奈良に鉄道旅へ行ってきました!

大和西大寺駅の複雑な分岐

はじめに

平成30年(西暦2018年)5月1日(火)から2日(水)にかけて、奈良に旅に出かけた。思いついたような旅だったので、特に下調べもせずに来た電車に飛び乗るといういつも以上に無計画極まりない旅である。

奈良と言えば、法隆寺や東大寺に小学校の修学旅行の時に訪れたぐらいで、それ以来通過することはあっても奈良を訪れたことはこれまで一度もなかった。

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そこで、今の自分の趣味嗜好などに合わせて旅の目的地を次のように設定してみた。

  • 近鉄で京都から南へ下ったことがなかったので、近鉄京都線を満喫すること
  • 大和西大寺駅の複雑な分岐を見に行くこと
  • 平城京の中を走る近鉄電車に乗り、外から近鉄電車を見ること
  • 平城京の外京である興福寺や東大寺や春日大社に訪れること
  • 日本発祥の地である橿原神宮を参拝すること

近鉄京都線に乗車する

京都まではJR東海と西日本を使い、大垣で米原行に乗り換え、米原で姫路行の新快速に乗り換えて京都で下車。ここから一度コンコースに出て近鉄の京都駅まで移動。京都にたどり着くとほとんどが北に向けて歩いてしまうので、南側に向けて歩くのは自分にとっては新鮮。

切符を買って改札を通り、近鉄の京都駅と初めてのご対面!

(写真)

急行の近鉄奈良行の列車に乗る。停車駅は、東寺→竹田→近鉄丹波橋→桃山御陵前→大久保→新田辺→新祝園→高の原→大和西大寺の順に停車。車内には外国人も結構多く、様々な言語が車内で飛び交っていた。

大和西大寺駅を堪能する

さて、大和西大寺駅に到着すると駅の構内をウロウロと歩く。平成21年(西暦2009年)9月11日にできたという展望デッキを見つける。まずは展望デッキで列車の往来を眺める。展望デッキは難波方面にあり、難波線と京都線の分岐を見ることができる。

ところが鉄道ファンを唸らせるあの強烈な分岐は実は展望デッキとは反対方向の奈良・橿原方面側の方にある。そこでホームにまた降り立ち、ホームの端っこまで移動。そこに30分ぐらいはいただろうか?ポイントが動く音に耳を澄ませながら電車の往来の様子を眺める。

大和西大寺駅から見た分岐(ポイント)

大和西大寺駅から見た分岐(ポイント)

そもそも、大和西大寺駅は、近鉄奈良線、京都線、橿原線が合流、分岐する要衝の駅なのである。具体的には、難波~奈良、京都~奈良、京都~橿原神宮および京都~賢島間の列車はすべて大和西大寺駅を通ってそれぞれの方向の線路に向かう路線になっているのである。

近鉄路線図(大和西大寺駅)

東海圏で言えば、名鉄が犬山線と名古屋本線と枇杷島分岐点で合流して名鉄名古屋駅に入ってきて同じプラットホームで乗り位置を変えて2分に1本ぐらいやって来る電車を捌いているが、ここ大和西大寺駅では3面5線の島式ホームで多くの車両を捌ききっている。

残念なのは、東海圏に住むボクは近鉄大阪線を使うことが多いので、実はこの交通の要衝である大和西大寺駅を通過しない。したがって、機会を設けなければなかなか訪れることのない駅でもある。

その後、ホテルにチェックインを済ませて荷物を置いた後、今度は平城京跡を訪れることにした。

平城京と近鉄電車

実は平城京跡に鉄道ファンを唸らせるスポットがある。それが平城京跡にある。

大和西大寺駅を出て近鉄奈良線を近鉄奈良駅方面に向かう。実は大和西大寺駅と新大宮駅の間に平城京の中を通過する面白い区間が存在する。

平城京は長岡京に遷都されるとそこは田んぼになってしまったのだという。一方で奈良で残ったのは、藤原氏の氏寺であった興福寺や氏神である春日大社、さらに東大寺などがある現在の奈良公園のある外京であって、平城京の中心であった朝堂院があったあたりは廃れてしまったそうである。

近鉄奈良線の前身の「大阪電気軌道(大軌)」が上本町~奈良間で開通した大正3年(西暦1914年)頃には朝堂院があったとされる場所は認識されていたそうで、そこを避けて現在の路線が完成したそうである。

平城京跡が国指定文化財に指定されたのが大正11年(西暦1922年)10月12日であったが、当時は朱雀門あたりは国指定文化財ではなかった。朱雀門まで指定の範囲が広がったのは後になってからである。文化庁のウェブサイトから引用してみよう。

和銅三年元明天皇ノ奠都以来七十餘年皇居ノ在リシ所ナリ今指定スル所ハ主トシテ大極殿阯ト推定セラルヽ地域及其ノ左右ニ在ル土壇土壘ト覺シキモノノ殘存セル部分トナス當時ノ礎石磚瓦等ノ類亦發見セラル 奈良時代七十余年の間の皇居で、その遺跡として顕著なものは、朝堂院跡とその西につづく内裏跡と認められるところを中心とする地である。朝堂院は南面する大極殿跡の基壇を正面として、その前面に、内に湮滅したところもあるが、朝堂、朝集殿を始めとして廻廊、門等の遺構が存し大極殿の側背にも廻廊、建物の遺構が認められる。また朝堂院の東部にも土壇があり、また北東部に近く、水上池方面から南下する溝の一部があって注意すべきである。 内裏跡は大宮の地字をとどめまた建物の跡と思はれる基壇を遺している。 もとより宮跡の全貌はなお詳でない憾があるが整然たる配置をなす堂々たる殿堂の面影も偲び得られ、奈良時代の政治文化の中心として歴史上に占める意義は大きく、学術上の価値が極めて高い。 S53-12-042[[平城宮跡]へいじょうきゅうあと].txt: 平城宮跡南辺部の既指定地は概ね大垣の線までであるが、、その大垣の外側にある〓(*1)地・溝等、及び朱雀門ほか2つの門跡も一部南側が指定地域外となっている。しかして、最近、数年にわたって回を重ねて検討してきた平城宮跡保存整備基本構想が定まり、今後は逐次実施計画の段階に入りつつあるが、この南辺部の状況は、一部を除いて大部分が水田地帯で地下遺構の遺存度も良好であることが予想され、加えて東一坊大路跡と二条大路跡の交叉地点には橋梁その他の遺構が発掘調査の結果判明しており、平城宮跡を理解する上で重要な地域といわねばならない。 S44-12-026平城宮跡.txt: 平城宮跡はすでに指定(大正11年10月3日史跡指定・昭和11年7月14日追加指定・昭和27年3月29日特別史跡指定・昭和40年6月14日追加指定)された地域に加え平城宮の東面南門の推定地において、この門が左京一坊大路を閉鎖して南に向き、大路はそれより北に進み得ないこと、その東約250メートルの地点に築地の東南隅曲り角が存在し、その内側に園地・遣水・建物などの遺構が存すること、また東南隅より北500メートルの地点に、宮域の東を限る築地の遺構が存することなどが確認され、いわゆる東院地区の範囲がほぼ明らかになったので、築地外の[[〓(*1)地]せんち]・溝をふくめて追加指定する。 S39-06-003平城宮跡(特別史跡).txt: いわゆる方八町の平城宮跡のうち、昭和27年に特別史跡に指定されている部分の西に隣接する未指定地域を追加するものである。

平成10年(西暦1998年)に平城京や東大寺などが世界遺産になり、これと同じ年に朱雀門が復元されたり大極殿が平城京遷都を記念して平成22年(西暦2010年)に復元されていたり、また平城京の研究が近年飛躍的に進んでいたりする。

平城京の第1次大極殿

平城京の第1次大極殿

話を鉄道に戻すと、こういった背景もあってか平城京の中を鉄道の路線が走っているのは景観がよろしくないということで、近鉄奈良線を移設しては?という声も上がっているそうだが果てさてどうなるだろうか…。

ひとまず今走っている電車を楽しもうということで、朝堂院から朱雀門をバックに走る近鉄や阪神の車両を30分以上眺めていた。

平城京の朱雀門と阪神電車

平城京の朱雀門と阪神電車

撮影しているのは、かつて平城京で外交儀礼を行ったりしていたとされる朝堂院(ちょうどういん)跡の辺りである。

第一次大極殿と朝堂院の説明

こんな場所に近鉄や阪神の電車を1日眺めていられるとしたら、ボクにとってはこれ以上にないよい場所である。

リゾート特急23000系「伊勢志摩ライナー」と朱雀門

この後、大和西大寺駅周辺で夕食を取った後に再び近鉄に乗って近鉄奈良駅まで行き、その後ホテルに移動して5月1日の旅の整理をした。

平城京の外京を散策

平成30年(西暦2018年)5月2日、目覚めもよく、ホテルの朝食バイキングで朝食をとったのちにチェックアウトし、徒歩で北の方角へ移動した。

興福寺

興福寺は、南都六宗の1つの法相宗(ほっそうしゅう)の大本山であり、南都七大寺の1つとしても有名である。また、「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産にも登録されている場所である。

興福寺の五重塔

藤原氏の氏寺としても有名で、大化の改新の中心人物として活躍した藤原鎌足が重い病気を患った際に夫人である鏡女王が夫の回復を祈願して山背国に造営されたのがはじまりだと言われており、紆余曲折を経て平城京に都が移された際に藤原氏によって現在の場所に移されたのだという。

興福寺南円堂

平安時代になった後、興福寺は藤原北家と縁が強かったので奈良で大きな影響力を持ち、大和国一国の荘園のほとんどを持っていたそうである。鎌倉時代に入ってからも鎌倉幕府が守護や地頭を置けないぐらいの勢力になった。興福寺は藤原氏の氏神である春日大社とともに大和国では大きな力を持っていた。

興福寺の東金堂と五重塔

興福寺の東金堂と五重塔

ところが明治時代になり、慶應4年(西暦1868年)頃から廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動が起こると、興福寺もその影響を受けて力を落とすことになった。明治14年(西暦1881年)に古社寺保存法が施行されるとようやく社殿の破壊などがなくなった。

現在は、興福寺の中心にあったお堂である中金堂(ちゅうこんどう)の再建工事が行われている(完成は平成30年(西暦2018年)10月で20年間ぐらい工事が続けられているのだという)ので工事車両が時折通っていたが、それでも国宝の五重塔や東金堂が鎮座している様子は圧巻であり、南円堂も厳かな雰囲気を漂わせていた。

東大寺 - 聖武天皇のご命日にて…

奈良県庁

興福寺の後は徒歩で東大寺に向かう。

興福寺の程近くに奈良県庁があったのでカメラに収める。

早朝の奈良県庁

早朝の奈良県庁

少々歩いたのち、東大寺の参道にたどり着く。四半世紀前に修学旅行で東大寺に訪れて以来である。

聖武天皇祭

東大寺は天平15年(西暦743年)に聖武天皇が詔を発せられたのがもとになり、天平勝宝4年(西暦752年)に建立された寺院である。

東大寺南大門

東大寺南大門

源平争乱時に東大寺が戦禍に見舞われて焼失した後、重源などによって再建。そして東大寺の南大門に鎮座するのが金剛力士像。運慶と快慶による力強い作品は鎌倉文化を代表するもので、教科書でもおなじみのものである。

東大寺南大門の運慶と快慶による金剛力士像

東大寺南大門の運慶と快慶による金剛力士像

5月2日という日のことは不勉強で存じ上げなかったのだが、この日は実は聖武天皇がお隠れになった日つまりご命日である。東大寺では聖武天皇の法要が行われていた。

聖武天皇のご命日

聖武天皇のご命日

たまたま法要中に訪れたので、焼香をし合掌をした。東大寺造営には多くのお金がかかって大変ではあったのだろうが、今でも多くの人のために祈りを捧げ多くの人に愛されている寺院である。聖武天皇もさぞお喜びになられているはずである。

大仏殿

その後、東大寺大仏殿を見学。小学生の頃も大きく感じた大仏だったが、大人になって身体が大きくなった今でもやっぱりデカかった(笑)。

東大寺大仏殿

東大寺大仏殿

大仏殿も聖武天皇祭の準備で東大寺の係員が忙しなく動いていたが、朝早い時間であったせいか、あまり人はいなかったのでゆっくりと大仏殿の中に鎮座する盧舎那仏に手を合わせた。

東大寺の廬舎那仏

東大寺の廬舎那仏(るしゃなぶつ)

盧舎那仏の裏には歴代の大仏殿の模型が展示されており、東大寺の創建当初のもの、鎌倉時代のもの、江戸時代のものが並んでいた。

東大寺は朝の早い時間であればゆっくりと拝殿することができるので、朝の早い時間をおススメしたい。

二月堂・法華堂(三月堂)

ここからは修学旅行でも訪れなかった二月堂と法華堂(三月堂)を見に東大寺の境内を散策することにした。

二月堂は旧暦2月に行われる「お水取り(修二会)」が行われる有名なところである。毎年3月頃になると、ニュースなどでも取り上げられるもので、特に有名なのが二月堂の舞台で火のついた松明(たいまつ)を振り回す「お松明」の儀式である。

東大寺二月堂

お水取りで有名な東大寺二月堂

東大寺のウェブサイトによると、「お水取り(修二会)」は、

われわれが日常に犯しているさまざまな過ちを、二月堂の本尊である十一面観世音菩薩の宝前で、懺悔(さんげ)する

ものであるそうだ。「お水取り(修二会)」が創始された古代では、

国家や万民のためになされる宗教行事を意味した。天災や疫病や反乱は国家の病気と考えられ、そうした病気を取り除いて、鎮護国家、天下泰安、風雨順時、五穀豊穣、万民快楽など、人々の幸福を願う行事とされた。

とあり、東大寺の歴史が始まってから途絶えることなく続いている儀式なのだそうだ。

さて、ボクは本尊の大観音(おおかんのん)と小観音(こがんのん)と呼ばれる2体の十一面観音像に合掌した。

次に訪れたのが法華堂(三月堂)である。

東大寺法華堂

東大寺法華堂(三月堂)

高等学校の日本史の教科書には間違いなく載っている「東大寺法華堂不空羂索観音像(とうだいじほっけどうふくうけんじゃくかんのんぞう)」という乾漆像(かんしつぞう)(漆で麻布を固めて像の表面を作る像のこと)がここのご本尊である。東大寺の建築の中でも最も古い建造物なのだそうだ。

知識があれば史跡の楽しみ方がどんどん変わってくる。小学校で訪れた修学旅行もこれまた楽しいものではあったが、知識レベルではもちろん今の方が上。小学生の時のカシロ少年では味わえなかったものが今では味わえるのであるから、今まで勉強してきてよかったなと少し感じられたのであった。

 春日大社

東大寺を出て、山焼きで有名な若草山のあたりを歩いた後に訪れたのは春日大社である。

春日大社は藤原氏の氏神を祀るために神護景雲2年(西暦768年)に創設された神社である。藤原永手の時代である。

ところで、「奈良といえば鹿」を連想する人が多いが、このイメージが奈良に定着しているのはこのお社のためなのである。春日大社には、武甕槌命(たけみかづちのかみ)という神様がお祀りされている。奈良に都ができた頃、藤原氏の氏神として、武甕槌命(たけみかづちのかみ)という神様を鹿島神宮(現在の茨城県)から現在の春日大社の裏にある御笠山(みかさやま)に移した。その際に、武甕槌命(たけみかづちのかみ)は白鹿に乗ってこの地にたどり着いたという言い伝えが残っている。そこから鹿は神の使いとして保護されるようになったのである。

若草山と鹿

若草山と鹿

奈良公園などにいる鹿は実は野生の鹿であるが、人間慣れしているので人間を襲うことはあまりない。

平城京遷都1300年を記念した公式マスコットとして誕生した「せんとくん」(後に奈良県のマスコット)もこのエピソードがなければ誕生し得なかったのだろう。

せんとくんと興福寺中金堂落慶告知 @ 近鉄奈良駅

せんとくんと興福寺中金堂落慶告知 @ 近鉄奈良駅

さて、話を旅行に戻すと、若草山の方から春日大社に入ってしばらく歩いた後に本殿を参拝。

春日大社

朱色のお社、春日大社

その後、藤の花で有名な萬葉植物園に入って藤を観賞する。今年はピークが早かったのか、ほとんどが枯れ始めていたが、それでも植物園のあちらこちらにあった万葉集の歌がちょっとばかり気になり、立ち止まっては藤の花以外の花も観賞した。

萬葉植物園にて(その1)

萬葉植物園にて(その1)

萬葉植物園(その2)

萬葉植物園にて(その2)

万葉集がもう少し分かると、もっと奈良の街が楽しめるのかなと感じた。最近、松田雄一先生の国語WORKSの素読教室に参加するようになったが、古典を素読するとそんな感性が自分の中では芽生えている。素読の素材を生で感じられる環境がここにあるのだから、奈良のみなさんは本当に羨ましいと思う。

本当であれば、じっくり博物館等で奈良の街を楽しもうと思っていたが、橿原神宮にも一度参拝したいと考えていたので、奈良市内をそろそろ発とうと考えていた。

春日大社近くにある奈良市内を周遊する「ぐるっとバス」の停留所からバスに乗車し、近鉄奈良駅まで向かった。「ぐるっとバス」は今回一度しか使わなかったが、奈良市内の観光名所を周遊するバスで、再訪した際にはこれに乗ってバスでも市内を回ってみたいなという気分になった。

橿原神宮

近鉄奈良駅から大和西大寺駅を経由して、近鉄橿原線に乗り換えて普通列車で橿原神宮前駅に向かった。

近鉄奈良駅にて阪神電車の車両

近鉄奈良駅にて阪神電車の車両(9200形)

平城京の中を近鉄奈良線が通るところもこれで見納め。平城京跡にあった博物館などには立ち寄れなかったのでこれも次回のお楽しみ。少し後悔を残しながら旅を終えるのがちょうどよい。また来たいという楽しみになるからである。

大和西大寺駅の複雑な分岐

大和西大寺駅の複雑な分岐

今さら…という話ではあるが、大和西大寺駅は近鉄はもちろんだが京都市営地下鉄の車両と阪神電車の車両も同じホームで見られるようになっている。東海圏に在住している身としては、この3つの電鉄会社のコラボは物珍しいものであるので、感動ものであった。

京都市交通局10系電車と近鉄車両 @ 大和西大寺駅

京都市交通局10系電車と近鉄車両 @ 大和西大寺駅

大和西大寺駅のポイントともひとまずお別れ。近鉄橿原線に乗り換えた後も名物の分岐を通っていくのであるが、ポイントの上を通るたびに揺れる電車を堪能しながら、最前車両に乗車して車窓を楽しんだ。のんびりしたローカル線の旅は心を癒した。

さて、橿原神宮前駅にたどり着くと雨が本格的になっていた。奈良公園周辺を歩いていた頃は晴れていて少しずつ雲が上空にかかっていたのだが、ここまで来ると雨に見舞われた。

橿原神宮前駅

橿原神宮前駅

徒歩でもすぐに橿原神宮にたどり着いた。

雨に濡れながら一の鳥居の前でお辞儀をすると、表参道がまっすぐ走る。平成30年4月28日(土)から5月6日(日)までの間は大陶器市が開催されていたが、その中を歩き、神橋を通り、二の鳥居をくぐると南手水舎(みなみてみずしゃ)が目に入った。整然と並べられた数多くの柄杓(ひしゃく)にはビックリさせられたが、ここで身を清め、南神門(みなみしんもん)をくぐる。するとそこには玉砂利が敷き詰められた外拝殿(がいはいでん)前広場が広がる。

橿原神宮(外拝殿)

外拝殿をくぐり、内拝殿(ないはいでん)に向かって二礼二拍一礼を行い、国家安寧を祈願した。

橿原神宮(内拝殿)

橿原神宮は畝傍山(うねびやま)の東南麓に位置する神社で、神倭伊波禮毘古命(かむやまといわれびこのみこと)が今から2670年ほど前に天皇(すめらみこと)に即位されたとされる場所に、明治23年(西暦1890年)に創建されたお社である。神倭伊波禮毘古命とは神武天皇のことである。

六合を兼ねて都を開き、八紘を掩ひて宇とせむこと、亦可からずや

「日本書紀」の「神武天皇即位前記」より

神倭伊波禮毘古命(かむやまといわれびこのみこと)が橿原宮で天皇に即位される時に仰ったとされるお言葉が上に示したものである。「日本書紀」に記録が残っている。

国語WORKSの松田雄一先生の素読教室で一番初めに必ず素読する素材がこの神倭伊波禮毘古命(かむやまといわれびこのみこと)のお言葉である。素読で取り上げられている場所に赴いた経験はとても素晴らしいものとなった。

貴重な橿原神宮での参拝を終えた後、橿原神宮前駅まで戻った。

幸せの黄色いポストと近鉄の橿原神宮前駅

幸せの黄色いポストと近鉄の橿原神宮前駅

上の写真の黄色いポストは、実は橿原市と宮崎市が姉妹都市になってから50年経過した平成28年(西暦2016年)に設置されたものである。これは、神武天皇が日向の国(現在の宮崎県)から東遷され、橿原宮で即位されたと伝えられているが、そのご縁がきっかけになって姉妹都市となっている。姉妹都市宣言は昭和41年(西暦1966年)2月11日のことである。このようなものまで橿原神宮前駅にはある。

さて、乗車券を購入して改札を通る。橿原神宮駅でもプラットホームに立って往来する列車の様子を見て楽しんだ。橿原神宮前駅は橿原線の終点ではあるが、それだけではなく南大阪線(起点は大阪阿倍野橋駅)と吉野線(吉野駅)が通る駅であり、飛鳥地方の主要駅のような位置づけになっている。

近鉄橿原神宮前駅を通る2つの路線

近鉄橿原神宮前駅の橿原線のホームに停まっていた2本の列車

乗ろうと思っていた電車の発車時刻を待ちながら近鉄南大阪線と吉野線のサボを見て楽しんだ後、橿原線のプラットホームに戻り、橿原神宮前駅を後にした。

大和郡山市内の散策

今回の旅の最後の楽しみとして、今まで近鉄を中心とした鉄旅を楽しんだが最後は奈良の中をJR西日本を使って移動してみようと思い立った。

もともとは、東海圏へ戻るための手段として、近鉄橿原線で大和八木駅まで移動して近鉄大阪線・名古屋線で近鉄名古屋に戻るという方法も考えた。その方が楽だからである。しかし、せっかく奈良に来ているわけであるから、もう少し奈良の鉄道旅を堪能しようと考え、先に述べたような路線を使いたいと考えたわけである。

しかし、近鉄からJR西日本に乗り換えを行う方法を考えて、往路と同じ近鉄奈良駅まで戻るという方法も考えたのだが、それでは芸がないと考えて乗り換えの際に少しだけでも街歩きを楽しもうと考えて少し頭を働かせた結果、郡山で降りて大和郡山城跡を訪れた後、JR西日本の郡山駅に移動するという手段を採ったのである。

あまり時間がない中ではあったが大和郡山城跡に向かった。

大和郡山城跡の石垣

大和郡山城跡の石垣

大和郡山城は天正8年(西暦1580年)に筒井順慶が築城。後に豊臣秀吉の弟で名参謀であり名君であると言われた大納言豊臣秀長公(「大和大納言」という呼名でも有名)が城主となり、大和・和泉・紀伊の3国の百万石を治めた。

大和郡山城跡

大和郡山城跡(天守閣は再建されていないが櫓は再建された)

その後城主が目まぐるしく変わったが、郡山の街を発展させた人物が柳沢吉里である。元禄時代の徳川綱吉公の時代に側用人として活躍した柳沢吉保公のご子息である。吉里公は、領内の経済発展に大きく寄与され、郡山に養蚕を持ち込み、さらに趣味で飼っていた金魚も領内に運んだことから金魚養殖が始められるようになり、幕末には藩士や農家の副業として行われるようになった。

大和郡山市役所

大和郡山市役所

現在も金魚の街として知られている。大和郡山市役所にも「金魚が泳ぐ城下町」というキャッチフレーズが掲げられている。

明治時代に入って大和郡山城は廃城となり取り壊されたが、石垣や堀の多くは今も往時の姿を留めている。昭和58年(西暦1983年)に追手門が、昭和59年(西暦1984年)には追手東隅櫓が、昭和62年(西暦1987年)には追手向櫓が市民の寄付などにより復元され、桜の名所としても知られている。

奈良県立郡山高等学校

城跡のすぐそこには、京都大学などの合格実績を出している奈良県内でも有数の進学校である郡山高校旧城内学舎がある。城跡に役所や学校が整備されることはよくあることではあるが、こういうところで学べる高校生は実に羨ましい。

復路で遇った鉄道

大和郡山の城下町を歩いてJRの郡山駅までたどり着いて、ここからJR奈良駅経由で京都に向かって帰路に付くことにしていた。

JR郡山駅

JR郡山駅

まずは大和路線に乗って奈良駅まで行き、その後奈良線に乗り換える。

205系

205系

最初は普通列車の京都駅行に乗っていたが、木津駅でみやこ路快速に乗り換えて京都駅に向かう。お目当ての103系に会うことなく関西圏を去るのかなと思っていたところ、奈良線の京都駅のプラットホームにたどり着いたらなんと103系が待っていたのだ。

103系

103系

ボクたちは新車両に注目しがちだが老骨にムチ打って未だに現役で走っているベテラン車両もまたリスペクトの対象である。最後の最後にこの車両に出会えたので、旅の有終の美となった。

総括

思いつきで1泊2日で奈良県を堪能した。

冒頭でも述べたとおり、小学校の修学旅行で訪れて以来の訪問だったのであまり奈良のことは知らない状態で奈良入りをしたが、それでも十分に楽しむことができた。

街中に歴史が溶け込んでおり、その中で暮らす人たちは実に恵まれているなと感じた。

万葉集なんかをもう少し読んで和歌を少しでも覚えてきてまた訪れたいと思う。万葉集にはおそらく奈良の都の地名などが多く存在するのであろう。あの和歌で詠っているのはあの山のことか…など奈良の都に住む人たちはどのような景色を見ていたのだろうかといったところに思いをはせることができるはずだと思う。

大人になれば学生時代に勉強した内容なんて忘れるものだが、そういったことを思い出しつつも古文とか日本史とかの科目の枠を超えて「大人の楽しい学び」ができるのもこの奈良というところなのだろうと思う。

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奈良は自分にとって大変魅力のある街だなと感じながら、琵琶湖線の沿線の車窓を見ながら旅行記を終えることにしたいと思う。

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