ALONSO & HAMLET
-スペイン旅行記-

[マドリード編(1)]


マドリード半日観光


昨日のバラハス空港でのアクシデントは確かにショックではあったが、それを引きずっていては楽しい旅行が始まらない。エスポサには初めての海外旅行でキツイかもしれないけれども、ほんの少しだけ頑張ってほしいところだ。

さて、我輩たちが泊まっているホテルは、マドリードの北部にあるチャマルティン (Chamartín)という地区にある、HUSA CHAMARTÍN HOTELというホテルである。マドリードの北の玄関口であるチャマルティン駅 (Estación de ferrocarril de Madrid-Chamartín)のすぐ近くにあるホテルである。マドリード在住の我輩の大学の先輩のサルバドール弁護士の話によると、HUSA CHAMARTÍN HOTELは、こうした立地であるため、多くのビジネスマンも多く利用するのだという。あとで調べて分かったことであるが、HUSA GROUPのホテルは国内外125都市で160以上の場所で展開されているそうである。少々例えが異なるのかもしれないが、日本で言うと、ルートインや東横インをさらに高級にした感じのホテルといったところだろうか?

前日に疲れていたせいもあってか、目覚めは大変よかった。ホテルのロビーにあるレストランで朝食サービスがあったので、そこで朝食を楽しんだ。食事はビュッフェ方式で、多くの種類のパンやベーコンを揚げたものやトルティーリャ・エスパニョーラなどが並んでいた。飲み物もオレンジジュースやパインジュースといったジュース類、ミルク、コーヒーなど、選ぶには困らないほどだった。味もなかなかよい。結局朝からお腹いっぱいになった。国内・海外問わず、旅行をすると日常生活よりも朝食を多くとっているような気がするが、気のせいだろうか...。

身支度をし、早速パッケージ旅行に付いていた「マドリード半日観光」の集合場所である、フロリダ・ノルテ・ホテルへタクシーで向かった。フロリダ・ノルテ・ホテルは懐かしい...。我輩が最初にスペイン旅行をした時に拠点にしたホテルであったからだ。


大きな地図で見る
(Husa Chamartín Hotelの場所)

車窓からは昨日降ったと見られる雪が残っていた。エスポサがタクシーの車窓からカメラのシャッターを切っていた。

写真はホテルを出て少し南下したところにあった集合住宅街と思しき場所である。雪が積もった様子もバッチリ分かるはずである。

タクシーに乗って20分ほどで、目的地のフロリダ・ノルテ・ホテルに到着。そこで、日本人スタッフのアヤさんと合流した。若干集合時間までに時間が余っていたので、雑談をしていた。どうやらパリからマドリードの便は、我輩たちがギリギリのタイミングで乗った便を含めて2便しか運航されなかったのだそうだ。予め、AF1900便に乗ることになっていなければ、今頃はパリにいたことになる。それはそれでハプニングを楽しむということでよかったのかもしれないが(笑)、やはり今回の目的はスペインだったので、きっと疲労感はより蓄積していたはずである。そして、マドリードは本当に何十年かぶりの積雪で、今日は滅多に見られないマドリードの雪景色を楽しめると話をしていただいた。我輩たちは運に恵まれたと言えなくもない。

時間になったのでバスは出発。コースとしては、スペイン広場を回り、プエルタ・デル・ソルやスペイン銀行を車窓から眺めた後、国立ソフィア王妃芸術センター (Museo Nacional Centro de Arte Reina Sofía)で美術鑑賞をし、三越マドリードで解散というコース。我輩たちは特に買い物には興味がないので、途中の国立ソフィア王妃芸術センター (Museo Nacional Centro de Arte Reina Sofía)で解散し、国立プラド美術館 (Museo Nacional del Prado)で引き続き絵画鑑賞を行うコースを選んだ。

まずは、スペイン広場 (Plaza de España)。解説は拙著でも行ったこともあるのでそれを拝借すると(笑)、スペイン広場は、1930年に世界で最も素晴らしい文学作品と言われる「ドン・キホーテ」の作者のミゲル・セルバンテス (Miguel de Cervantes Saavedra)を記念して作られた広場で、公園の中央にはセルバンテスの石像がドン・キホーテの石像とサンチョ・パンサの石像を見下ろすように立っている。

[2009.01.10 スペイン広場写真] [2000.03.23 スペイン広場写真]

今回でスペイン広場も3回目になるが、雪化粧した「スペイン広場」を初めて見ることができた。池には氷が張っており、オリーブの木や広場内にあるお馴染みのモニュメントは雪化粧をしていた。参考までに、最初にスペイン旅行に行った時に撮影したデジカメのデータが残っていたので、この旅行記の読者の皆様には特別に雪のない「スペイン広場」と写真を比較していただくことにしよう。

もう1枚、雪のかぶった寒そうなドン・キホーテとサンチョ・パンサの写真をお楽しみいただきたい。

ドン・キホーテもサンチョ・パンサも雪をかぶっている。2人ともかなり寒そうだ(笑)。彼らの物語を我輩は未だに読んだことがないのだが、いずれはスペイン語の原語で彼らの物語を全部読んでみたいとは思っている。だいぶ先のことになるとは思うが...。日本語でも、「ドン・キホーテ」刊行400年を迎えた2005年に、荻内勝之先生が和訳された「ドン・キホーテ」が発売されており、値ははるものの好評のようである。我輩も読んでみたい。

[文学賞情報]
2006年 第42回 日本翻訳出版文化賞受賞
[要旨]
雄大深遠にして血湧き肉おどる物語。日本語の語り調子を生かして味わい深く、朗読して文章の美しさ物語の面白さを堪能できる新訳に、堀越千秋氏の挿絵各巻10点を入れて刊行。
[出版社商品紹介]
騎士物語を読みすぎて妄想にとらわれたドン・キホーテの物語を、日本語の面白さ、美しさを画期的な新訳で大切に訳した。

e-hon.ne.jpを参照

さて、まだ旅は始まったばかり。バスに乗り込んで、今度はマドリードの中心部を車窓で楽しんだ。

まずは、「スペイン広場」のほど近くにある「王宮 (Palacio Real)」の雪化粧写真。こんな王宮は始めてみた!!車窓からの撮影で、エスポサによる...。

バスは「マヨール通り (Calle de Mayor)」に入り、マヨール広場 (Plaza Mayor de Mayor)周辺を通過し、「シベーレス広場 (Plaza de Cibeles)」の交差点を右折。写真は右折中にエスポサが撮影したもの。移動中に撮影したのでピントが合っていないが、大地豊穣の女神であるシベーレスの上にも雪が積もっている。

そういえば、地元の人気サッカーチームのレアル・マドリード (Real Madrid)がタイトルを獲得すると、選手もサポーターもこの「シベーレス広場」の前に集まる。そして、優勝の喜びをこの場で分かち合う。拙ブログにも、2008年5月5日付けで「リーガ・エスパニョーラのチャンピオンにレアル・マドリー!!」という記事を書いたことがあるが、以前はシベーレスの操る2頭のライオンの上に乗るというパフォーマンスがあったのだが、像が破壊されるなどのトラブルもあり、現在はそういうことはしなくなっている。

バスはプラド美術館を通り過ぎ、マドリードの南のターミナル駅であるアトーチャ駅を通過。写真は旧駅舎の外観である。駅舎内はまた後日の旅行記をお楽しみに...。

目的地の国立ソフィア王妃芸術センター (Museo Nacional Centro de Arte Reina Sofía)に到着。バスから降りて、美術館の中に入る。

この美術館は、国立ソフィア王妃芸術センターは、かつて建物はカルロス3世が建築家サバティーニに建てさせた病院で、それを美術館にしたものなのだそうだ。20世紀の現代美術を集めた美術館で、ここの芸術センターの2階には、知る人ぞ知る「ゲルニカ (Guernica)」がある。その他、サルバドール・ダリ (Salvador Dalí)やミロ (Joan Miró)といった現代美術の巨匠たちの作品を見ることができるし、25000冊以上の蔵書を持つ図書館、ミュージアムショップなども充実している。

ツアーでは、パブロ・ピカソ (Pablo Picasso)の「ゲルニカ」を紹介していただいた。「ゲルニカ (Guernica)」とは、スペインの北部にあるバスク地方の都市の名前である。スペイン市民戦争が始まった翌年の1937年4月26日に、フランコ将軍を支持するヒトラー率いるドイツ軍の軍機ユンカーによって人口6000人の小さなまちである「ゲルニカ」が爆撃された。死者は598名、1500余人の負傷者を出した。

スペインはイデオロギーの対立など、いろいろな立場の人たちがいろいろな形で対立していた。それが国内全体を巻き込んだ「内戦」状態になっていた。対立軸を大雑把にまとめると、次のような形になる。

- 人民戦線内閣
(共和国政府)
反乱軍
首班 アサーニャ大統領 フランコ将軍
支持層 労働者階級や貧農 カトリック教会や地主や資本家
各国の関与 ソビエト ナチス=ドイツ
国際義勇軍 イタリア
メキシコなどの
中南米の国々
ポルトガル
(独裁者: サラザール)
イギリスやフランスは関与せず (宥和政策のため)

当時、ピカソは1937年にパリで開催された「パリ万博 (Exposition internationale des Arts et Techniques dans la vie moderne, Expo 1937)」のスペイン・パビリオンの入り口の壁画を描くことを当時の共和国政府から依頼を受けていたのだが、ゲルニカにおける世界初の無差別空爆の惨状を世界に知らしめたいという思いから、この絵の執筆を始めたそうである。この絵は、万博後はロンドンなどを経由してニューヨーク近代美術館で保管された。フランコはこの絵のスペインへの返還を求めたが、作者のピカソは「スペインに自由が戻るまではこの絵を国内には入れない」ということを理由にこれを拒否。「ゲルニカ」がスペインに戻ってきたのは、ピカソが死に(1973年)、フランコが死に(1975年)、政体が1978年憲法で「議会君主制」となりスペインに民主主義が定着し始めた1981年にスペインに返還された。最初は、国立プラド美術館 (Museo Nacional de Prado)別館に置かれていたが、国立ソフィア王妃芸術センターができてからはそちらに移転した。少し前までは防弾ガラスに警備員がついた状態でしか観賞できなかったが、現在の警備はセンサーと係員のみである。

他にも、色使いの上手な初期のミロの作品やデッサンの上手なダリの作品などが展示されており、ぜひ彼らの活動の中心だったカタルーニャ(バルセロナ)で彼らの作品を見たいと思った。

ここで、我輩たちの半日観光は終了した。正規のルートでは、ここから三越のマドリード店に行くらしいのだが、我輩たちは20世紀以前の美術品が多数展示されている世界でも有数の国立プラド美術館 (Museo Nacional de Prado)へ向かうことにしていたので、自分たちで向かうことにした。


プラド美術館


現在の時刻は午前11時30分。プラド美術館で絵画を見れば、スペインではちょうどよい昼食の時間になる。伝統的にスペインの昼食時間は午後2時00分を過ぎてからであるためだ。日本の感覚であれば、少し早い昼食をとって...ということになるが、ここはちょっぴりスペイン風(注: 但し、この時間におやつをとる習慣はある!!)...。

プラド美術館は、1785年に名君カルロス3世によって建設が始まったのだが、当初は自然科学博物館になる予定だったそうだ。これが世界の名だたる美術館になったのは、1808年の「スペイン独立戦争」後にフェルナンド7世(彼は評判が悪い!!)とイサベル・デ・ブラガンサによって、スペイン王家の莫大な美術品を所蔵する美術館へと計画が変更になってからである。詳しく説明しよう。スペイン独立戦争時に、ナポレオン軍はスペイン各地で美術品の略奪を行なっていた。ナポレオンはパリに自分のコレクションによる美術館を作ろうという目論見があった。こういう状況を見たスペインの有力者は、芸術作品の国外流出を防ぐために、美術品を一手に集めようという構想が練られ、それがプラド美術館建設につながったということだそうだ。プラド美術館は、例えばイギリスの「大英博物館」などとは異なり、略奪品が基本的にはない。ほとんどの作品は、王室の遺産相続と購入によって供給されている。それは先ほど述べたプラド美術館が建設された経緯と理由を見れば、何となく想像がつくはずである。

さて、そんな薀蓄はともかくとして、早速プラド美術館へ...。が、その前に、外観写真を...。この時間になると日があたり始め、人通りの多いところや日当たりのよいところの雪が溶け始めていたので、雪化粧の...とは行かないかもしれないが、写真を数枚ご紹介したい。

プラド美術館は全部で3つの門があり、それぞれ画家の名前であるベラスケス門、ゴヤ門、ムリーリョ門と呼ばれている。上の写真はベラスケス門で、プラド美術館の正面である。写真中央部にある像がディエゴ・ベラスケス (Diego Velázquez)である。ベラスケスの像を拡大してみると、

頭とカンバスに雪がまだ残っている(笑)。これにはさすがに大笑いしてしまった。

美術館に入って、いろいろと有名な絵画について、我輩がエスポサに解説を加えていった。

まずは我輩の大好きな画家であるディエゴ・ベラスケスについて...。ここからは、拙著「エル・ソル・イ・ラ・ルナ」の記述を借りることにしよう。

彼はセビーリャ (Sevilla)というスペインの南部の都市に生まれた。彼は「王家画家」としてフェリペ4世に仕え、絵だけではなく、事務実務までを宮廷でこなしていたそうだ。


Diego Velázquez "Las Meninas" (1656年)

彼の作品で忘れてならないのは、「ラス・メニーナス (官女たち)」だ。世界美術史にその名を残す傑作だ。
「この作品は誰を描いているのか」
と言われれば、絵の真ん中にいるマルガリータ王女だと答える人がいるがそうではない。王家画家とは王様を描くために存在するのだ。特に、ベラスケスは当時複数いた王家画家の中で、唯一王様(フェリペ4世)の「顔」を描くことを許された画家である。あくまでフェリペ4世を描くためにベラスケスは宮廷で絵を描いているのだ。そうだとすれば、当のフェリペ4世はどこにいるのだろうか。奥の方にいる男性に注目してもらいたい。すぐ左隣には女性がいる。そうなのだ。その2人こそがフェリペ4世と王妃なのだ。さらに、彼らの視線に注目してもらいたい。彼らは手前にある「板」に注目している。ではこの「板」は何か。その板の正体は、何とキャンバスである。そして、キャンバスの隣にいる男がベラスケス本人である。なぜ描いている本人が絵の中にいるのか。実は、この絵はフェリペ4世夫妻の絵を描いているところを描いた絵なのである。ここからがまたすごい。ベラスケスは、キャンバスの横に鏡を置いて、鏡に映ったフェリペ4世夫妻の絵を描いていて(真横にいる人を正面から書くことはできないという理屈はお分かりになると思う)、その鏡に映っている姿を左右逆にして(鏡は左右が反対になるので)、「ラス・メニーナス」という絵を描いているのである。もう頭の中がゴチャゴチャかもしれないが、要するに彼は絵を描く視点にまでこだわったのだ。彼の作品には、こういった「実験性」の強い作品が多くあるのだという。
彼の有名な作品をあげておくと、
などがある。どんな絵にの中にもドラマがあるが、彼の絵の中にあるドラマはぼくたちを関心の渦に巻き込むこと間違いなしだ!!

それから、もう1つ重点的に紹介したのがフランシスコ・ゴヤ (Fransisco Goya)の絵である。ゴヤの絵についても、拙著「エル・ソル・イ・ラ・ルナ」の説明を借りることにしよう。

ゴヤが王室画家になった18世紀は、スペインの王室はハプスブルク家からブルボン家に変わったという大きな転換期を迎えていた。ゴヤが生まれたのは、フェルナンド4世が王位に就いた1746年だった。出身は、スペイン東部のアラゴン地方のサラゴサ (Zaragoza)という都市だ。ゴヤは好奇心旺盛な人物であったらしい。彼が46歳の時に病気が原因で聴覚を失ってしまい、そこから彼の作風が変わったという人が多い。しかし、それは「画風の転換」ではなく、「洞察力が増した」といった方がよい。彼が聴覚を失ってから描いた絵には傑作と呼ばれるものが多い。

我輩が彼の絵の中で好きな絵は、「カルロス4世の家族 (La Familia de Carlos Ⅳ)」だ。この絵は、1799年に描かれた絵である。絵の主人公であるカルロス4世は、狩猟と時計いじりには大変凝っていたそうだが、政治に関しては無能であったらしい。一方の王妃であるマリア・ルイサは、大変ワガママな女性であったとか...。そんな王室を見ていたゴヤは、王様であるカルロス4世よりも王妃マリアの方を堂々と描いたのだという。王室画家であれば、「理想の夫婦」というのか、いわゆる「イイ夫婦」であるところを描くであろう。しかしこの絵は違うのだ。ゴヤが王室を風刺して描いたかどうかは定かではないが、王妃の方が堂々として見えるのは間違いない。この絵が面白いのは、後ろの方にゴヤ自身もいるということだ。彼はベラスケスの「ラス・メニーナス(官女たち) (Las Meninas)」を意識してこの絵を描いたとも言われている。
「カルロス4世の家族 (La Familia de Carlos 4)」の絵の周りには、カルロス4世を始めとして、「カルロス4世の家族 (La Familia de Carlos Ⅳ)」に描かれている多くの人物の肖像画が展示されている。これは、「カルロス4世の家族 (La Familia de Carlos Ⅳ)」を描くためのスケッチだったとか...。この絵は、登場人物一人一人をスケッチして、それを組み合わせて描いた絵画なのだ。

それから、当日は他所に出張していて残念ではあったが、「裸のマハ (La Maja Desnuda)」と「着衣のマハ (La Maja Vestida)」についての解説もエスポサにはした。さらに、ナポレオンがスペインに侵入してきた時代でもあったので、その時代背景についても説明した。この点についても、拙著「エル・ソル・イ・ラ・ルナ」の文章を借りることにしたい。

当時のスペインは保守的な社会と言われ、人間のヌードを描くということはもってのほかというような社会であった中で、ゴヤは人のヘアヌード画である「裸のマハ (La Maja Desnuda)」を描いた(それ以前の「ヌード画」は、建前上神様を描いたものである)。「マハ」とは、当時のシティライフを自由気ままに楽しんだ粋な下町姐のことである。ゴヤはいったいどういう理由で誰を描いたのだろうか。「裸のマハ (La Maja Desnuda)」と「着衣のマハ (La Maja Vestida)」の所有者であるゴドイ宰相のかつての愛人アルバ女公爵なのか、愛人ペピータなのだろうか、説は様々であるそうであるが、実に謎に満ちた絵画であるそうだ。ちなみに、この「絵」はゴドイがカルロス4世の息子のフェルナンド7世によって失脚させられた後に、彼の宮殿からこの2つの絵が出てきたのであるが、生身の女性の裸をリアルに描いたという咎で異端審問にかけられた。絵は100年弱プラド美術館の地下に幽閉され、再び公衆の前に現れたのは1901年のことであった。

以前に、カルロス4世時代の複雑な恋愛関係(!?)を図式化したものを作ったことがあったので、それをここで引用することにしよう。

もう1つ、当時のスペイン王家であるブルボン王朝の系図も掲載しておきたい。これを踏まえて、以後の文章をご覧になっていただきたい。

こういった王室で、当時皇太子であったフェルナンド7世は、国内の保守派と共に、カルロス4世に対してクーデターを起こした。フェルナンド7世は王位に就くものの、カルロス4世が王位の復権を宣言。ここで国内で対立が起こる。2人の国王が同時に存在する形になってしまった。スペイン国内の混乱に乗じて、フランス軍がスペインに侵入。最終的にはカルロス4世とフェルナンド7世はフランスに幽閉され、ナポレオンの兄であるジョセフがホセ1世としてスペイン国王に即位した。もちろんこれはナポレオンが行なったことだ。スペイン人の国王が幽閉され、異国のフランス人が国王になったことについて、スペイン国民は立ち上がる。

その時の様子をゴヤが描いた。絵のタイトルは、「5月2日 (El Dos de Mayo)」である。

これが、いわゆる「スペイン独立戦争 (Guerra de la Independencia Española)」(英語では、"Peninsular War"ということから、日本では「半島戦争」の名前の方が一般的である)の始まりである。この後、フランスに対抗するイギリスの軍隊もスペインに次々と派遣され、スペイン国内は大混乱に陥った。イギリス軍の支援を受けたスペイン市民はゲリラ戦法でフランスのナポレオン軍を苦しめた。

ナポレオン軍は「ロシア遠征」の疲弊も重なって、ついにスペインから軍隊を引き上げた。苦しい中、スペインはフランスから独立を果たした。

プラド美術館の絵は、スペイン王家がコレクションした絵が展示されている。したがって、ある程度スペインの歴史を勉強されて行かれると、より絵を楽しむことができると思う。

せっかく、ゴヤの描いた「5月2日 (El Dos de Mayo)」を見た後だったので、次はこの絵が描かれた場所の「プエルタ・デル・ソル (Puerta del Sol)」に行くことにした。


スペインの0km地点から...


プラド美術館からプエルタ・デル・ソルまではメトロを使って移動した。プラド美術館の最寄り駅は、先ほども通った「アトーチャ駅 (Estación de Atocha)」である。

「アトーチャ駅」はマドリードの南の玄関口で、スペイン高速鉄道「AVE (Alta Velocidad Española)」の発着駅であり、ポルトガルのリスボンへ行く国際列車の発着駅でもある。また、マドリード近郊へ向かう列車の発着駅でもある。

この駅の特徴はやはり駅舎内の大きな植物園だろうと思う。大きなアーチ型のドームは外の光を取り込めるようになっているので明るい。人が集まるところなのでスリや置き引きといった犯罪も多いと旅行ガイドブックには書いてあるが、この日はそのような感じはなかった。

こういった芸術的な雰囲気の駅で、我輩はどうしても2004年3月11日にアトーチャ駅を含むマドリード近郊鉄道で同時多発テロがあったニュースの記憶が蘇ってきてしまう。日本語でスペインニュースが読めるspainnews.comの記事を一部引用しながら、当時の事件を振り返ってみると...


2004年3月11日(木)
マドリッドで同時テロ
今朝7時35分頃、マドリード自治州内3箇所いおいてほぼ同時に爆発発生。いずれも国有鉄道RENFEの運行する列車を狙ったもので、マドリード市内にあるアトーチャ駅からおよそ800メートル離れた線路上、郊外にあるサンタ・エウヘニア駅の傍、及び、同じく郊外にあるエル・ポソ駅において爆弾が爆発。それぞれ、列車内に置き去りにされていたリュック、またはそれに類似したものに時限爆弾がしかけられたいた。爆発の結果、幾つかの車両は大破し、現時点(同日13時)において、政府正式発表によると、死者173人、負傷者711名と報告されているが、この数字はまだ変化するものと見られる。
朝の通勤時間であったため、列車の利用者も多く、多数の被害者を出したこの無差別テロは、一般にはバスクの独立をかかげるテロリスト組織ETAの犯行として報道されており、過去のバルセロナにおける惨事を大きく上回るものとなった。

これが最初の報道であったが、次第にこのテロの内容が明らかになっていく。次の日の3月12日のspainnews.comの記事を見ると...


3月12日(金)
11-Mテロの死者198人、負傷者1430人と発表
昨日の朝のマドリード近郊電車を標的にした4件の同時テロは、合計13の爆弾によるもので、うち5つがアトーチャ駅ホームで爆発した車両内、4つがアトーチャ駅近くで爆発した車両内、3つがエル・ポソ駅で爆発した車両内、1つがサンタ・エウヘニア駅で爆発した車両内に仕掛けられていた。この13の爆弾のうち、アトーチャ駅ホームの2つとエル・ポソ駅の1つは、救助活動にやってくる人々をねらって遅れて爆発するよう仕掛けられていた爆弾だったが、爆発物処理班により解除された。
(一部略)
10個の爆弾が爆発したのは昨日の午前7時35分から45分の間。テロリストたちはリュックサックやスーパーのビニール袋に8~12キロの爆薬を詰めてマドリード市の北東30キロにあるベッドタウン、アルカラ・デ・エナレス駅とマドリード主要駅の1つであるアトチャ駅を結ぶ路線に仕掛けた。最初の爆発が起こったのは、午前7時39分。アトチャ駅に到着したアルカラ・デ・エナレス発の列車で、6両編成の列車の3両目、4両目と6両目で爆発が起きた。その3分後、最初の爆発から500m離れた場所でアトーチャ駅に入ろうとしている6両編成の列車の1,3,4,6両目の4ヶ所で爆発が起こり、同時にマドリード市内でも低所得者層が多く居住している地域にあり、アトーチャ駅から2つ目のエル・ポソ・デル・ティオ・ライムンド駅、4つ目のサンタ・エウヘニア駅に停車中だった電車でも爆発が起こった。

ということで、悪質なテロであったことが分かる。

ところで、問題なのはこのテロを行った犯人は誰か?という問題である。11日にはバスクの独立を主張する組織である「ETA (Euskadi Ta Askatasuna:バスク祖国と自由)」による犯罪であったと報道されているが、実はこれをめぐって、スペイン政局を揺るがす大問題となっていく。

専門家によれば、このテロが通常のETAのテロの方法とは異なると見る向きが強かった。そのポイントをspainnews.comの記事をもとにして2点にまとめてみると、

  1. 規模のテロを起こすには、最低1ヶ月の準備期間と12~30人の人材が必要だが、スペイン内務省では、ETAがマドリードに確保している人材はこれより少ない。
  2. ETAがテロを行う際には、通常「事前予告」をする。

といったことがあげられる。一方で、ETA説とは別にあがってきたのがアルカイダ説である。

  1. 2月28日にマドリッドで盗まれたバンが午後12時頃、アルカラ・デ・エナレスで見つかったこと、そのバンの内部から起爆装置7つとコーランの一部を読み上げたテープが見つかった。
  2. アルカイダはロンドンに本社のあるアラビア語新聞“Al Quds Al Arabi”社に犯行声明をE-メイルで送付、この中でテロリストグループアルカイダ関連組織と名乗るアブハフス・アルマスリ旅団(トルコのシナゴーグテロ、バグダッドの国連事務所テロの犯行声明を出した組織)は今回の反抗を“死の列車”作戦と呼び「我々は、十字軍同盟の基地のひとつに打撃を与えることに成功した」と述べている。

次の日に、イスラム過激派が逮捕されるというニュースが報道された。


3月13日(土)
マドリードでのテロに関与した疑いで5人逮捕
スペイン警察は、先週の木曜日マドリッドで起きたテロの首謀者は、昨年5月16日にモロッコのカサブランカで起きたテロ(43人が死亡)と同一のイスラム過激派グループであるとの結論に達した。これを受けてスペインから捜査チームがモロッコに向かい、同時にモロッコからスペインへも捜査チームが派遣された。
不発に終わった爆弾の時限装置として使用された携帯電話の売買とカード偽造の容疑で土曜日にマドリードのラバピエス地区で逮捕されたモロッコ人3人とインド人2人のうち、ジャマル・ゾウガム、モハメッド・ベッカリ、モハメッド・カホウイのモロッコ人3人は、傷害、盗品売買、殺人などの罪によりスペイン警察での前科があることがわかっている。インド人2人については名前以外の詳しい情報は明らかにされていないが、テロに使われた携帯電話をモロッコ人3人に売った模様で、この2人がテロにどの程度関与していたかについては、今後の捜査結果が待たれている。

スペイン政府が列車爆破テロがイスラムによるものではないことを述べていたのは先のアメリカで起こった「9・11事件」以降、アメリカのイラク侵攻を支持し続けたことによって起こったテロではないということをカムフラージュしたかったのではないか?という疑念や、テロについての真実の情報をディスクローズしてほしいという要求をアスナール政権に対して持つようになっていた。こうした主張を持った人たちが7000人ぐらいも集まり、デモが起こったぐらいである。しかしスペイン政府はこうした世論の声に対して積極的に動こうとはしなかった。それが、3月14日(日)に実施された国政選挙の結果に影響が出てしまったのだ。

Candidatura Votos Válidos Diputados
PSOE 11.026.163 42,59% 164
PP 9.763.144 37,71% 148
CIU 835.471 3,23% 10
ERC 652.196 2,52% 8
EAJ-PNV 420.98 1,63% 7
IU 1.284.081 4,96% 5
CC 235.221 0,91% 3
BNG 208.688 0,81% 2
CHA 94.252 0,36% 1
EA 80.905 0,31% 1
NA-BAI 61.045 0,24% 1
“Detalle de Elecciones - Elecciones Congreso de los Diputados Marzo 2004”

アメリカを支持していた当時の与党「国民党 (PP: Partido Popular)」は選挙で破れ、野党だった「社会労働党 (PSOE: Partido Socialista Obrero Español)」が政権をとり、サパテロ首相は当時イラクに派遣していたスペイン軍を引き上げさせた。テロが政治を変えたとも言える大きな事件であり、アメリカであった2001年9月11日の同時多発テロ以来の大都市で起こったテロとして、スペイン史上に残る大きな事件となってしまった。その現場の1つがアトーチャ駅であったのだ。意見を暴力で主張することは自由権と民主主義体制を脅かす卑劣極まりない行為と断じざるを得ない。我輩も当時大きな怒りを覚えた。

閑話休題、我輩はメトロの「アトーチャ駅 (Estación de Atocha)」から目的地の「プエルタ・デル・ソル」近くの「ソル駅 (Estación de Sol)」まで、「1番線 (Líneas 1)」を使った。地下鉄は自動で扉は開かない。ドアには取っ手がついていて、それを引っ張った扉のみが開閉するという仕組みだ。全自動扉に慣れているエスポサは最初は若干戸惑っていたようだった。

「ソル駅」に到着。

早速地上に上がった。そこには大きな広場があった。ちなみに、「プエルタ・デル・ソル (Puerta del Sol)」とは日本語にすると「太陽の門」となるが、この辺りには「門」らしきものはない。どちらかと言うと、「広場」のようなところである。


大きな地図で見る

「ソル」はマドリードの中心地であり、スペインの中心でもある。ここで2枚の写真を見ていただきたい。

1枚目はマドリード自治州庁舎。写真からは少し見難いかもしれないが、入り口の上部には右からEU旗・スペイン国旗・マドリード自治州旗が立てられている。スペインもEUの1つだということがこういう旗を見ただけでも実感できる。マドリードの行政の中心である。自治州政府庁舎の上にある時計台は大変有名な時計台で、年越しはこの時計台が全国に生中継される。理由は、スペインでは年越しの際に12粒のぶどうを食べる習慣があり、その際にこの時計台の鐘に合わせて食べるからなのだそうだ。

それではもう1枚。ここはスペインの0km地点である。意味合いで言うと、日本では東京の日本橋といったところだろう。下の写真を見ていただくと、Origen De las Carreteras Radialesというスペイン語が書いてある。訳すと、「放射線道路の起源」とでもなるだろうか?我輩たちはここを「原点」として、この旅行を「原点」として、ここから人生の第一歩を踏み出すことにしようということで記念写真。おぉ、これが我輩のエスポサのネット世界の初デビューだ!!それが足かい!!まぁいいや。

ここでは他にもいろいろな写真を撮影したので紹介したい。

マドリードの象徴である「熊」の銅像。なぜ「熊」なのかはいろいろな説があるらしく、我輩もよく分からない。ちなみに、マドリード自治州の自治州旗が「7つ星」なのは、北斗七星が大熊座にあるところから付けられたということを定かではないが聞いたことがある。ちなみに下の旗がマドリード自治州旗である。

それからマドリード自治州庁舎の壁面に書かれた2つのメッセージである。1つは先ほどのプラド美術館に展示されていたゴヤ作の「5月2日」で描かれた現場、換言すれば、「スペイン独立戦争」勃発の地となった場所である「ソル」について書かれたメッセージである。写真は最初にスペインに訪れた時に撮影したものである。

もう1枚は、「アトーチャ駅」のところで長々と書いた列車連続爆破テロの慰霊碑である。

このテロのニュースはインターネットなどを通して情報を仕入れていたが、実際にこういう慰霊碑を直に見ると、テロへの恐怖・怒り・悲しみを感じざるを得ない。スペインの中心地という場で、平和な世の中であらんと祈りを捧げたい。



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