2001.08.08 明治の京都を訪ねて

はじめに

「何故、このテーマなんだ!?」

そんな疑問を皆さんは抱くと思う。

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しかしぼくはこれは前から関心のあるテーマだった。明治以前は桓武天皇が長岡に都を移してから(西暦784年)ずっと「京都」は日本の中心であったことは周知のとおりだ。一時期、鎌倉時代や江戸時代にはそれぞれ鎌倉、江戸に政治の中心が移動したことがあったが、それでもやっぱり日本の中心、都は「京都」にあった。なぜなら平安時代に入ってから天皇はほとんど京都を出ることはなかったからだ。しかし明治時代になって「江戸」に天皇が移られ、「江戸」は「」の「都」という意味合いで「東京」という名前に変わり、さらに日本の首都は「東京」に移転され、遷都の詔が発せられないままいつの間にか日本の中心は「東京」になってしまったのだ。

しかしぼくは一つ自分の中でしっくりこないことがあった。それは、幕府と政府軍(薩長軍)が激戦を繰り広げたとされる「鳥羽伏見の戦い」以降の京都の歴史というのがすっぽぬけているということだ。ぼくは修学旅行を始め、何度か京都には訪れているが、いったいどうやって今の京都の街の姿になっていったのかということをふと考えた時、自分の心の中にはその答えが見えてこなかったのである。

京都に住んでおられる方にとっては小学校かどこかできっと郷土の歴史っていうことで京都の歴史を学ばれているに違いない。しかし、ぼくは京都市民でもなければ京都府民でもない。単なる京都という街が好きな非京都市民(府民)なのである。そこでいろいろな文献を調べて、「明治以降の京都」を堪能するために、京都に旅立つことにしたのであった。

京都市役所付近の散策

京都駅のプラットホームに降り立った後、最初の訪問予定地であった京都市役所付近にどうやって行ったらよいかを考えた。

JR京都駅から地下鉄に乗り換えて京都市役所前に行くことにした。地下鉄の烏丸(からすま)線で烏丸御池駅で東西線に乗り換えて「京都市役所前」に向かった。

ぼくがここに来たかった理由は実はぼくが小学生の頃に修学旅行で泊まったホテルや班行動で夜の買い物をした新京極(しんきょうごく)を散策するためだ。まずは京都市役所駅を降りてその新京極の商店街に入っていった。ちょうど新京極の商店街の入り口付近には本能寺がある。まずはそこに立ち寄って御参りをした。

実はこの本能寺には思い出がある。小学校の修学旅行で京都を訪れたまさに当日が織田信長が死んだ日だったのである。しかも泊まるホテルはこの本能寺付近の、いや本能寺という名前の入ったホテルだったのである。さらにいうと、部屋によってはその本能寺が見えて、その日は信長の亡霊が出るということで話が持ちきりになっていたことを思い出していた。ボクはあの当時からひねくれていたので、

「場所も暦も違う!」

と一蹴して、くだらない噂話に冷ややかな視線を浴びせていたことを忘れていない。

修学旅行の夜は新京極で買い物をしたことを覚えているが、あそこでは何も買わなかったことを覚えている。結局、当時2000円のお小遣いを4分の1残して帰ってきた。使う必要がないところでお金は使う必要はないからである。

実は、修学旅行に来て、いろいろなお寺や神社を周っていて一番ほしかったものといえば、その寺社仏閣の本である。しかしながら、1冊1000円以上もする本を買うわけにはいかなかった(これを買うと、お小遣いを出してくれた親にお土産を買う金がなくなる)。所詮、小学生には安いキーホルダーとか絵葉書ぐらいしか買わせてくれないのか!!と悔しい思い出も残っていた。今、こうして大人になって自分の稼いだお金を使って京都に来て、それなりのお金を使うことができるのは何かしらの幸せを感じる。

そんなことを思っていたらもう自分の腹時計は悲鳴を上げていた。そこで商店街をグルグル見渡すとなんとマクドナルドやサブウェイ、ケンタッキーやトンカツ屋のチェーン店があった。

結局安いトンカツ屋のチェーン店に入り、680円の「ヒレカツ定食」を一気に平らげた。

その後、店を出てぼくが小学生の時の修学旅行の時に泊まった「ホテル」を見ながら、京都市歴史資料館に向かって北上した。

京都市歴史資料館

アクセス

事前に最寄の地下鉄の駅からの所要時間をインターネットで調べていったのだが、どうもその時間内にはつきそうもない。インターネットには「地下鉄東西線の京都市役所前から10分」と書いてあったが、とても10分では行ける距離ではない。実際ぼくたちは信号待ちを含めて20分弱は歩いた。

これはおかしいと思い、京都から帰った後にPCの地図で時速4kmで設定して時間を計ってみたところ、15分00秒かかる距離であることが判明した。つまり地下鉄東西線京都市役所前駅から京都歴史資料館までは1kmあるという計算になる。そうするとこのホームページに載っていた時間で歩いた速さは「時速6km」ということになる。あとで聞いた話だが、目的地までの所要時間を計算する時の徒歩の速度というのは、「分速80m」なのだそうだ。時速に直しても「時速4.8km」だから、このホームページの計算方法がいかにテキトーなものかということが分かった。

左手には京都御苑を、右手には新島会館(同志社大学の寮)を望みながら午後1時00分ぐらいに京都歴史資料館に入っていった。

展示の見学

まずは展示室でやっている中世の書状の催しがあったのでマネージャーの2人に展示物についての解説を加えながら見ていった。寄進地系荘園の契約書などが展示されており、ぼくみたいな日本史が好きな人間にとってはとても楽しい時間だった。

次に2Fに上がって研修室に入った。事前に電話で調べ物をしたいということを東京から電話をしていたため、ぼくたちの姿を見てすぐに本を何冊か紹介していただけた。本の中味は「近代の京都」である。ぼくは席について早速読んでみた。

ぼくは勉強をほとんどしていかなかったため、文章の飲み込みがいまいちよくない。さらに食事後の睡魔も襲ってくる。こういうときには多くの人は寝るか動くかのどちらかをするだろう。ぼくは動いた。ぼくは入り口付近にあった棚のところに行き、立てかけてあった資料館のパンフレットを取り出した。そうしたら「映像展示室」という文字が見えた。基礎がないぼくは、まず映像で京都の概史を頭に入れておいてから本を読むほうが得策だと考え、早速「映像展示室」に行ってヴィデオを見た。

1本目に見たのは「京都1100年 -近代化へのうねり-」というもので、幕末から遷都1100年に至る近代化の努力を探った内容であり、ぼくにとってはまさに打ってつけだった。具体的な内容は次のようなものである。

  • 「蛤御門の変(禁門の変)」によって京都の町中が大火災にあい(一般的には「どんどん焼け」と呼ばれる)、3日でほぼ焼け野原になってしまった。
  • 戊辰戦争の中でも大きな戦いの一つとされる「鳥羽伏見の戦い」の被害にあった。
  • 明治2年に実質的な「東京遷都」が行なわれ(詔は出ていない)、京都は「衰退か発展か?」を迫られるほどのピンチにさらされていた。
  • 京都を建て直すための政策が行なわれた。
    • 町組の再編成が行なわれ、これによって江戸時代には一部活動が制限されていた「町組」が復活。また、町組単位で「小学校制度」を整える。全国よりも3年早い動きである。
    • 地元の有力産業である西陣織を活発化させるため、西陣織物会社が設立され、そこの留学生によってジャカード織機が導入された。
    • 琵琶湖疎水の開発
    • 内国勧業博覧会が開催され、その時に今ではお馴染みの「時代行列」が初めて行なわれ、日本で最初の路面電車が開通した。

このようにして、「衰退か発展か?」という問題を京都市民をあげて解決していったという内容だった。

2本目に見たのは「近世の京都 -京の幕末維新-」というもので、京都が政争の中心となった幕末維新時に、京都の市民は時代の嵐の中でどう生きたか、市民の視点から映像化した作品であった。1本目のものと内容はよく似ていたが、若干、幕末に重点が置かれていたように感じた。具体的な内容は次のようなものであった。

  • 江戸時代中期は元禄文化の中心都市の一つであった「文化都市」であった京都は「政治都市」へと変化していった。
    • 幕末以前は京都にあった武家屋敷の多くは、町組の中の一軒家に毛が生えたぐらいの大きさで、その役割は「物資運送の役割」程度のものであった。
    • 京都が「政治都市」へと変化した決定的な要因を与えたのは、ペリーが日本に来日し、開国の認可のための「勅許」を天皇からいただくため、武士の出入りがさかんになったことと、尊皇攘夷運動であった。また、1862年の文久の改革で「京都守護職 (会津藩主;松平容保が就任)」が設けられるなど、一層政治色が強くなっていった。
    • 京都にあった武家屋敷はこれに伴って巨大化していった。
  • 開国後、「生糸」が貿易のために国外に流出し(つまり「輸出」された)、国内供給が追いつかなくなり、さらに深刻な意図不足になった。
  • 新撰組や薩長の武士など、一般的には幕末の京都は華やかなイメージがどうしても付きまとうが、それは「武士」だけの話であり、京都市民にとっては「蛤御門の変(禁門の変)」などによって戦火を浴びるなど、散々たるものであった。

内容は重複していたが、歴史の理解を深めるにはいいヴィデオであった。

3本目に見たのは「京・自治の源流」というタイトルのヴィデオである。ヴィデオの内容説明には「応仁の乱のさなか、自営のために組織された京の町組を、その成立から実際の運営の様子までを解説する。」と書いてあったが、これは1本目に見たヴィデオで「町組単位で「小学校制度」を整えた」というところで、京都市民に「自主自立の精神」があったおかげで、全国よりも3年よりも早く小学校の制度を整えることができたという内容のナレーションがあったのだが、その「京都市民の自主自立の精神」とはどのような歴史的背景をもってして生まれてきたのかという疑問を解決したかったため、このヴィデオを見た。そうすると、別の視点から明治時代の京都を見ることができた。

  • 京の町で自治が行なわれた記録としては、「応仁の乱」頃の室町時代中・後期頃からのものが残っている。自治は北と南とではその性格がやや異なっていたらしい。
  • 室町後期から江戸時代にかけて、「寄合」や「町組」等の京都の「自治制度」が整った。
  • 「町組」は、「京都の町の形」にまで大きな影響を与えている。碁盤の目に通っている道に沿って家が建てられるため、真ん中が空き地になるため、そこを「寄合」の場所とされたり、江戸時代にはその空き地部分まで家が建てられたため、京都独特の奥行きの深い家が数多く作られるようになったらしい。
  • 江戸幕府は、京都の「自治」が幕府の政治の妨げになると考え、「寄合」の活動が制限され、次第に幕府の「御触れ」の報告ぐらいしか行なわれなくなってしまった。
  • しかし、江戸後期から明治にかけて「町組」を大きく改革し、「番組小学校」設立に大きく寄与してきた。他にも、京都の町おこしに大きな影響を及ぼす存在になった。

「応仁の乱」頃から「町の自治」が存在していたという記録が残っているということを考えれば、おそらく京都は単に「朝廷」があるという政治のシンボルとしての「都市」であったというのではなく、「自治」が発展するだけの「産業」があった都市だと言うことができると思う。「産業」の力が強ければ、「お金」が入ってくるので、その分だけ社会的に「強い立場」に立つことができる。また、「商業」が発展していれば、商人どおしのある種の「妥協」が必要であり、どうしても住人が集まる機会が必要であろう。「京都」は室町時代の頃からそういう都市だっただろう。

このように、ヴィデオ学習は一定の成果をあげることができた。やや蛇足的な話だが、ヴィデオを閲覧するときに使っていた机の端を見ると、平成2年に宝くじの収益金でこのヴィデオコーナーが作られたのだということが書いてあった。なるほど、宝くじがこのようなところにも使われていると驚かされた。ヴィデオの内容一覧は京都歴史資料館のホームページの中に載っている。

さてさてヴィデオを見終わった後、再び研修室に戻り、紹介された本を一通り読んでみた。そうしたらこれがよく理解できる。歴史を理解するには「流れ」を覚えるといいとよく言うが、まさしくその通りであるということが分かった。ここでいう「流れ」とはまさに大局的に見た室町後期からの「京都の歴史」である。ぼくは先ほど紹介された本を読んでほしい部分だけコピーをした。そして、明治維新前後の京都を調べた。

「東京」改称について

1868年7月17日に「江戸ハ東国一ノ大鎮四方輻湊ノ地、宜シク親臨以テ其政ヲ視ルヘシ。因テ自江戸ヲ称シテ東京トセン。是、朕ノ海内一家東西同視スル所以ナリ。衆庶此意ヲ体セヨ」という詔を出し、明治天皇はやがて東幸した。全国統治のため東京行幸・東京遷都が794年以来続いた「都」の盛衰に絡む問題であるとして、京都町民は大混乱した。

明治天皇はこの年の末に京都に帰ってきた時、京都市民に対して酒237石余、するめ118500余枚、その他合わせて合計金4266両余を下賜した。これは、天皇が京都を長期にわたって離れていたことによる京都市民の不安を慰撫する意味がこめられていたと考えられているが、これによって、東京遷都の政治的意図が変化するわけではなかった。そして、「太政官(今で言う「内閣」に相当する)」が東京に移転するという事実上の遷都宣言を行ない、1869年3月7日に再び東京に向かって出発してしまったのである。

これに京都市民が反発しないわけがない。町組毎の「デモ」もあった。「天皇に還幸していただきたい」という運動である。しかしその運動とは裏腹に、今度は皇后まで東幸されてしまった。京都の行政機関は、市民に対する慰撫につとめながらも、恐れたのは「どんどん焼け」、「鳥羽・伏見の戦い」と「東京遷都」による「京都の衰微」であった。そこで、洛中地子銭免除を行ない、産業基立金10万両を東京遷都の代償として支払われたが、しかし人口も35万人前後から22万人まで急激に減り、京都は危機を迎えていた。

 
参考文献;京都市編「京都の歴史7」(京都市史編纂所)

殖産興業政策

京都は、明治に入ってから全国的に展開されていた「殖産興業政策」を京都に導入した。その代表格なのが、先ほどヴィデオで見た「西陣織物会社」の留学生によって導入された「ジャカード織機」を使って西陣織の発展と「琵琶湖疎水」と「第4回内国勧業博覧会」であった。ぼくが調べた本にはあとの2つが載っていた。「疎水」とは、「灌漑・給水・舟運または発電のために、新たに土地を切り開いて水路を設け、通水させること。また、そのもの。多くは湖沼・河川から開溝して水を引き、地形によってはトンネルを設けることもある。」(新村出編「広辞苑[5版]」岩波書店)というものである。

琵琶湖疎水」は、京都を上げて取り組んだ一大プロジェクトである。琵琶湖の水を京都盆地に引くことによって船運・灌漑・近代産業の用水とするものである。実は、すでに江戸時代から有名な商人の角倉了以[高瀬川を作るなど、河川工事にも積極的に関わってきた人]の息子であった角倉与一には「琵琶湖と京都とを直接結んで大量の物資輸送を容易にする」という構想があったのだから、「琵琶湖疎水」を作ることが京都の発展にとって如何に大きな一大事業であったことを伺わせることができる。

しかし江戸時代から明治の初期まで実現しなかったのは「工事費」が不足していたからである。総工費は当時でも125万円であり、内訳は産業基立金35万円、国庫補助金などが充てられたが、地元負担金も65万円もあった。最終的には京都・伏見・宇治川を使って大阪に達する水運路が完成した。さらに、蹴上(けあげ)ではこの高低差を利用して日本最初の事業用水力発電所が作られた。これは当初の計画にはなかったが実現した。

戦後には陸上運輸が発達したため、従来の主目的であった水力や舟運の占める地位が低下し、1948年にはインクライン [傾斜面にレールを敷き、動力によって台車を走らせ、貨物や船を昇降させる一種のケーブル‐カー] の稼動が停止して、その役割を終えた。代わって上水道や発電といった近代都市住民の生活に欠かすことのできない機能に重点が移っていった。変わった琵琶湖疎水の使われ方として、円山公園の噴水や瓢箪池の水を挙げておきたい。詳しいことは京都市水道局のホームページにも説明が載せられているのでそちらもご覧頂くとみなさんも理解が深まるかもしれないと思う。次に「内国勧業博覧会」についてである。これは、大久保利通が国内の殖産興業の促進を国民に紹介しまたそれを促すために始めた国内博覧会である。第1回目は東京・上野で開かれ、京都は第4回に行なわれた。1895年は、桓武天皇が大極殿で正月の拝賀を受けてから1100年になるため、それを記念して「平安遷都紀念祭」を挙行し、京都復興の好機としようという計画が打ち出された。そして、そのモニュメントとして創建されたのがあの「平安神宮」である。この博覧会は、敷地が51000坪、出品数16万9000点、1895年4月1日から7月1日までの入場者数は113万7000人に達したのだという。また、これに伴って琵琶湖疎水を利用して日本発の市街電車が運転された。さらに、今ではお馴染みの「時代行列」もこの博覧会を機に始まったお祭りである。これは大成功であり、近代都市京都の出発点となるできごとであった。

 
参考文献: 足利健亮編「京都アトラス」中央公論社(1994)

こうして歴史資料館の2Fの研修室で調べて、京都市歴史資料館をあとにした。

東山散策

時計はすでに午後4時00分を指していた。まだ帰るには少々早い時間だったので、地下鉄で「東山」まで向かうことにした。目的地は「平安神宮」である。平安神宮は何回も行っているところだ。京都に来るうちの2回に1回は来ているところだ。それでも…だ。

しかし今日は目的があったのだ。近代都市京都を知らしめた「第4回内国勧業博覧会」の様子をこの目で見に行くためだ。といってもタイムスリップをするわけではない。ぼくにとってはその跡地に向かうだけで十分だった。平安神宮の立看板で、ここは1895年に博覧会が行なわれて遷都1100周年を記念した儀式があったことは知っていた。「平安神宮」は、先に述べた大極殿の8分の5のサイズで作られた博覧会のモニュメントであるということなのだが、京都が「東京遷都」や戊辰戦争等の「戦災」によってもがき苦しみ、「衰退か発展か?」を迫られるられるほどのピンチに立っていて、一生懸命になってそのピンチを救おうと町一丸になって汗水を流して頑張ってきたモニュメント(記念碑)でもあるのではないかとも感じた。

もちろん、こういった街作りに反対してきた勢力もあったのだろうと思う。事実、琵琶湖疎水を作る時に地元負担金を納めなければならないときに反対運動が起こったという話もある。彼らには彼らの事情というものがあるのだろう。維新後は市民も生活が苦しかったのだから反対したい気持ちもきっとあったに違いない。しかしながらこういう人たちの意見にも耳を傾けなければならない。人の意見というのは「一致」するということの方が珍しい。両者には両者の言い分というものがある。両者の言い分をよく聞いてこそ、初めて歴史の研究というのは成り立つと考えるのはぼくだけではないだろう。今回はそこまで突っ込んだ研究ができなかったが、今後、そういう細かい部分も見て行けたらと思う。

あと一つ、ぼくがとても印象的だったのは、日清戦争(1894-1895)の最中であったにも関わらず、このような「神社」を建てるような余裕がどこにあったのだろうかということだ。ぼくの感覚であれば、「戦争」中ならば文化施策のようなところへの支出を減らして、それを利用して戦争にできるだけ多くお金をつぎ込むことを考えるだろう。それにも関わらず「内国勧業博覧会」を主催し、さらに平安遷都1100年モニュメントとして「平安神宮」も作ってしまう。こんなことを京都市が企画し、桓武天皇が京都の地に都を移してきた偉業を祝えるのは、おそらく京都市民が京都という場所を愛していたからこそ為し得た業ではないだろうかと思う。

また、次の出来事が面白いことを物語ってくれているようでならない。

明治天皇が正式に京都に戻ってきたのは(公務で京都に戻られたということは何度もあるが…)死後のことである。これは京都市民から出た要望で、東京に墓地を作るかそれとも京都に作るかで結局は京都市民の強い後押しで京都に帰ってこられた。

明治天皇が京都にいらっしゃらない間に「これだけ京都は成長しました。いつでも戻ってきてください。」ということを天皇陛下に対してお見せしたかったのかもしれない。平安神宮はその象徴のようなものだ。その真意は資料に当たって調べているわけではないのであくまでぼくの主観的な意見ではあるが、平安神宮を戦争の最中であるにも関わらず建立したのは、

「桓武天皇を通じて、日本の都は京都にあるんだよ」

ということを全国にアピールしたかった、そんなものなのかなとも思えた。

このように見ると、京都という街は妙な「力」を感じずにいられない、そんな街であると感じた。きっと昔の「四神相応」の考えを引きずって、この地にある種の力を与えているのではないかと平安神宮の中にあった「平安京」の説明が書いてあった看板を見てぼくは感じた、科学的根拠はないにせよ..。

なお、「四神相応 [しじんそうおう]」とは、

四神に相応じた最も貴い地相。左方である「東」に流水のあるのを「青竜」、右方である「西」に大道のあるのを「白虎」、正面である「南」にくぼ地のあるのを「朱雀」、後方である「北方」に丘陵のあるのを「玄武」とする。官位・福禄・無病・長寿を併有する地相で、平安京はこの地相を有するとされた。

と新村出編「広辞苑」(岩波書店)には記してある。やや話は脱線するが、大相撲のテレビ中継で「吊り屋根」の頂点に「房」が付いているのだが、あれはこの四神相応の考え方が反映されているものなのだそうだ。確かに「竜」「虎」「雀」「武」と「房」「房」「房」「房」が示す色は同じだ。現代にも残る昔の伝統の一つだ。相撲は「第4回内国勧業博覧会」から100年後の西暦1994年の「遷都1200周年記念行事」でも平安神宮で「相撲節会 [すまいのせちえ]」が行なわれている(詳しくは平安遷都1200周年記念協会ホームページへ)。現在の相撲は、力士が一度蹲踞(そんきょ)の姿勢をとってから「立ち合い」を行なうが、相撲節会では「立ち合い」は蹲踞をせず、立ったまま「勝負(取組)」を始めたそうだ。どうやら現在の蹲踞の姿勢から取組を始めるという現在の「立ち合い」という言葉は「相撲節会」の伝統からから来ているらしい。つまり「った」姿勢から「する」というところから「立ち合い」という言葉は生まれたらしい。

京都で注目しておかなければならない、いやどうしても気になってしまうのは、近代建築と伝統建築が融和しているという点だ。近代的な「鉄道」が敷かれたすぐ横に伝統的な「平安神宮」が建立されていたというのだから、京都の街の新旧建築の調和は今に始まったことではないと思う。きっと「法律」などでも伝統的な都市景観を守るための法制度というのは整えているのだろう。

ところが、同じように伝統を基調として都市づくりがなされているヨーロッパの都市とは微妙に性格が異なるような気がする。

例えば、ぼくが行ったスペインのトレドは、西ゴート王国の時代からレコンキスタ(国土回復運動)を過ぎた頃まで発展してきた要塞都市(マドリードに首都が移るまではここが「首都」であった)なのだが、あそこに行った時と自分の中の感覚が微妙に違うのである。家々は「石レンガ」でできていて、「城壁都市」という特徴が如実にあらわれているが(西洋の都市はほとんど城壁都市から始まっている。昔はパリも城壁都市だった。産業革命による人口増加に伴い壁を撤廃したという歴史がある)、その都市よりも外に広がる空気が感じられないのである。トレドはイスラム勢力にも占領されているという歴史もあり、イスラムとキリスト教が融合している独特な作りになってはいるが、壁(城壁)が高いせいか、どこかしら「排他的」なイメージがある。これは西洋にあった「civilization」の考え方から由来する雰囲気であろうと思われるし、何も積極的にイスラム文化を取り入れたわけではないからだろうと思われる。鈴木孝夫氏の「ことばの社会学」には、

ユーラシア大陸系の諸民族のあり方は、それぞれがまさに水面に落しても拡散消滅することのない極めて粘性の強い油的の性質を持っている。どれもが文化に関する明確な自己定義をもち、強力な言語的自己凝縮力で、他者とははっきり区別される自己を主張して止むことがない。

とユーラシア大陸の文化についての特徴が述べられている。

一方の京都にも「壁」自体は存在した。しかし、石レンガで作られた重々しい「城壁」ではない。「城壁」とは敵からの侵入を防ぐために築かれるもので、排他的であるといわざるを得ないのに対し、京都の「木造」で作られた「壁」には「警護」のような役割もあったに違いないが、それは敵からの侵入を防ぐというようなあからさまな「排他性」というものはあまり感じられない。同じく日本文化についての記述を、鈴木孝夫氏の「ことばの社会学」では、

現在の日本文化が持つ固有性とは、物理的な諸条件によって、日本が他の国々から隔離されてきた結果として生まれ保持してきたもの

と述べられており、さらに

外来文化の輸入に対して抵抗が少なく、その反面、物理的条件のゆえに自己拡散の危険にさらされずに済んだ。

ということが述べられている。ここでいう「物理的な諸条件」とは、具体的には「日本を取り巻く四海」のことを示している。ぼくの五感に2つの古都の風景が訴えてきたのは、それぞれの地域の文化そのものだったのかもしれない。それと同時に両者のいずれがいいのかという二者択一的な感覚には決してなれなかったのであった。

しかし日本の文化は今までに増して重大な危機に瀕していると鈴木氏は述べている。

昭和30年代の後半に起った日本の経済的地位の上昇は、急速に進歩した世界の情報、交通手段の発達と絡んで、日本が2000年の長きにわたって享受してきた外的世界との物理的隔離の条件を完全に消滅させてしまった。

そして、

今や日本人は、異質の文化、異なる価値観と言語を持つ諸民族と、すべての面で直接に、彼我が区別する枠なしで、対峙せざるを得なくなっている。自己と他者が同一の平面、全く同じ土俵の上にあり、巧みな攻撃と有効な防御によってのみ生き残ることができる過酷な競争の世界に引きずり出された日本人が、はたして止めどなき自己拡散の道をたどるのか、それとも粘度の高い個性的な油滴として生き残れるかどうかは、私たちが強力な自己凝縮性を持つアイデンティティをどこまで形成できるかどうかの一点にかかっている。

ということを述べている。

そのような現象が日本で起こっているとしたならば、では「京都」はどうなのだろうか?観光客として京都の「古都」の場面しか見てこなかったからすぐさまその答えを出すことはぼくにはできない。ぼくが思うには、感覚的にではあるが、どうも鈴木氏が述べていた上記の問題が京都にも忍び寄っているように思える。

内国勧業博覧会の跡地に建てられた京都国立博物館の横を通り過ぎ、平安神宮をあとにしたのであった。

旅の終わり

地下鉄で「東山駅」から「二条駅」に向かった。しかしぼくは乗客の格好から何かイヤな予感がしていた。夏の風物詩、「浴衣」姿の女性が異様に多かったということである。それ自体なんでもないことのように思える、いや微笑ましい姿だが、「びわこ花火大会」があることを地下鉄の駅のポスターで確認した。ラッシュがよりひどくなることを直感した。JR東海道線ならば少なくとも「大津駅」までは相当程度に混むことが分かった。

地下鉄の「二条駅」で降りた後、JRの「二条駅」から「京都駅」まで向かった。山陰線で京都の西を走っているため、夕日が眩しかった。

京都駅に着いたあと、関西国際空港に行く特急「はるか」を駅で見た後、一度駅の外に出てJR京都伊勢丹の10Fのフードコートで夕食を取った。暑かったからあっさりしたものが食べたかった。だから野菜が豊富な「サブウェイ」にした。あの30cmサイズの「サブウェイクラブ」はとても美味しかった。アメリカではよく食べた。ぼくはマクドナルドやバーガーキングよりもサブウェイが好きだった。ぼくはちょっとした「ヴェジタリアン」である。アメリカで食べた食事であっていたもの(美味しかったもの)がメキシコ料理とサブウェイとホストファミリーに出してもらった美味しい野菜だけだったが、それだけ印象に残っているチェーン店だ。

午後7時30分京都駅発の列車に乗って帰路に付いた。花火の一番のピークで、大津駅までは東京のいラッシュを彷彿させるような電車であった。しかし大津駅を過ぎ、電車が停車するにつれて人の数は減っていった。米原駅で下車して豊橋行きの快速に乗った。ただ、この快速は岐阜駅まで各駅停車という区間快速というものであった。

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日帰り強行軍の旅行であったが、楽しい旅行になった。

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