2002.02.11 バルセロナに響くメロディ

バレンシアからさらに地中海に沿って北の方に行くと、カタルーニャ地方の中心都市、バルセロナに到着する。まずはバルセロナの現地ガイドと街中で合流。今度は旅行会社の日本人の女性とスペイン人の男性。

バスはまずバルセロナの南西方面にあるモンジュイック (Montjuic)方面へ。この辺りは小高い丘になっていて、南には地中海 (Mar Mediterran)が望め、モンジュイックから東側を望めばコロンブスの塔 (Monument a Colon)の上に立つクリストバル・コロンの姿が真正面に見える。さらに遠くを望むとバルセロナの新市街がある。見晴らしのよい場所だ。

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バスは急な坂道を登る。バスの通路がタテに真っ直ぐ見えるぐらいの坂だ。坂が少し落ち着き始めたところでバスを降りた。目の前にはあのバルセロナ・オリンピックが開かれたオリンピック・スタジアム (Estadi Olympic)があった。ぼくはメラメラと燃えていた聖火の矢が聖火台に向かって放物線を描いて飛んでいったあのシーンをすぐに思い浮かべた。一番思い出に残っている、印象的なオリンピックはこのバルセロナ・オリンピックだ。岩崎恭子ちゃんが金メダルを取ったあのピコルネル・プール (Bernat Picornell)もこのスタジアムの近くにある。そうそう、忘れてはならない、「バスの通路がタテに真っ直ぐ見えるぐらいの」坂をマラソンの有森裕子選手がこのスタジアムまで登ってきたということを…。バルセロナは、スペイン国内でも大変蒸し暑い場所で(日本の夏とよく似た感じらしい)、さらにこの坂を「まもなくゴールテープを切る!!」という間近で登っていかなければならないことを想像すると、2月の冬なのに関わらず体が熱くなってきた。

20020211モンジュイックオリンピックスタジアム

バルセロナ・オリンピックで使用したオリンピック・スタジアム
(撮影日: 2002年2月11日)

ぼくたちはオリンピック・スタジアムの中に入ることができた。グランドには残念ながら立つことはできなかったが客席からはグランドを見ることができた。思ったよりも狭かった。このスタジアムのグランドは丘を削って作られたものらしい。そういったせいか、思った以上に工事が難航したらしく、1周400mのトラックを作ることすら苦労したらしい。

オリンピック・スタジアムは現在、エスパニョールというスペインリーグ1部に所属するサッカーチームのホームグランドになっているほか、オリンピック記念館 (Galeria Olimpica)もあり、ここでオリンピックの時の選手村の食事のメニューや選手のユニフォームなどが展示されている。

モンジュイックで一息ついた後に、バルセロナの市街地に入っていった。コロンブスの塔 (Monument a Colom)やランブラス通り (Las Rambras)などを車窓から見た。このあたりは、観光スポットにもなっていて、スリが多い場所でもあるらしい。

しかしながらぼくが驚いたのは、「2階建て観光バス (そういうものが定期的に運行されている)」に備え付けられていたガイドの表示だった。そのテープによるガイドは、パッと見る限り、いくつかの言語でなされているようだが (テープの再生ボタンにそれぞれの国旗があったのでそのように推測される)、常識的に考えれば、そのテープの再生ボタンの並び順で一番最初にあるのは「自分たち」の言葉によるガイドがスイッチであるはずだ。そこにあったのは何と「カタルーニャ」の自治州旗だったのだ。その次にあったボタンが「カスティーリャ語 (スペイン語)」だった。

カタルーニャ自治州

ちなみに、カタルーニャ語とスペイン語の関係を、関西弁と標準語の関係のようなものと説明する人がいるが、これは大きな誤解をもたらす原因になるのでよろしくないとぼくは思う。カタルーニャ語はスペイン語の方言 (El Dialecto de Espanol)ではない。言語学的に見ても、立派な「別の言葉」である。すなわち、カタルーニャ語は、カスティーリャ (スペイン)語やポルトガル語やイタリア語と「兄弟関係」にある言語なのだ。例えば「イタリア語はフランスの方言である」という説明をガイドから受けたら、違和感を覚える人はきっと多いと思う。これと同じように、カタルーニャ語とカスティーリャ (スペイン)語の関係は「異なる言語」なのである。カタルーニャ語とカスティーリャ (スペイン)語の関係が関西弁と標準語の関係と同じであるという説明が、スペインの「ガイドブック」などで平然と行なわれているのだから、いやはや「恐い」ものである。

途中で休憩のためにバスを降りた。そこにはちゃっかり日本語でも買い物ができる「お店」があった。ぼくは無料でサーヴィスされていた「水」だけをいただいてさっさと店の外に出て(苦笑)、カメラを買いに近くのキオスクに行った。もちろん買い物はスペイン語で。スペイン語での買い物にもだいぶ慣れてきた。

「フラッシュ付のカメラは売っていませんか?」

そうしたら、ぼくが日本人であったせいか、店員はFUJIFILMのカメラを出してきた。隣には安いコニカのカメラもあったのだが…(笑)。でもぼくは日本人だから(笑)、フラッシュ付の27枚撮りのカメラを購入した。

ここまではよかった。

再びバスに乗って向かったのが、あのガウディのサグラダ・ファミリアだ!!正式名称は、「Temple de la Sagrada Familia (テンプレ・デ・ラ・サグラダ・ファミリア)」と言う。日本語では「聖家族教会」とか「聖家族贖罪教会」などと呼ばれている。日本人もこの建築に携わっている。あのネスカフェのCMにでていらっしゃる外尾悦郎さんだ (2002年度のNHKスペイン語会話4月号に外尾さんが登場しています!!)。

20020211サグラダファミリア

サグラダファミリア
(撮影日: 2002年2月11日)

アントニ・ガウディは、1852年6月25日にカタルーニャ地方のタラゴナ県リウドムスに生まれ、小さい頃はカタルーニャ地方の民話を聞いたり、自然にたくさん触れて育った。ガウディは、やがてバルセロナにあった建築学校で建築士の資格を取り、1878年のパリ万博にショーケースのデザインを依頼された。そこでグエルという人物にその才能を認められ、その後彼がガウディの生涯のスポンサーになっていく。

サグラダ・ファミリアの建築が始まったのが1882年。建設当初は別の人物が指揮を取っていたのだが、その人物が主催者側と対立を起こし、それをガウディが引き継いだ。

彼は、建設中に路面電車に引かれて亡くなってしまうのだが、その建設は彼の死後も続行され、それが現在に至っている。完成までにはまだ200年とも300年ともかかると言われているそうだが、先日の「中日新聞」でひょっとしたらあと20年ぐらいで完成するのでは!?という記事もあった。その理由は2つあるようで、1つはガウディが作った模型の構造がコンピューターによって科学的に明らかになったこと (ということはそれ以前は難解で構造(!?)が分からなかったということ)、もう1つは資金の目処が立ったということらしい。工事の資金は、大企業の献金とかで作るのではなく、寄付と入場料で建築資金を集めるそうで、特に日本人がそれに貢献しているそうだ(笑)。

添乗員さんがサグラダ・ファミリアのことを、

「工事現場を見せて金を取っている」

とおっしゃっていたが、言われてみれば確かにそう!!建物の中に入ると、石を削る音などが途切れることなく響いていた。

しかし工事現場といっても、日本のビルディングの工事のような無機的な感じがしなかった。石を削るたくさんの音たちが、さも歌を歌っているかのようだ、あたかも長い年月をかけて作られていることを楽しんでいるかの如く…。「建築の詩人」と言われたガウディの魂がこの建物にこめられているように感じられるからだと思う。

ところで、サグラダ・ファミリアに行って、単に

「すごい」「カワイイ」

とだけ言っていても (日本語を知らない日本人トゥリスモ(旅行者)の多くの声)、実はその感動の度合いが小さいことに気付いていないばかりか他者にもその感動とやらが伝わらないと思うので、何が(どこが)すごいのか (見るポイント)を、ぼくの言葉で説明しよう。

もちろんこれはガウディが作った教会なのだが、実はガウディは詳細な設計図や模型を残しているわけではない。ではどのように作っているかと言えば、何と「ガウディだったらこうするだろう」ということをみんなで想像して作っているのである。そうすると、「ガウディっていい加減な建築家だったのか」と思われるかもしれないが、決してそうではない。彼が設計する建物はあまりに複雑すぎて、紙には表せないのだそうだ (他にも諸説あり)。このサグラダ・ファミリアについて言えば、ガウディは次のような言葉を言ったという。

Sagrada Familia es obra de generaciones, y que otros despues de el la continuarian, y que esos senores harian lo que quisieran.
(サグラダ・ファミリアは、何世代にもわたる仕事だ。自分のあと、他の人々が続けて作るのだ。その人たちは、したいと思うようにすればいい。)

ガウディは、サグラダ・ファミリアが彼の存命中には完成しないということを分かっていたのである。そこまでしてなぜ彼はサグラダ・ファミリアを建てようとしているのか。また、どうして彼がやろうとした仕事を受け継ぐ人たちがこんなにもいるのだろうか。

20020211サグラダファミリアの壁面

サグラダ・ファミリアの壁面
(撮影日: 2002年2月11日)

サグラダ・ファミリアは寄付と観光客が落としていく入場料のみで建築資金が集められていることは述べたとおりだが、何度も資金が集まらず建築作業がストップしたこともあったのだとか。ガウディは、サグラダ・ファミリアの写真解説書を出し、そこで全体構想を明らかにすることで、資金を集めようとした。結果として資金は集まり、工事は再開した。

では、その全体像とはいったいどのようなものなのだろうか。ここで、北川圭子さんの「ガウディの生涯」(朝日文庫)の一部を引用してみたい。

完成すると塔は18本。そのうち12使徒に捧げられる12本の塔は鐘塔で、鐘の音がバルセロナ中に響き渡るよう、その開口部の石材の角度を一枚一枚全て変えさせた…

おいおい、これでは教会そのものが楽器じゃないか!!ガウディは鐘の音に相当なコダワリを見せたらしい。もっと豊かな音域をバルセロナの街に響かせたいという気持ちがあったという。完成したら、サグラダ・ファミリアからバルセロナの街に向けて音楽が流れるのだという。ガウディはどうして教会を「楽器」にしようとしたのだろうか。その答えは自分なりにも出せていないでいるが。

驚くべきことはまだある。18本の塔のうち、1番高い塔になると、その高さはなんと170mぐらいにもなる!!1番高い塔には十字架が掲げられ、その十字架からはバルセロナの街に向けて光を放つようにするのだという。実は、この高さにもきちんとした論拠があるのだ。ガウディは神が創ったものよりも高いものを作ろうとは思っていなかった。バルセロナ市内で1番高いところは海抜200mの場所らしい。そして、サグラダファミリアが建っている場所の海抜は30m。つまり、両者の差がサグラダ・ファミリアの高さになっているのだ!!

サグラダ・ファミリアは音楽・建築・宗教・哲学など全ての要素が複雑に絡んでできた総合建築物なのだ!!しかしながらどうしてガウディはこんな壮大な建物を建てようとしたのだろうか…。その答えは自分なりにも出せていないでいるが…。

20020211サグラダファミリアからのバルセロナの街

サグラダファミリアからのバルセロナの街
(撮影日: 2002年2月11日)

さてさて、ぼくは清麿にそんなことを教えながら、サグラダ・ファミリアの螺旋階段を使って(この螺旋階段の壁に、前述したあの鐘の音が共鳴して窓の外に音が流れるという仕組みになっている)、「今」の頂上まで登ったが、清麿が高所恐怖症で突然気持ち悪いと言い出し、半分冷やかしながら半分心配しながらどんどん上に登っていった(彼が高所恐怖症だということは知っていたが、どうしても登りたいというから登ったのだ!!気持ち悪くなったのは清麿が100%悪いんだ(笑)!!無理には登らせていない。ぼくはそんな残酷な人間ではないので…(笑))。バルセロナの景色が一望できて、眺めが最高だった。

サグラダ・ファミリアの見学はあっという間に終了!!

その後、バルセロナのホテルにチェックインし、ここで今まで乗せてきて下さったバスのドライバーさんとお別れ。こういう瞬間はぼくは笑顔でいる人間なので、笑顔でお別れした。Muchisimas Gracias!!

ホテルで友蔵と合流。3人で再びバルセロナ市街に地下鉄で出て、バルセロナのカテドラルを見学。ここも意外にお薦めのところ。運がいいと、カタルーニャ地方の民族舞踊のサルダーナが見られる。サルダーナは、みんなで手をつないで踊る踊りで (それぐらいしか分からない)、一人で踊るフラメンコとは全く違うものだ。フラメンコは今までいたアンダルシア地方の踊りなので、これも一種の「地方色」というやつなのかとは思うが…。

20020211バルセロナカテドラル

バルセロナのカテドラル
(撮影日: 2002年2月11日)

ぼくたちが行ったときはやっていなかったのだが、中に入って建物を見学していたら突然ミサが始まって、出るに出られなくなってしまった。ある程度キリがつくまで仕方なくミサを見学した (ぼくはブディストです)。教会でのミサに出席(?)するのは人生2度目の経験。実は最初も海外で場所はアメリカ。何を言っているのかはさっぱり分からなかったが、雰囲気を味わえたのはよかったのかなぁ…と思った。

その後、ツアの添乗員さん2人と合流して5人で晩飯に。これは、実はバレンシアのホテルのロビーで友蔵が女性添乗員を誘って実現したものだ。

が、その前に、ランブラス通りの少し西側にある、「サン・ジュセップ市場 (Mercat de Sant Josep)」に5人で行った。ここは、市内で最も大きな市場と呼ばれるところ。スペインの生鮮食品の流通システムは「ヨーロッパ一」進んでいるとも言われているらしいが、そこには野菜から魚介類、お菓子に至るまで多くの食料品が安く手に入る。肉屋の天井からは豚の頭の塩漬けや野鳥や皮をむかれたウサギがぶら下がっている。日本の普通のお店ではではなかなか見られない光景だ。食料品がある程度揃うので、ここでスペイン語で買い物をして、翌日の旅行のお弁当の素材を買って作ってみるという楽しみ方もあると思う。スペインのハムでサンドイッチを自分で作ってもいいと思う。ぼくは何も買わなかったが、清麿は女の子っぽく小さなチョコレートをいくつも買っていた。

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夕食はバレンシアと同じくパエーリャを。本当はガウディ行きつけのレストランで「ポリョ・コン・サンファイナ (鶏肉のトマトソース煮込み)」やエスカルゴを使った料理を食べたかったのだが、肝心なレストランの名前を忘れてしまっていたので実現せず。帰国後に名前を調べてみたら、「Casa Culleretes (カサ・クリェレテス)」という名前だった。これは正直言ってくやしい思いをした。が、パエーリャにはエスカルゴが…。これがうまかった!!この日はワインの量を少し抑えることに。いや、飲んでたかな?添乗員さんとは、旅行業界の裏話や縁のない(?)結婚話など、楽しい話をして終わった。

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