お手次寺の報恩講で聞法をしてきました

11月28日は親鸞聖人のご命日にあたり、この日を中心に数日間にわたって本山では報恩講が勤められますが、我がお手次寺においては本日報恩講が行われました。

報恩講とは、真宗教団の3代目門首にあたる覚如さんが親鸞聖人の33回忌の年に親鸞聖人の教えを戴こうとする人たちが集まり(講)始められたものだと言われています。

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禅宗などの他の宗派の仏教の教えというのは「聖道(しょうどう)」というらしく、正しい人の生き方やあり方が明確に示され、現在の私たちとその差を埋めるために厳しい戒律の下で修行に励まれ、正しいとされるあり方に近づけていく教えを説かれるものです。ところが、いろいろなことが原因でどうしても正しいとされる生き方ができないという人がいます。誤って人の道からそれてしまったりする人たちのことです。そういう人たちは社会から排除されがちです。人間が誰かから認められない存在になってしまうと大変苦しくなってしまいます。こういう人たちこそ本当に救われなければならないのだと説かれるわけです。

親鸞聖人は「教行信証」という書物に自分の考えを生涯にわたってリライトを繰り返しながらまとめられます。そのエッセンスが有名な「正信偈(しょうしんげ)」という偈です。親鸞聖人が、正信偈をお作りになられた時に、

「六十行 すでに畢(おわ)りぬ 一百二十句なり」

と仰られたそうですが、親鸞聖人の教えを見事なまでにまとめた偈です。そんな「正信偈」の中にこんな言葉があります。

不断煩悩得涅槃
煩悩を断たず涅槃を得る

煩悩を捨て去ることは普通の人にはできません。「煩」とは身を煩わす、「悩」とは心を悩ますという意味だそうです。私たちの周りはこんなものばかりではないでしょうか。欲(例えば宝くじで当たって大金持ちになりたい)は誰もが持っているし、自分の思い通りに物事が進まなければ怒りの気持ちだって芽生えます。まずはそういう私たちであると自覚することが大切なのではないかと説かれているのが親鸞聖人だと思います。

そして、私たちは自分の思い通りにいかない「さわり(障り)」をできるだけなくして人生を楽に生きようとしがちです。日常生活の夫や妻に対する愚痴なんかは生活における「さわり(障り)」です。上司や部下や同僚が自分の思い通りにいかないのは仕事における「さわり(障り)」です。我々人間にとっての究極の「さわり(障り)」とは「生老病死(しょうろうびょうし)」です。仏教において、避けることのできないこの世での人間の4種の苦悩だと言われるものです。災害や病気で突然最愛の人と別離したりすることはこの上ない「さわり(障り)」です。しかしながら、「さわり(障り)」を通じていろいろと気づかされることも多いはずです。命の期限をお医者さんに告げられた後、最期の時に家族が寄り添って「家族」の絆が取り戻せた、年を取ってからいろいろと先達の人たちの所作を振り返って気づかされたなどなど…。自分自身にもここでは多くは語ることはしませんが、そんなことがありました。周囲の人たちの助けで、周囲の人たちに迷惑をかけて命を繋げて来られたのだと気づかされます。

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「仏法は毛穴から染み込む」という言葉があるそうですが、本日の報恩講の法話は大変自分に身につまされるお話で、頷くことの多かった内容でした。メモを参考に、法話の一部の内容を自分なりにまとめてみました。ユーモアもありハッとさせられることもあったりで大変興味深く拝聴いたしました。本日、お手次寺に来ていただいた羽部玲子先生には心から感謝したいと思います。

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