陪審制と司法改革

 

執筆: 小林健作

はじめに

1999年6月9日、国会において司法制度改革審議会設置法が成立した。本法律は、新たな世紀に司法がどのような役割を果たすべきかを明らかにし、基本的施策を調査・検討することを目的とする司法制度改革審議会の設置を定めたものである。

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司法制度改革が求められる背景には、裁判に多額の費用や長い時間がかかり、市民の常識から遊離した判決が多々あるなど、日本の司法制度が十全でなく、また、21世紀を目前に、政治、行政改革が進められると同時に、司法制度も抜本的な見直しを迫られることになったことが挙げられる。

審議会においては、

  • 国民がより利用しやすい司法の実現国民の期待に応える民事司法の在り方
  • 国民の期待に応える刑事司法の在り方
  • 弁護士の在り方
  • 法曹養成制度の在り方
  • 国民の司法参加
  • 法曹一元その他関連する問題

などが議題として審議されているが、本稿ではとくに国民主権、民主主義と統治主体意識の実質化のために必要なことである国民の司法参加について、その具体策の一つである「陪審制」を中心に取り上げることとする。

陪審の定義

裁判に素人が関与する制度を「広義の陪審」、その中で素人が事実の認定だけを行い、法律の適用・刑の量定は専門の裁判案が行う制度を「狭義の陪審」という。

法律の適用や刑の量定についても素人が関与する制度を「参審」と呼び狭義の陪審と区別する。

陪審の期限

陪審制の起源は必ずしも明確ではないがゲルマンのフランク時代に事件が起こったとき、村の人たちに宣誓をさせて犯人を指名させる慣行が生じた。これがノルマン・コンクェストによってイギリスに伝えられたといわれる。イギリスでは12世紀にこれが起訴陪審の原型となった。起訴陪審とは、被疑者を審判に回すかどうかを審判で決める制度のことである。

初期、この起訴陪審で審判に回された被告人は神判(くかたちなど)で自らの無実を証明しない限り有罪とされた。13世紀に神判が禁止されて後は、その同じ起訴陪審員によって裁かれた。

しかし、起訴したものが自分で裁判するのは不公平の恐れがあるとして、裁判をする際には新たなものを加えて行うようになり、後には新しいメンバーだけで裁判をするようになった。

このようにして起訴陪審の他に審判陪審が成立した。前者は一般に多人数なので大陪審と呼ばれ、後者は少人数なので小陪審と呼ばれる。

このような審判陪審が狭義の陪審である。大陪審の制度は革命当時フランスで取り入れられたことがあるが失敗に終わった。イギリスでも今では原則的に廃止されている。これに対して、小陪審は人権を保障するための制度として多くの国々に採用された。

我が国における陪審制度の歴史

日本では明治初年、ボワソナード起草の治罪法草案には陪審の規定があったが、結局この規定は削除され、のち、1923年(大正12年)になり陪審法が制定され、刑事事件についての陪審制度が認められることになった。

具体的には、原内閣のときに陪審制導入の動きが始まる。背景として大正デモクラシーがあり、国民が司法に参加していくという民主的な動きとして提案され、最終的に陪審法が成立した。

この陪審法については相当な準備期間を置いている。成立したのは大正12年だが、実際に施行したのは昭和3年10月1日であるから、5年余の時間をかけている。この間に政府は、

  • 判事・検事を合計で256人増員。
  • 全国各地に陪審法廷を設置し、当時は2日以上にわたる場合には、宿舎に泊め置くという制度であったので、大体各地方裁判所に隣接して宿  舎を建設。
  • 講演会を全国で延べ3,339回、政府主催。聴衆の延べ人数は124万人。
  • 啓蒙のパンフレットを284万部作成。(総人口が5,000~6,000万、かつ陪審員の資格が男子で直接国税3円以上を2年続けて納めるなどの要件により、全国の有権者の約14%が対象の時代)
  • 映画を作成し、4巻の外国版映画と7巻の日本版映画を各地で上映。
  • 10月1日に施行にあわせ、それを当時「司法の日」として記念日とする。

などの施策を行い、これにより当初は期待も大きく、それなりの利用件数もあったが、次第に件数が減り昭和18年には年間に数件になった。

利用者減少の原因としては有罪の場合に陪審費用も訴訟費用に含まれ被告人の負担とされたことが挙げられる。

また、控訴が許されなかったことから圧倒的に被告人に不利になるので、法律家の方で躊躇をしたということ、さらに、裁判所も非常に手続が複雑で大変だということで、法廷で被告人に陪審の辞退をかなり勧めていたことも原因として考えられる。

そして、この時点では戦争も激しくなり、陪審員を確保も負担となった。そして、陪審制は利用もされないし負担も重いという判断から 1943年(昭和18年)に「陪審の停止に関する法律」が出されて同年4月以来その施行は停止された。

しかし、戦後新憲法制定の過程で陪審制度復活論議が起こる。

憲法制定の過程で、まず憲法問題調査委員会の審議の際に陪審制度復活の意見が出され、枢密院の審議、衆議院、貴族院の委員会及び本会議でも、陪審制度の採用を憲法に定めるべきではないかとの意見が表明された。政府は、憲法には陪審に関する規定を定めてはいないが、陪審を認めることは合憲であり、将来その復活に努力したいと答弁し、憲法に明文の定めを入れることはしなかった。最終段階になって、GHQ側から将来、刑事事件につき陪審制を採用する道を開いておくための規定を挿入することを要請され、結局、現行裁判所法3条3項が定められるに至った。

諸外国の陪審制度の歴史と現状

さて、諸外国で陪審制度はどのように機能しているのであろうか。現在、世界の刑事陪審事件の約8割がアメリカ一国で行われている状況にあるように、陪審制が最も利用されているのはアメリカである。

アメリカの陪審制度は、イギリスから導入された。本国であるイギリスと植民地であるアメリカとの対立に伴って、その陪審制度が植民者の利益を守る役割を果たしたことから陪審制度が憲法上の権利としても保障されるに至った。そのイギリスにおいては、絶対君主制のもとで、陪審が王の命令に盲従する裁判官に抵抗し、国民の利益を守るという機能を果たすことでその信頼を得たことから陪審制度が定着した。

フランスにおいては、フランス革命をきっかけとして、絶対王政下の裁判制度に対する反省から、イギリスにならった陪審制度が導入された。また、ドイツでは1848年のヨーロッパ革命を契機として、フランスにならって陪審制度がそれぞれ導入された。

しかしながら、フランス、あるいはドイツにおいては、一旦導入された陪審制度について、法律を適用する職業裁判官が極端な厳格な態度を取るのではないかということを恐れて、証拠が十分であるにもかかわらず陪審が無罪を答申するというケースか生ずるという不都合が指摘され、現在は陪審制度を廃止して、参審制度に移行している。

アメリカの陪審制について見ると、民事事件では、契約不履行・不法行為による損害賠償請求事件などに陪審制度が採用されているが、実際に陪審で裁判されてる事件は、連邦地方裁判所で見ると、全事件の1.7%程度、刑事事件について見ても5.2%程度と相当数が絞られている。

また、イギリスは民事事件について原則的に陪審を廃止し、現在は名誉毀損など、4種類の限定された類型の事件のみ認められている。よって、陪審で処理されている事件は、わが国の地裁に相当する高等法院で1%未満である。そして、刑事事件についても全事件の1%に満たない数が陪審で処理されている。

ドイツは参審制度を採用し、民事通常事件は職業裁判官のみで審理をされている。ただし、商事、農事、労働、行政、社会、財政という特別な類型の事件について参審制度が採用され、刑事事件については一部の軽罪(簡裁の範疇にある事件)を除いて参審制度が採用されている。

フランスは、民事事件の7割を占める通常事件については、職業裁判官が処理し、特別な類型の商事、労働、社会、農事について参審制度、あるいは非職業裁判官の判断という形の裁判がなされている。刑事については、参審制度によって重罪院で殺人等の極めて重大な犯罪について判断をするものの、事件数としては0.4%である。

また、デンマーク、スウェーデンのでは陪審・参審両方を併用している。

陪審制度の利点と問題点

陪審制度の利点

陪審制度は、市民が陪審員として裁判に直接参加し主権者として司法権を行使することで社会的責任を果たし、参画を通じて統治客体   意識から統治主体意識への転換を促す制度である。また、陪審員を体験することで市民は司法制度の仕組みと法の役割を理解することができる。さらに陪審制度では、市民に分かりやすい論理と言葉を使って裁判が行われなければならなくなる。つまり裁判が一般国民にとって分かりやすく、理解しやすく、どこに問題があったのかが分かりやすくなることが期待できる。

少なくとも法律の専門家が専門用語を使ってやり取りをし、しかも、文書の交換で終わってしまうという現在の裁判から考えれば、陪審制度による裁判の方が一般の国民には分かりやすいといえる。

さらに、社会常識を反映できるので、例えばわいせつ性の評価や名誉毀損といった社会規範的な評価というところに活きてくる可能性がある。

他にも

  • 民主的な司法が実現する
  • 専断的な裁判を阻止できる
  • 司法制度に対する民衆や他の権力機関の攻撃を和らげる緩衝材的役割を果たすことができる
  • 法と民衆の意識を結び付けられる

などの利点がある。

しかしながら、次に述べるように陪審制には多くの問題点も存在する。なお、憲法問題については参審制の問題の場面において指摘する。

陪審制度の問題点

1.上訴の制限

有罪・無罪の理由が示されないので、事実誤認を理由として上訴したり、あるいは再審を請求するということは論理的に許されない。要するに、国民の代表である陪審員がなした事実認定については、一審限りであり、これを職業裁判官が覆すということは、陪審の性質上許容されていないということである。

2.国民の負担

陪審員になった場合、相当期間拘束される可能性がある。 一旦陪審員に選ばれれば、仕事の繁忙や稼業等といったプライベートな面を犠牲にしても、その責務を果たさなければならない。裁判が続く限り連日、裁判所に出頭することは勿論、事件によっては外部からの影響を受けないように、ホテルなどに隔離されることもあり得る。O.Jシンプソンの事件などでは、陪審員が8か月余りホテルに隔離されたということがある。

また、有利な評決を得る目的でさまざまな働き掛けにさらされる危険がある。そして陪審員の予断や偏見を排除するための事件報道を規制する方策が必要となる。

例えばイギリスではかなり厳重な報道規制が敷かれている。アメリカでも、当該事件についてのマスコミの報道に接しないようにということを厳重に陪審員に求めている。

わが国においてもこれら負担を求める点について、国民の理解と承認が必要である。

3.陪審判定の正確性とブラックボックス化及び誤審の問題

とくに刑事裁判について陪審制をした場合に、現在の職業裁判官による裁判と相当異なってくることが考えられる。

現在の日本の刑事裁判においては、犯行の背景事情、あるいは犯意の形成過程、犯行の動機、目的、犯行の態様等が非常に詳細に主張・立証され裁判所の方も極めて詳細な事実を認定し、かつ、その事実の認定についてどのような証拠に基づいてこれを認定したのか、あるいはこの証拠がどのような理由で信用できないのかということを判決理由中に詳細に記載する。

しかし、これが陪審員による裁判ということになると基本的に陪審員は積極的に事実を認定するのではなく有罪か無罪かという判断をするという形になる。具体的な犯行の背景事情、犯行の動機、目的は、犯罪の立証にとって必要不可欠な場合を除いては、原則的になされなくなると予想される。

また、陪審員が有罪、無罪の判断を下す際、その理由は開示されないというブラックボックス化の問題がある。結果的にどのような証拠を用いたかということも示されない。この意味で現在の刑事裁判が果たしている詳細な事件背景認定その犯罪の意義をの明確化が陪審員による裁判では必ずしも果たされなくなる。そして、このことから上訴理由を少なくとも陪審の判定に求めることが不可能となるため先に述べた上訴制限の問題が必然的に生ずる。

さらに、アメリカにおけるマッカーブ・パーバスの研究によって、誤審の指摘がなされている。これは30件の事件について正規の陪審と、同じようにアトランダムに選んだ国民からなる「影の陪審」というものを作り、同じ事件を同時進行的に傍聴し、かつ、同じように評議をした結果が報告されたものである。

この研究において、評議が一致しない場合は陪審の答申にならない。有罪か無罪が原則全員一致でなければならないので一致しないものは除かれる。除かれたものが6件あり、残りの24件のうち、6件について有罪と無罪が逆の結論が出た。全員一致で逆の結論が出たのである。これは主観の入る余地のないもので、この報告から客観的に言えば4分の1の確率でどちらかの陪審の結論が間違っていたというものである。

そして、それぞれの陪審員の人種・社会的地位により、判断が流動化するという感情に流された判断のおそれも一部の研究で指摘されている。

4. 刑事訴訟法の手続上の問題

基本的に専門的な訓練を経ていない陪審員に適切な判断をしてもらうというためには、その制度運営に当たり、種々の工夫が必要になる。そのため英米においては、手続等を含めて対応策が取られている。わが国においても、陪審制度を導入に際しては、その適切な判断を確保するための諸方策が必然的に必要になる。

まず、陪審員の負担を考えた場合、当然長期間をかけて審理をするということは許されなくなる。よって、集中審理を実現する必要がある。また、陪審裁判ということになると、コストが高い裁判になるので、陪審員によって判断されるのにふさわしい事件を選別して、陪審裁判を行うという工夫が必要になる。

とくに米国においては、司法取引、あるいは有罪答弁制度などによって、陪審に付する必要のないものは、その段階で処理をするという制度的手当がなされているが、日本においてもそのような手続の検討が必要になる。

そして、陪審員の審理となると、公判廷での証言が証拠の中心になるので、その証拠の価値を保つために偽証罪を実効化して虚偽供述を防ぐ、あるいは被告人が供述をする場合に、宣誓をした上で、証人として供述をするというような仕組みも導入することを検討する必要がある。

そのほか集中的な審議を実効的なものにするため、正当な理由のない証人の不出頭・証言拒否などの審理妨害行為を防がなければならないので、その制裁として英米で採用されている裁判所侮辱罪を導入することも検討する必要がある。

以上が公判の問題だが、立証の中心が証人尋問へ移るということは、当然捜査構造にも影響を及ぼすということは不可避である。現在の取調べを中心とする捜査構造を改めて、真相解明・犯罪摘発の手段として、例えば刑事免責の導入による公判供述の確保や、おとり捜査の拡充、通信傍受の拡充というような種々の捜査手段を検討する必要がある。

5.刑罰法規の問題

日本の実体法は故意と過失を峻別している。あるいは目的等の主観的要件について厳密に要求している大陸法系の刑法を受け継いでいる。故に、そのままの形で陪審制を導入した場合、その主観的要件の認定・立証が現在とは異なり相当難しくなる。

法廷における証人尋問を中心とする陪審のもとでの立証では、故意、過失、例えば販売目的の所持という場合の販売目的といった主観的な構成要件は、内心何を思っていたかというのは当事者の供述がないと立証は困難である。よって、主観的要件を厳密に求めない、英米法系の実体的な刑罰法規に変えていく必要がある。

陪審制を採用している英米などでは、故意の成立に必要な認識の範囲などについて、基本的事実に限っているようなもの、あるいは故意・過失というものを厳密に区別しない類型の犯罪を設けるなどの工夫が行われている。

日本では殺人と傷害致死を殺意というもので峻別をし、過失と故意も細かく峻別しているが、英米法ではmurder:謀殺とmanslaughter:故殺に分け、客観的、外形的な事実によって、殺人をある程度の段階に分けて認定できるようにしている。この例から見ても、やはり実体法の方についても、全体的な見直しが必要である。

6.偽証対策の必要性

偽証は裁判官による裁判でも陪審でも同様に生ずる可能性のある問題である。しかし、供述の確保という枠の中で考えると、供述調書の存在を前提として様々な制度が存在する現状に対して、陪審制では法廷供述が中心にならざるを得ない。その1回きりの供述が正確なもの、信用できるものでなければならないということが、陪審にとっては不可欠である。この意味では、偽証の問題ならびに供述確保という問題、要するに供述が拒否されるような場合の問題がある。

また、現在の被告人質問の形で、偽証の制裁もなく被告人が自由に証言できるということでなく、被告人の証人尋問制度で偽証の制裁を伴う形で証言する以上は、真実の証言をしてもらう必要がある。よって、総合的な偽証罪の実効化ということが基本的に必要である。

7.民事事件に関する問題

現在の日本の民事訴訟法はドイツを母体とし、陪審を予定していないので、民事において陪審を導入する際には民事手続について全面的な見直しをする必要がある。

参審制の利点と問題点

参審制の利点

参審の場合には法律判断や量刑まで行うことになるので、裁判への市民感覚の反映が考えられる。また、専門参審については、専門的な知識の活用ができる利点がある。

参審制は、その形態によっては、真実の解明という裁判に対する要請を損なうことなく、かつ、国民の意識や感覚を裁判に反映させることが可能になる。そして、国民が参加する意義についても、事件の類型に応じてさまざまなものが考え得る。

参審制の問題点

参審制においてはまず、職業裁判官と一緒に判断することによる弊害が考えられる。フランスの例で言うと職業裁判官3人について9人の参審員が参加する。ここで、プロの裁判官に引っ張られるのではないか、評議の実効性が保てるかどうかという問題がある。つまり裁判官に参審員が加わって一緒に判断をするという仕組みでは専門家である裁判官が引き続きイニシアチブを持つことになる。主体はあくまで裁判官となり、市民は補助者にすぎなくなり制度そのものがお飾りになってしまう。

次に、専門参審について、専門家の中立性をどのように確保するかという問題があり、同時に密室裁判の心配もある。そして、国民の負担については陪審と共通の問題で、上訴制限の問題も同じである。

陪審制度・参審制度の導入と憲法上の問題

わが国の憲法においては,陪審裁判を受ける権利を憲法上規定しているアメリカとは異なり,陪審制度・参審制度を想定していると見られる規定が全く存在しておらず,この点との関係で,これらの制度を採用することについては,以下のように,いくつかの憲法上の問題点が指摘されている。

まず,憲法上,裁判官は,職権行使の独立性を保障され,その良心に従って独立して職権を行い,憲法及び法律にのみ拘束されるものとされている(76条3項)が,陪審制度や参審制度を採用した場合に,職業裁判官の職権行使の独立性との関係が問題となる。とくに,陪審制度との関係において,陪審の答申に拘束力を認める制度を採用した場合には,この規定に違反しないかどうかが大きな問題となる。

次に,憲法は,裁判所を構成する裁判官の選任方法,任期,報酬,身分保障等について職業裁判官だけを想定したと見られる規定(78条~80条)を置いている一方,それ以外の裁判所構成員の存在を前提とした規定は置いていない。そこで,職業裁判官とは異なる陪審員・参審員が裁判所の構成員となり,司法権を行使することとなる場合には,これらの規定との関係でも重大な問題が生じる。とくに,参審員は,事実認定のみならず,法律判断にも関与し,職業裁判官と全く同様の立場で司法権の行使全般にかかわることになることから,このような憲法上の問題はより先鋭なものとなる。参審員に裁判官と同様な評決権を認めたり,その意見に拘束力を認めたりすることについては,上記のような憲法上の規定との関係で困難な問題が生ずることとなる。

これらの点については,陪審制度や参審制度を全面的に違憲とする見解や,陪審の答申に拘束力を認めたり,参審員に評決権を与え又はその意見に拘束力を認めたりする場合には違憲であるとする見解が有力に主張されている。

昭和22年に新憲法が制定されるプロセスでの憲法問題調査委員会記録において、昭和20年の12月26日記事と、21年2月2日記事に陪審制度についての記述がある。20年12月には、陪審制度違憲論が起こらないように、当時の憲法草案の第24条の裁判官という文字を、裁判所と改めるべしと書いてある。つまり、昭和20年の段階で既に陪審制度をどうするか、そしてその陪審制度をつくろうとすると違憲論というのが必ず出てくるので、それをどう乗り越えるかという議論が既に行われていた。

また、枢密院、帝国議会における審議の際の政府答弁も、「明治憲法24条「法律に定めたる裁判官の裁判を受ける権利」が、改正憲法では、「裁判所において裁判を受ける権利」(憲法32,37条)と改められたことも合憲の重要な根拠とされている。「憲法直接に規定せざるも新憲法のもとに大体アメリカ式の陪審制度が実施せらるるものと考ふ」、などとされており、当時の政府の見解では、陪審制度の導入は合憲であったと考えられる。

さらに、日本国憲法は国民主権を採用しており、また、陪審制度の本家アメリカの影響下に制定されたという経緯から、憲法がこれを許容しないということは考え難い。先にも述べたとおり憲法とそれに続く裁判所法の制定過程において、立法当局者を含めて合憲論が大勢であった。現行憲法は旧憲法のように、「裁判官による裁判」ではなくて、「裁判所において裁判を受ける権利」と規定しているので、陪審制度を法律で定めれば、憲法76条3項との関係でも抵触しない。故に憲法上の問題は解消可能と考えられる。

参審制度についても、基本的には同様である。憲法78条以下の身分保障その他の規定については、常職の裁判官についての規定であり、とくに参審員を排除するというまでの規定ではないと考えれば解消できるであろう。

そして裁判官の独立条項に関していえば、現行の合議制の裁判官3人で行う場合をとってみても、場合によっては2対1に意見が分かれるということがあり得る。この場合、裁判所法では多数決が行われることになる。憲法に謳われた独立というのは、個々の裁判官に独立がある2対1で少数説になった場合、結論としては、別の裁判官の意見に従わざるを得ない。しかし、これが独立に反するとは考えられてはいない。にもかかわらず、参審員が相手だとなぜ独立条項に反するということになるのかという疑問が生ずる。

陪審の場合も、事実問題と法律ないし量刑問題に機能分化して、裁判官の担当は法律問題と量刑だとした場合に、それが裁判官の職務になる。その職務行使において独立であればよいはずである。

他方、裁判官は法律と良心のみに拘束されるということについては、陪審の評決に従わねばならないとする法律の制定で、評決に従うことが法律に従うことになるので、裁判官の独立は害されていないと考えることができる。ただ、同じ理屈でいけば、法律判断や量刑も陪審にすべて任せてしまう目的で、裁判官は手続の進行のみをなすべし、あるいは判決のアナウンスのみをなすべし、という法律を作れば、それに従えば独立に反しないということにもなりかねないので、その点には留意する必要がある。

まとめ

はじめに述べたように、政府の司法制度改革審議会では国民の司法参加の制度作りに向けて論議が行われている。その場において司法参加の形態については日本弁護士連合会は陪審制の利点からその導入を主張し、一方、最高裁は裁判官の独立や身分保障を定めた憲法との兼ね合いを理由に市民に意見表明件だけを認める形での参審制導入を提言している。

これに対して、最近法務省は評決権のある参審制の支持を表明した。評決件が与えられるという点で最高裁提言より踏み込んだものと言えるが、陪審制を阻むための折衷案的提言の観も否めない。

ともあれ、この提言について法務省と最高裁は意見の交換をはじめたということで、法務省案が司法制度改革論議に影響されることは必至である。おそらく落としどころとして採用されるであろう。

果たしてそれでよいのであろうか。たしかに、陪審制度に対する批判や疑問はあまた存在する。たとえば、陪審制度の採用によって、真実発見に重きを置くわが国の刑事裁判が変質をして、ラフジャスティスになるという指摘もその一つである。

しかし、この批判が前提としているわが国の精密司法の実態は、調書裁判という評価が一方にあり、法廷の外でたくさんの調書を読み込んで、そこから心証を取り、相互の矛盾のないように調整を図っていくという作業が中心になっている。この意味で本当に精密なのかという疑問がある。

また、裁判官は法律の専門家ではあるが、事実認定について特別の能力を持っているわけではない。少数の専門家よりは多様な経験を持つ12人の陪審員の常識の方が信頼できるのではないか。

例えば、統計上の数値を見ると、かなり有罪が無罪になったという事例が数字で出ている。平成6年から10年の5年間で簡裁の場合で44件ある。つまり、有罪だった人が無罪になった事例が平成10年で10人、平成11年で10人と、これは全部職業裁判官の判断である。

さらに、戦後再審で無罪となったのは吉田石松から始まり、吉田勇に至るまで、再審無罪になっている事件があり、そのうちの4例はまさに死刑。死刑判決が無罪になっている。職業的裁判官の裁判で、人を死刑にするという判決を確定させるところまで行っている。

このような冤罪発生の主な原因は、自白の偏重、調書中心の構造にあり、法廷の審理によって真実を発見するという公判中心主義、直接主義、口頭主義に改革をしていかなければならないと考える。直接主義、口頭主義というのは、フランスやドイツなども含め、世界の趨勢である。陪審制度はこの要請に最も適合する。

陪審制度は、事実認定を素人である陪審員が行うということを前提にして、訴訟手続が厳格に定められている。徹底した証拠開示が行われたり、疑問のある証拠などが排除されるということもあり、これが正しい事実認定に相当程度寄与するはずである。

アメリカやイギリスで陪審裁判の誤判に対する多くの研究があるが、その原因として指摘されているのは、警察や検察の証拠隠しなどの不正、弁護人の無能、科学的な証拠の誤りというものがほとんとであり、陪審制度そのものが間違いの原因だという研究結果は見当たらない。

そして、具体的な誤判の例として挙げられている事例の多くは、ほとんど判決後に新たな事実や証拠が出てきたというものである。

勿論、陪審制度でも誤判が生じることはある。しかし、先にも述べたように、これは現行制度でも起こりうるものである。したがって無辜を誤って処罰することのないように工夫するということは必要である。そこで、陪審裁判についても、事実誤認を理由とする被告人の上訴を認めることが必要であると考える。また、デンマークで採用されているように、陪審が有罪の評決をしても、裁判官が無罪であると考えた場合は、これを破棄できるという二重の保障制度も参考にすべきである。このような工夫をすることによって、冤罪を極力少なくするということは可能である。

制度面で言えば、戦前の経験に鑑みると、戦前は陪審制を導入するときに刑法・刑事訴訟法といった実体法・手続法の大きな改正は伴わずに行った。その結果の運用を見るとそれによるトラブルというのはほとんどなかった。さらに、現刑事訴訟法は戦前と異なりアメリカ式の刑事訴訟法になっており、証拠法などは陪審を運用するために工夫をする余地があるが、基本的には陪審制度を前提とした法律と考えて問題はない。よって、法律家の工夫次第で、法曹三者の協力です実効ある運用は可能である。

また社会学教育により人がいかに影響されやすく、予断を持ちやすいか、メディアリテラシー教育でメディアがいかに信じられないものであるかを陪審員候補者オリエンテーションなどで施すことで、報道に対する規制は不要になると考えられる。

日弁連の検察審査会審査員経験者のアンケートによれば、検察審査会制度の評価として、審査会の委員を体験してよかったと思う人が90%に達している。そして、検察審査員を経験者は陪審制度を導入することについてどう思うかという質問に77%が賛成している。

よって、審議会では陪審ありき参審ありきで議論せず、今回の司法制度改革の一つの大きな目的である「国民の司法参加」を実効的にかつ有効なものとするための論議を重ねるべきであろう。

私見ではあるが、まず評決権のない一般参審制を導入し、そこで実際の現場を経験したものが数年の後に陪審制度のもとで実際の審理にあたるというのが妥当と考える。なぜならば、参審制で裁判官のもと、一定水準の司法経験を経たものであれば陪審制度のもとでの審理にも十分耐えうる。これであれば最高裁・法務省のいう「一種の賭け」といわれる陪審制のデメリットもある程度は解消されると考える。

陪審制度に対する消極論のひとつとして日本人の国民性が挙げられるが、その国民性の意味が、「お上の裁判をありがたがる」「自分の意見をいわない」ということを指すとすれば、むしろこれは市民の統治主体意識を確立するという視点からは、陪審経験などによって改められるべきことである。

民主社会の仕上がりは陪審と普通選挙である。陪審制度を通じて、国民が司法に参加することによって、民主主義のルールを学び、民主国家に主体として参加する意識を獲得していくプロセスが最も今必要とされているのである。


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<参考文献>

  • 司法制度改革審議会議事録(http://www.kantei.go.jp/jp/sihouseido/gijiroku-dex.html)
  • 第30回司法制度改革審議会議事録
  • 第31回司法制度改革審議会議事録
  • 第32回司法制度改革審議会議事録
  • 団藤重光 世界大百科事典(平凡社1981年 24巻 pp.272-273)
  • 竹下 守夫・兼子一共著「裁判法(第四版)」(有斐閣)
  • 「戦後の司法改革と陪審制度」注(35頁)