは1895年に博覧会が行なわれて遷都1100周年を記念した儀式があったことは知っていた。「平安神宮」は、先に述べた大極殿の8分の5のサイズで作られた博覧会のモニュメントであるということなのだが、京都が「東京遷都」や戊辰戦争等の「戦災」によってもがき苦しみ、「衰退か発展か?」を迫られるられるほどのピンチに立っていて、一生懸命になってそのピンチを救おうと町一丸になって汗水を流して頑張ってきたモニュメント(記念碑)でもあるのではないかとも感じた。

もちろん、こういった街作りに反対してきた勢力もあったのだろうと思う。事実、琵琶湖疎水を作る時に地元負担金を納めなければならないときに反対運動が起こったという話もある。彼らには彼らの事情というものがあるのだろう。維新後は市民も生活が苦しかったのだから反対したい気持ちもきっとあったに違いない。しかしながらこういう人たちの意見にも耳を傾けなければならない。人の意見というのは「一致」するということの方が珍しい。両者には両者の言い分というものがある。両者の言い分をよく聞いてこそ、初めて歴史の研究というのは成り立つと考えるのはぼくだけではないだろう。今回はそこまで突っ込んだ研究ができなかったが、今後、そういう細かい部分も見て行けたらと思う。

あと一つ、ぼくがとても印象的だったのは、日清戦争(1894-1895)の最中であったにも関わらず、このような「神社」を建てるような余裕がどこにあったのだろうかということだ。ぼくの感覚であれば、「戦争」中ならば財政政策を緊縮財政にし、それを利用して戦争にできるだけ多くお金をつぎ込むことを考えるだろう。それにも関わらず「内国勧業博覧会」を主催し、さらに平安遷都1100年モニュメントとして「平安神宮」も作ってしまうのだから、よく考えればとても「異常」なことである。しかしこんなことを京都市が企画し、桓武天皇が京都の地に都を移してきた偉業を祝えるのは、おそらく京都市民が京都という場所を愛していたからこそ為し得た業ではないだろうかと思う。この都市のパワーを感じた。

また、次の出来事が面白いことを物語ってくれているようでならない。

明治天皇が正式に京都に戻ってきたのは(公務で京都に戻られたということは何度もあるが...)死後のことである。これは京都市民から出た要望で、東京に墓地を作るかそれとも京都に作るかで結局は京都市民の強い後押しで京都に帰ってこられた。
「平安神宮」が存在するメタファーは、ひょっとしたら「天皇の京都帰還」を願う気持ちの表れなのか...と感じるのである。あるいは天皇が京都にいらっしゃらない間に「これだけ京都は成長しました。いつでも戻ってきてください。」ということを天皇に対してお見せしたかったのかもしれない。その真意は資料に当たって調べているわけではないのであくまでぼくの主観的な意見ではあるが、平安神宮を戦争の最中であるにも関わらず建立したのは、
「桓武天皇を通じて、日本の都は京都にあるんだよ」
ということを全国にアピールしたかった、そんなものなのかなとも思えた。

このように見ると、京都という街は妙な「魔力」を感じずにいられない、そんな街であると感じた。きっと昔の「四神相応」の考えを引きずって、この地にある種の力を与えているのではないかと平安神宮の中にあった「平安京」の説明が書いてあった看板を見てぼくは感じた、科学的根拠はないにせよ..。

なお、「四神相応 [しじんそうおう]」とは、

四神に相応じた最も貴い地相。左方である「東」に流水のあるのを「青竜」、右方である「西」に大道のあるのを「白虎」、正面である「南」にくぼ地のあるのを「朱雀」、後方である「北方」に丘陵のあるのを「玄武」とする。官位・福禄・無病・長寿を併有する地相で、平安京はこの地相を有するとされた。
と新村出編「広辞苑」(岩波書店)には記してある。やや話は脱線するが、大相撲のテレビ中継で「吊り屋根」の頂点に「房」が付いているのだが、あれはこの四神相応の考え方が反映されているものなのだそうだ。確かに「竜」「虎」「雀」「武」と「房」「房」「房」「房」が示す色は同じだ。現代にも残る昔の伝統の一つだ。相撲は「第4回内国勧業博覧会」から100年後の1994年の「遷都1200周年記念行事」でも平安神宮で「相撲節会 [すまいのせちえ]」が行なわれている(詳しくは平安遷都1200周年記念協会ホームページへ)。現在の相撲は、力士が一度蹲踞(そんきょ)の姿勢をとってから「立ち合い」を行なうが、相撲節会では「立ち合い」は蹲踞をせず、立ったまま「勝負(取組)」を始めたそうだ。どうやら現在の蹲踞の姿勢から取組を始めるという現在の「立ち合い」という言葉は「相撲節会」の伝統からから来ているらしい。つまり「った」姿勢から「する」というところから「立ち合い」という言葉は生まれたらしいのだ。ちょっとしたウンチクだ。

京都で注目しておかなければならない、いやどうしても気になってしまうのは、近代建築と伝統建築が融和しているという点だ。近代的な「鉄道」が敷かれたすぐ横に伝統的な「平安神宮」が建立されていたというのだから、京都の街の新旧建築の調和は今に始まったことではないと思う。きっと「法律」などでも伝統的な都市景観を守るための法制度というのは整えているのだろう。

ところが、同じように伝統を基調として都市づくりがなされているヨーロッパの都市とは微妙に性格が異なるような気がする。

トレド

例えば、ぼくが行ったスペインのトレドは、西ゴート王国の時代からレコンキスタ(国土回復運動)を過ぎた頃まで発展してきた要塞都市(マドリーに首都が移るまではここが「首都」であった)なのだが、あそこに行った時と自分の中の感覚が微妙に違うのである。家々は「石レンガ」でできていて、「城壁都市」という特徴が如実にあらわれているが(西洋の都市はほとんど城壁都市から始まっている。昔はパリも城壁都市だった。産業革命による人口増加に伴い壁を撤廃したという歴史がある)、その都市よりも外に広がる空気が感じられないのである。トレドはイスラム勢力にも占領されているという歴史もあり、イスラムとキリスト教が融合している独特な作りになってはいるが、壁(城壁)が高いせいか、どこかしら「排他的」なイメージがある。これは西洋にあった「civilization」の考え方から由来する雰囲気であろうと思われるし、何も積極的にイスラム文化を取り入れたわけではないからだろうと思われる。鈴木孝夫氏の「ことばの社会学」には、

ユーラシア大陸系の諸民族のあり方は、それぞれがまさに水面に落しても拡散消滅することのない極めて粘性の強い油的の性質を持っている。どれもが文化に関する明確な自己定義をもち、強力な言語的自己凝縮力で、他者とははっきり区別される自己を主張して止むことがない。
とユーラシア大陸の文化についての特徴が述べられている。

一方の京都にも「壁」自体は存在した。しかし、石レンガで作られた重々しい「城壁」ではない。「城壁」とは敵からの侵入を防ぐために築かれるもので、排他的であるといわざるを得ないのに対し、京都の「木造」で作られた「壁」には「警護」のような役割もあったに違いないが、それは敵からの侵入を防ぐというようなあからさまな「排他性」というものはあまり感じられない。同じく日本文化についての記述を、鈴木孝夫氏の「ことばの社会学」では、

現在の日本文化が持つ固有性とは、物理的な諸条件によって、日本が他の国々から隔離されてきた結果として生まれ保持してきたもの
と述べられており、さらに
外来文化の輸入に対して抵抗が少なく、その反面、物理的条件のゆえに自己拡散の危険にさらされずに済んだ。
ということが述べられている。ここでいう「物理的な諸条件」とは、具体的には「日本を取り巻く四海」のことを示している。ぼくの五感に2つの古都の風景が訴えてきたのは、それぞれの地域の文化そのものだったのかもしれない。それと同時に両者のいずれがいいのかという二者択一的な感覚には決してなれなかったのであった。

しかし日本の文化は今までに増して重大な危機に瀕していると鈴木氏は述べている。

昭和30年代の後半に起った日本の経済的地位の上昇は、急速に進歩した世界の情報、交通手段の発達と絡んで、日本が2000年の長きにわたって享受してきた外的世界との物理的隔離の条件を完全に消滅させてしまった。
そして、
今や日本人は、異質の文化、異なる価値観と言語を持つ諸民族と、すべての面で直接に、彼我が区別する枠なしで、対峙せざるを得なくなっている。

自己と他者が同一の平面、全く同じ土俵の上にあり、巧みな攻撃と有効な防御によってのみ生き残ることができる過酷な競争の世界に引きずり出された日本人が、はたして止めどなき自己拡散の道をたどるのか、それとも粘度の高い個性的な油滴として生き残れるかどうかは、私たちが強力な自己凝縮性を持つアイデンティティをどこまで形成できるかどうかの一点にかかっている。

ということを述べている。

そのような現象が日本で起こっているとしたならば、では「京都」はどうなのだろうか?観光客として京都の「古都」の場面しか見てこなかったからすぐさまその答えを出すことはぼくにはできない。ぼくが思うには、感覚的にではあるが、どうも鈴木氏が述べていた上記の問題が京都にも忍び寄っているように思える、昼間に見たファーストフード店を見て...。

ぼくたちは、内国勧業博覧会の跡地に建てられた京都国立博物館の横を通り過ぎ、平安神宮をあとにしたのであった。


旅路の終着

その後、地下鉄で「東山駅」から「二条駅」に向かった。しかしぼくは乗客の格好から何かイヤな予感がしていた。夏の風物詩、「浴衣」姿の女性が異様に多かったということである。それ自体なんでもないことのように思える、いや微笑ましい姿だが、「びわこ花火大会」があることを地下鉄の駅のポスターで確認した。その時背筋に寒気が襲った。そう、ラッシュが余計にひどくなるからだ。JR東海道線ならば少なくとも「大津駅」までは相当程度に混むことが分かってしまったのだ。

実は帰りは名古屋まで在来線で帰ろうということで、朝の東京駅では新幹線の切符を名古屋からしか買っていなかったのだ。その理由は、単に人間観察なのだが、それにしてもいやなものに遭遇してしまった。しかしここがぼくたる所以。見事に在来線で名古屋まで帰ることを決意した。やっぱり人間観察がやりたかったのだ。地下鉄の「二条駅」で降りた後、JRの「二条駅」から「京都駅」まで向かった。山陰線で京都の西を走っているため、夕日が妙に眩しかった。

京都駅に着いたあと、関西国際空港に行く「はるか」を駅で見た後、一度駅の外に出てJR京都伊勢丹の10Fのフードコートで夕食を取った。暑かったからあっさりしたものが食べたかった。だから野菜が豊富な「サブウェイ」にした。あの30cmサイズの「サブウェイクラブ」はとても美味しかった。アメリカではよく食べた。ぼくはマクドナルドやバーガーキングよりもサブウェイが好きだった。ぼくはちょっとした「ヴェジタリアン」である。アメリカで食べた食事であっていたもの(美味しかったもの)がメキシコ料理とサブウェイとホストファミリーに出してもらった美味しい野菜だけだったが、それだけ印象に残っているチェーン店だ。

食事を取った後、外に出て日が沈もうとしている京都の街並みを見つめていた...が、どうもガラス状の壁が邪魔できちんと見えない。その壁はなんと「ちょっと黒い」のだ。これが合点がいかなかった。「カップル」や「ファミリー」の憩いの場になることは間違いないだろう。景色を楽しませるのであれば、東京タワーや京都タワーのような透明ガラスを使用するであろう。であるにも関わらず、わざと見難い「薄黒い」ガラス状の壁をここでは使っている。何故このようなところに「黒い壁」を設けているのか。おそらく駅ビルの壁が「黒」なので、それに合わせた形で「薄暗い壁」になっているのだとぼくは推測するが、その正確な理由はぼくにはよく分からない。が、建物の景観を重視すると、今度はせっかくの「思い」で頂上に登ってきたのにもかかわらず、「景色」が見にくい。それがどうも納得できない。ならば、どうして駅ビルが黒色をしているのかという問題にもなるが、それはよく分からない。  

が、それにしても「どうしてこのような高層駅ビルを立てる必要があったのだろうか。」という疑問が沸き立つ。ぼくのような京都に「観光客」とか「仕事」でしか来ないような人間にとっては、少なくともぼくは、

「駅ビルの開発か!!」

という程度の感想しかなかった。「京都通」か「専門家」ならば、その正確な答えが返ってくるだろう。そこまでは調べる時間がなかったので、それはまた別の機会に検証してみたいが、ぼくはそのために次のような課題を設定した。

この場所に「高層駅ビル」を立てる「必要性」と「許容性」はあったのだろうか。
この課題を設定したのは、以前の京都の駅舎は古くなっていて、阪神大震災レベルの地震に耐えられるだけの建物に立て替える必要はあったのかもしれないが(「必要性」)、「あの高さ」にする必要はあったのだろうか。航空写真を見たとき、どうも駅の南北が分断されていて、街が「キタナラシ」く感じてしまう。京都という日本の伝統的な都市の景観を守るという意味で、おそらく「都市計画法」や「建築基準法」以外の「特別法」の存在があるのではないかという推測が立たないこともないが、景観保護のための法律について調べ上げた上で、「高層駅ビル」のビルの高さについて、何らかの調査を後日行なってみたいと思う。

ぼくたちは下の階に下りて事務所のスタッフにみんなで食べられるようにと思って八橋(この辺はお決まりパターンだけれど...)を買い、プラットホームに向かった。

今さらながら在来線で帰ろうと言ったことに対して若干の後悔をしていたが、まぁこれも旅行上のささいなトラブル(?)だと思って満員の新快速に乗り込んだ。午後7時30分ということもあって花火の一番のピークで、大津駅までは東京のいつものラッシュを彷彿させるような電車であった。しかし大津駅を過ぎ、電車が停車するにつれて人の数は減っていった。ぼくたちは米原で下車して豊橋行きの快速に乗った。ただ、この快速は岐阜まで各駅停車という区間快速というものであった。岐阜でようやく快速になり、名古屋まで向かった。この間にはいろいろなお客さんがいた。青春18切符を片手に女性組みが博多から帰ってきていたり (手には明太子の紙袋が...)、夜の9時ぐらいに大学生の集団がスポーツカバンを持って大垣駅に座っていたり (彼らはどこに行くのだろうと適当な「語り」をマネージャー2人としていた)と、なかなか人間観察も面白かった。ただあのラッシュだけはご勘弁を...!!という気持ちは帰ってからも変わらなかった。

ぼくたちは名古屋で下車し、あとは新幹線に乗って東京行きに乗り込んだ。

帰りの新幹線は、今まさにこのエッセーを執筆している。隣にはすやすや眠るマネージャー2人の姿がある。ぼくは人に迷惑をかけない程度にキーボードに向かって原稿をカチャカチャと打ち込んでいる。ぼくはぱっと窓に視線をあててみた。

「明治天皇はここをどんな気持ちでこうやって東京に移動したのだろうか?」
日が変わって午前1時30分すぎ、ぼくはプライベートスタジオでもあるMK Cubicle Studio Tokyoにいた。そこで皇居を窓越しから見ていた。夜だからきちんとは見えない。でも太政官が京都から東京に移されたという歴史のドラマを目の当たりにしたぼくには何かしら、くっきりと見えるような気がしてならなかった。
このエッセーは、事実をもとに一部筆者が脚色を加えているため、
一部フィクションになっている部分があります。

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Co-Produced by MK MATRIX

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Proposed by Tadashi Okumura
Edited by Manabu Kimino & Hitono Mamori
Written at MK Cubicle Studios (Tokyo, Nagoya) & Shinkansen "Hikari" Super Express

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Production Supervised by MK SPACE Management Office

Website's Reference to
京都市水道局(http://www.city.kyoto.jp/suido/main.htm)
京都歴史資料館 (http://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/)
平安遷都1200周年記念協会 (http://web.kyoto-inet.or.jp/org/kent1200/)
hola-espana (>>http://www.hola-espana.co.jp)
京都駅の駅ビル (>>http://www.kyoto-station-building.co.jp)
JR京都伊勢丹 (>>http://www.wjr-isetan.co.jp) 

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Special thanks to Tadashi Okumura, ZENRIN Co., LTD., Kyoto City,
and all of our friends & fans

Released on Sep. 1, 2001 [1st edi.]

Published by MK SPACE Dandelion Office


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