2000.03.25 マドリード・アウト―ノマ大学、トレド訪問、そしてゼミ生たちの旅行記

各自の行動

今朝は午前中が自由行動、午後はオプショナルツアでトレドに行くことになっている。

午前中の各自の行動を見ていくことにしよう。

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まずは虎雄。虎雄はマドリードから北西に100kmほどのところにあるセゴビア (Segovia)という街を訪れていた。セゴビアには、スペイン最大と言われるローマ水道橋 (Aqueducto Romano)がある。これは世界遺産にも指定されている。建てられたのは1世紀後半から2世紀前半であると言われている。全長728m。高さは最も高いところで29m。各石の間に接合財は一切使われていない。現在は、ローマ水道橋と同じところに水道管を通しており、間接的ではあるが水道橋としての役割を果たしている。約2000年にもわたってセゴビアという街の生活を支えているわけである。水道橋が2000年弱の人間をはじめとするいろいろな歴史を見てきているわけである。

「ローマ水道橋が建てられた時の人々と現在の人々はどのように違うのでしょうか?」
「あなたの心がワクワクしたようなことってどれぐらいありますか?」

もしローマ水道橋とお話ができたら、そんな質問を投げかけてみたい。どんな答えが返ってくるのだろうか。日本に限らず何処の国へ行っても古い文化財なんかを見学しに行ったときにはそういった会話をしたくなる。

セゴビアには他にも白雪姫のお城のモデルとなったといわれ、スペイン両王の一人であるイサベルがカスティーリャ王国の女王となる前に住んでいた「アルカサル (Alcázar)」などがある。

次に芳郎。彼は黒田先生が客員として遇されていたマドリード・アウトーノマ大学 (マドリード自治大学)を訪問。キャンパスは西洋タンポポの咲く芝生に覆われ、建物群も統一感のある近代的で清潔感のあるキレイな建物であった。

20000325マドリードアウトーノマ大学

マドリード・アウトーノマ大学法学部棟

この大学はフェリペ皇太子も在学されていたことのある大学である。そして忘れてならないのは、1996年2月14日にこの旅行記の冒頭にも話題を挙げたバスク民族過激派のETAの若者によって射殺されたトマス・イ・バリエンテ (Francisco Tomás y Valiente)教授の研究室があることだ。先生のご専門は法制史で、先に紹介した「憲法裁判所」の長官も務められていた。ここアウトーノマ大学のご本人の研究室で電話をしていたところをETAの若者によって射殺された現場 (研究室) がある。ETAによって殺害されたのは、誕生した1959年以来1000名ぐらいを数えるらしい。この犠牲者の中には、フランコ政権下において初代首相になったカレーロ・ブランコ (Carrero Blanco)氏などの公職者だけではなく、一般市民までもが被害に遭っている。

次に伸太郎。彼は美術館や博物館が好きなので、マドリード市内の美術館や博物館を回っていたと聞いた。

最後に、ぼくはこれまでの見学メモをまとめるためにホテルでゆっくり休息を取った後、市内散策を行った。最初に行ったのが下院 (Congreso de los Diputados)。今回は都合がつかず訪問することはできなかったが、見学することができれば今回の研修旅行の見学コースになったことは言うまでもない。先輩黒田ゼミ生の1996年9月のスペイン研修旅行では、下院議事堂内で岩手県大船渡市に訪問したことのあるピラール・プルガール・フライレ (Pilar Pulgar Fraire)下院議員と偶然お会いしたという話を黒田先生からお聞きしたことがある。なぜこのような一議員に偶然会ったという話が話題にのぼったかといえば、この下院議員がウェルバ県のパーロス・デ・ラ・フロンテーラ市長を務めていた頃、大船渡市の方から姉妹都市提携の申し出をされたことがある、ということを話し始めたからである。

この話を黒田先生から聞いた後、早速ぼくは詳しい事実関係をインターネットで調べてみた。大船渡市のウェブサイトで紹介されているパロス・デ・ラ・フロンテラ市についての文章を引用したい。

サンタ・マリア号のスペイン出港が縁で、スペイン国、パロス・デ・ラ・フロンテラ市と姉妹都市の提携を行っています。

パロス市はスペイン国南西部のアンダルシア地方ウェルバ県に属しています。500年前にコロンブスが、大航海に旅だった由緒ある港町として広くその名を知られています。人口は約7,500人。化学工業と郊外でのイチゴ栽培が盛んで、経済的にも急成長しています。

パロス市との交流は、平成3年7月にスペイン・バルセロナ港で開催されたサンタ・マリア号の出港式に大船渡市長ら一行が参加したおり、パロス市を表敬訪問したのが発端です。

平成4年(1992年)8月12日にパロス市から市長一行3名を迎えて調印式が行われました。文化の交流と友好を礎とし、両市の福祉の向上に寄与することを誓い合う合意書を交換しました。

コロンブス (スペイン名: コロン)がアメリカ大陸到達500年を記念して建造、復元された帆船サンタ・マリア号がスペイン・バルセロナ港から出港するにあたり、大船渡市長等一行21名がその出港式に出席したことが発端となり、1992年(平成4年)8月12日に姉妹都市として調印した。

姉妹都市提携合意書

日本国大船渡市とスペイン国パロス・デ・ラ・フロンテラ市は、両市民の友情と理解を深め、両市間における市民文化の交流と相互の友好親善を図り、両市市勢の伸展と市民福祉の向上に寄与することを念願するとともに、日西両国、ひいては世界平和と人類の福祉に貢献することを確認し、ここに両市が姉妹都市として提携することに合意する。

平成4年8月12日

日本国大船渡市長 白木沢 桂
スペイン国パロス・デ・ラ・フロンテラ市長 ピラール プルガール フライレ

 

黒田ゼミの研修旅行ではこのようなことを幾度となく経験しているようである。姉妹都市提携の当事者と偶然出会う旅行なんてまず考えられない。感心させられた。

下院議事堂を外から見学した後、ぼくはレアル・マドリードのホームスタジアムである、「サンティアゴ・ベルナベウ・スタジアム (Estadio Santiago Bernabéu)」に行った。収容人数は8万200人。面積は約5ヘクタール。このスタジアムは、銀行・博物館・官庁が建ち並ぶ一等地に存在する。名前の由来は、1944年にレアル・マドリーの会長に就任したサンティアゴ・ベルナベウ (Santiago Bernabéu)である。スタジアム建設の計画が立ち上がった1945年もこの辺りは一等地であった。しかし、ベルナベウはエステリオル銀行の取締役の飲み仲間であり、また後に首相になったアドルフォ・スアレスとも個人的な親交を築いており、彼らとの関係のおかげで土地の購入とスタジアム建設の費用は破格の条件で融資を受けられるようになった。完成したのは1947年。会長の名前を冠した「サンティアゴ・ベルナベウ・スタジアム」と名前が変更されたのは1955年である。このスタジアムの近くには、「サンティアゴ・ベルナベウ」というメトロ(地下鉄)の駅もある。駅からの距離は「東京ドーム」とJRの「水道橋駅」よりも近いぐらいだ。

サンチャゴ・ベルナベウ・スタジアム
(撮影: 2000年3月25日)

ここをホームとする「レアル・マドリード」は、1902年3月にチームが創設される。その後、欧州チャンピオンリーグ (Liga de Campeones) になること9回(最多優勝回数)、国内リーグ戦 (La Liga Española) を制すること28回(最多優勝回数)、国王杯 (Copa del Rey) を制すること17回という名門チームに成長した。(回数については2000年3月現在)

レアル・マドリード
FCバルセロナ
創設
1902年
1899年
ホームタウン
マドリード
バルセロナ
スタジアム
サンティアゴ・ベルナベウ
(収容人数; 80200人)
カンプ・ノウ
(収容人数; 109815 人)
1部リーグ在籍シーズン数
71
71
国内リーグ優勝
28
16
国王杯優勝
17
24
欧州CL優勝
9
1
UEFAカップ優勝
2
3

 

スペイン国内でライバル・チームといえば、おなじみの「FCバルセロナ」、通称「バルサ」である。この2チームが戦う「エル・クラシコ」(俗に言う「スペイン・ダービー」)は、今では世界のサッカーファンがいろいろな意味で一目置く試合になっている。両チームのサポーターはもちろんである。

しかし、このチームの「ダービー・マッチ」が盛り上がるのは、単に「リーガ・エスパニョーラ」内で突出した力を持った「強いクラブチーム同士」の戦いだからだ、というだけではない。マドリーとバルセローナという2つの都市が持つ文化的なもの、2つの都市が持つ歴史などのサッカー以外の要素がクラブチームと絡んで、ダービー戦をより盛り上げているのである。

バルセロナのあるカタルーニャ地方は、中世は「カタルーニャ・アラゴン王国」という国があり、イベリア半島東部から南部沿岸の地中海を征服していた海洋国家であった。一方のマドリー周辺には、トレドを中心に急進的な宗教国家(キリスト教)の「カスティーリャ王国」が存在していた。両国に転機が訪れたのは、1468年に「アラゴン・カタルーニャ連合王国」の皇太子のファラン(スペイン語名で「フェルナンド」)と「カスティーリャ王国」の王女イサベルが結婚した時であった。後に、両者はそれぞれの国の国王・女王となるのであるが、年表にあるような「スペイン統一」は為されたわけではなかった。依然として両国とも「存在」しており、単に国のトップ同士の人的な結びつきがあったにすぎなかったのである (両者の仲はよく、国家レベルにおいても、署名はイサベルが先で国家紋章はアラゴン・カスティーリャ王国が先というような取り決めまでなされていたのだという)。

彼らが国のトップに立った時はまだ「レコンキスタ(国土回復運動)」の真っ最中であった。つまり、イベリア半島には依然としてイスラム勢力が残っており、彼らを半島から追い出すという事業を行なっていた最中であった。「アラゴン・カタルーニャ王国」は、「カスティーリャ王国」の政策を譲歩しながらも受け入れ、念願の「レコンキスタ」を完了させた。その後、彼らの孫のカルロス1世の時代になると名実ともに「スペイン」が統一される。それと共に、カタルーニャ地方で話されていた「カタルーニャ語」が次第に社会の表面から消えていくことになる(日常生活では残った)。当時は、アイデンティティだの何だのというより生活の安定の方が重要視されていた時代であった。両国が統一された後のカタルーニャ地方の農民の生活は徐々によくなっていたし、当時は文字を読める人が少なかったため、容易にカタルーニャ語からカスティーリャ語(スペイン語)へと切り替わっていったのである。

カタルーニャ地方の没落は、1701年の「スペイン王位継承戦争 (Guerra de Sucesión)」によって決定的となった。この時期になると、スペインの没落ぶりは明らかで、国王はハプスブルク家のカルロス2世であった。カルロス2世は、病弱で、性的に不能で嫡子を設けることができず、王の異母姉はフランスのルイ14世(太陽王)に嫁ぎ、妹は神聖ローマ帝国皇帝のレオポルト1世に嫁いでいたため、カルロス2世の死をここぞとばかりに待っていたのだ。カルロス2世が死亡し、その遺言には、「ルイ14世の孫のフィリップ」を跡継ぎに指名すると書いてあった。しかし、フランスの領土拡大を恐れたオーストリア、イギリス、オランダは直ちに神聖ローマ帝国皇帝のレオポルト1世の子のカール大公を跡継ぎにすることを主張し、スペインの王位継承をめぐる戦争が勃発したのである。カタルーニャ地方は、弱体化していたハプスブルク家には地方特権に対しての擁護姿勢があったことなどもあり、カール大公の支持に回った。結果は、紆余曲折があり、オーストリア、イギリス、オランダが手を引き、カタルーニャは孤立し、ついにブルボン家のスペイン軍に敗れてしまった。

ブルボン・スペインは、厳しい中央集権を敷いた。スペイン国内で最後までブルボン家に対抗してきたカタルーニャには特に厳しい態度で臨んだ。州政府が廃止され、地方組織も廃止され、カタルーニャ独自の法律や特権も廃止された。カスティーリャ語(スペイン語)の使用を義務付けた。官途に就いて出世することや政治家になることはできなくなった。しかし、皮肉にも、これらの政策がカタルーニャを蘇らせることにもなった。彼らは政治の分野では何もすることができなくなってしまった一方で、「産業」に集中することができるようになった。これは、この後スペインがさらに没落していく一方で(1898年の「米西戦争」にも敗れた)、スペイン国内で唯一「産業革命」を成功させた。この時期ぐらいから、カタルーニャの中心地であったバルセローナでは「芸術」や「文化」も輝きを見せる。アントニ・ガウディなどはその典型である。

このような時期の中、バルセローナに「FCバルセロナ」が(1899年)、マドリードに「マドリード・フットボール・クラブ(後のレアル・マドリード)」(1902年)が生まれた。

カタルーニャとマドリードの激動の歴史はこれでまだ終わらない。

経済的発展の代償として、貧しい工場労働者といった新しい社会的階層が誕生した。彼らは貧困のために街中でテロ行動などを起こし、社会的問題になっていた。この社会的問題に対して政党政治は何もできず、カタルーニャのブルジョワたちはプリモ・デ・リベラ将軍の政治による解決を願った。プリモ・デ・リベラ将軍は、一端はカタルーニャの文化や言語を認めると言ったものの、政権の中枢に就くとその約束を反故にし、弾圧を始めた。しかし、プリモ・デ・リベラの政治は世界恐慌などの影響もあり、長くは続かなかった。その後に登場したのは「共和国政府」である。国内カップ戦の名称が「国王杯」から「共和国大統領杯」と改称されたのもこの時期である。この政府のもとでは自治政府が認められ、一時的に政治的自立が保障された。

しかし、フランコ将軍がクーデターを起こし、3年にわたってフランコと戦ったが敗れ(カタルーニャ自治政府は無論「共和国政府」を支持した)、その後は再びカタルーニャにとっては暗黒の時代を迎えることになる。政治的な側面はもとより、文化的なもの、社会的なものまでもが徹底的に弾圧された。カタルーニャ語の民俗芸能やカタルーニャ語による本の出版はもちろん、氏に至るまで(例えばジョルディと呼ばれていたものをホルヘと名乗らなければならなくなる)、徹底した弾圧が行なわれた。

こうした中で、レアル・マドリードは政府に近い財界人と手を結び、「第1期黄金時代」を迎えていた。現在のレアル・マドリードの本拠地である「サンチャゴ・ベルナベウ・スタジアム」の名称は、この時期の敏腕会長であったサンチャゴ・ベルナベウ氏の名前が由来している。彼は、バルサとのアルゼンチンのスーパースターであったアルフレッド・ディ・スティファーノの獲得戦に勝利し、アルフレッド・ディ・スティファーノの活躍で、「チャンピオンズ・カップ(後の「チャンピオンズ・リーグ」)」5連覇という偉業を成し遂げていた。

一方のバルサは、固有の言語であった「カタルーニャ語」の使用を禁止され、自治権も剥奪され、中央政府に対して抵抗する術を持っていなかった。しかしサッカーがそれを可能にした。したがって、「中央」の加護を受けていたと言われるレアル・マドリードに勝つことがカタルーニャ人の喜びにもなっていた (しかしながら、カタルーニャ出身選手の活躍というよりは外国人選手の活躍の方がどちらかと言えば目立っていた)。こうして両チームの戦いは、よりエキサイトしていったのである。

フランコの死後、憲法によってカタルーニャ語は公用語としても保障され、また多様なスペインの文化を尊重しなければならないという規定も設けられた。しかし「あの頃」に弾圧された歴史は拭い去ることはできない。したがって、現在も「クラシコ」は、一種の「異文化圏戦争」の如く激しいものになっているのである。

ここで、マドリード・アウトーノマ大学を訪問していた芳郎と合流。午後からのトレド行きに備えて、ホテルに戻ることにした。

トレド訪問

午後からは学生全員でトレド (Toledo)へ。虎雄を除けば初めてマドリードから出るわけである。

バスガイドによれば、トレドはマドリードから1時間30分ほどかかる。マドリードをはじめて出るという妙なワクワクした気持ちもあった。マドリードドの西のはずれにはあるアトレティコ・マドリード (Atlético de Madrid) というサッカーチーム (「リーガ・エスパニョーラ」通算3位のチームである) のホームグラウンドである「ビセンテ・カルデロン・スタジアム (Estadio Vicente Calderón)」がある。午前中ぼくが訪れたレアル・マドリードと並んで、「マドリード・ダービー」を盛り上げてくれるチームである。

これを越えると、街っぽい景色から徐々に荒地へと景色が変わっていく。一本の道がピーっと真っ直ぐに延び、左右には山が立ち並ぶ。さすがヨーロッパの首都の中で一番高いところにあるだけのことはある。トレドは自然の要塞の地にあるということは旅行ガイドブックにも書いてあったが、やっぱり自分の目で見るのと写真で見るのとではやっぱり違うのではないかという期待もあった。

マドリードからトレドに向かう途中で面白いものを車窓から見た。それは巨大な黒い牛の看板。スペインでは景観を損なうような広告看板は禁止されているらしい。この「巨大の黒い牛の看板」は例外的に認められている看板なのだという。ではいったいどんな看板なのか!?と言うのがバスガイドから出題された。

(「牛肉屋さん」とか「闘牛場」という答えであるはずがないが、それ以外の答えはちょっと考えられないなぁ…。)

おそらく、この答えを知っている人以外は殆どの人がそのように思うであろう。この答えはワインのメーカー「オスボルネ」の看板。昔は「広告看板」らしく、看板に宣伝文句が書かれていたそうだが、現在は「運転者の注意を削ぐ」という理由で(ウソだろ!?と思ってしまうが…)、黒くしてしまったそうなのだ。

マドリードからトレドの間の景色はメセタが一面に広がっているだけで、街だとか建物だとかはあまり見ない。運送屋さんの事務所らしき建物や工場はいくつか見ることができたがそれ以外は本当に何もなかった。

車窓の景色は次第に山が中心になっていった。そして何かを上り始めたような感触がした。と同時に何やら古い寺院が見えてきた。どうやらトレドに着いたらしい。

トレドの街並み (撮影: 2000年3月25日)

トレドは、560年にゲルマン系の民族である「西ゴート族」が中心となって建国された「西ゴート王国」の首都となった。589年の宗教会議で国教をカトリックとすることで決定されて以来、トレドは宗教会議場となるとともに、スペイン・カトリックの大司教座が置かれることとなった。711年に北アフリカからイベリア半島にやってきたイスラム教徒によって「西ゴート王国」が滅ぼされた後は、異文化と信仰の自由に寛容であったイスラム教徒がトレドを支配した。この間にイスラムの文化と既存の文化が融合し、「アラブ化された人々」という意味を持つ「ムデハル」と呼ばれる人々がイスラム建築の特徴でもある、馬蹄形のアーチやアラベスク模様(アラビア風の唐草模様)と幾何学模様を取り入れた独自の「ムデハル様式」と呼ばれる建物が建つようになった。また、言葉もアラブ語とスペイン語の混じった「ムデハル語」が話されていた。

20000325トレド-カテドラル

トレドのカテドラル
(撮影: 2000年3月25日)

ところが、1085年にトレドが再びキリスト教徒(カスティーリャ王国)の手に渡ったとき、ローマ・カトリックから「ムデハル語」によるミサや礼拝が「異端」とされ、迫害を受けるようになった。それとともに、キリスト教の威信を周囲に示すかのように、巨大大聖堂を建築した。それが現在のカテドラル (Catedral)である。1227年にフェルナンド3世の時代に着工され、完成したのは1493年であった。フランス・ゴシック形式をもとにして作られた。現在においても彫刻・絵画などの宗教画が数多く展示されている。例えば、エル・グレコの「聖衣剥奪」やヴァン・ダイクの「聖家族」、ゴヤの「キリストの逮捕」などの名画である。

カテドラルの中の厳かな雰囲気を味わった後は、トレドの街を歩いた。トレドは中世ヨーロッパではおなじみの「城壁都市」だ。街の外にはタホ川 (Río Tajo) が流れ、川に沿うように壁を一面に作り、街の中も迷路のように道路が複雑に張り巡らされている。トレドは中世スペインの中心地であったせいか、その複雑さが尋常ではないらしい。ガイドさんの解説によると、一歩路地裏に入ると地元の人までもが迷子になるのだとか…。若干誇張されている感もあったが、その気持ちは分からないことはない。マドリードの旧市街を歩いていても地図を見れば何とか元のところには戻ってこられるが、トレドの場合は路地が細かすぎて、旅行者が持っていくようなガイドブックでは対応できないぐらいなのだ。

トレドの街を見るときに欠くことのできない建物の1つがアルカサルである。上の「トレドの街並み」の右の方にある四角い建物がアルカサルである。アルカサル (Alcázar)とは、スペイン語で「城」とか「砦」といった意味がある。スペインの主な都市には「アルカサル」と呼ばれる建物がたくさんある。ヒラルダの塔があることで有名なセビーリャの「アルカサル」や、虎雄が朝セゴビアで見てきた「アルカサル」などがスペインでも代表的なアルカサルである。トレドの「アルカサル」は、11世紀にトレドを再征服したアルフォンソ6世がこの地に要塞を築いたのが始まりで、16世紀前半にカルロス1世が王宮として改築したものが現在の原型を成しているのだという。その後、1701年から1714年にかけて勃発した「スペイン継承戦争」や1808年の「ナポレオンの放火」など、スペインの歴史に残る国内の大きな戦争の被害にも遭っている。その中でも特筆すべき戦争が、1936年の「スペイン内戦」である。反乱軍のモスカルド大佐の息子が共和国軍に人質に取られた事件・悲劇はあまりに有名である。現在、アルカサルは市民戦争博物館として内戦の惨劇を伝えている。

トレドから1561年にフェリーぺ2世によってマドリードに遷都が行われるまでは、トレドはスペインの中心地であった。しかしローマ・カトリックの中心の1つとしての地位や歴史は現在でも光り輝いている、そんな街である。

最終日の夜

夜はフラメンコショーを見て過ごした。

スペイン出国

2000年3月25日の午前10時40分過ぎ、KLM 1700便(機種;ボーイング737-800)でアムステルダム国際空港に向けて飛び立ち、日本への帰路についた。

ぼくたちにとってのこのスペイン旅行とは…。その答えは…。

スペイン研修旅行を終えて 伸太郎

スペインへの実質3日間しかいることのができなかった私だが、私はもう少しこの国にいてもいいと思った。私は初めての海外旅行ということもあり、いわゆる日本よりも治安が悪いということを気にしていたが、これも意識して行動すればよいことであり、やはり慣れれば心配のないことなのであろう。

ところで、みなさんは「スペイン」といえば、何を連想しますか?フラメンコですか?闘牛ですか?また、志摩スペイン村のテレビコマーシャルですか?最近、日本でラテンブームが起きているそうですが、スペインほど一定のイメージでステレオタイプできる国はないそうです。でも、私も少なからず以前はそのようなイメージしか持っていませんでした。先進国でもなく、日本との関係でもキリスト教を室町時代末期にスペイン人のフランシスコ=ザビエルが伝えた時、彼は初めて日本にきたスペイン人であり、鹿児島のベルナルドという洗礼を受けた日本人青年が、1554年に初めてスペインの土を踏みました。その後、天正慶長遣欧使節がスペインを訪れています。その頃、日本人の食べ物を日本人が真似て天ぷらができたそうです。日本料理「天ぷら」もスペイン語に由来しています。「オジヤ」という料理名もスペイン語から由来しています。鎖国時代を経て明治の文明開化の頃、日本は西洋文明を取り入れましたが、「太陽の没することなき帝国」だったスペインもヨーロッパ西方の小国となり、日本人の目はあまり向きませんでした。「世間に洋行する人は多いが、大抵科学の新しく研究せられている国へ往くので、西班牙(スペイン)へは足が向かない」とある文章のような状況でした。1992年のバルセローナオリンピック以後、スペインへの関心が高まり、1999年の年間観光客数は42万人にのぼると言われます。残念ながら、1998年にイベリア・スペイン航空が撤退したために、現在日本・スペインを結ぶ直行便はありませんが、約半日で行けます。スペイン以外で一番のフラメンコ愛好国が日本なのだそうですが、フラメンコの情熱の源泉は何でしょうか?

フラメンコの語源の一説として、アラビア語のフラーメンガ(逃亡奴隷)があります。フラメンコは18世紀末の南部のスペインアンダルシア地方のジプシーとアンダルシア地方の民族音楽や舞踊と容え合ってできたものです。情熱的な踊りの、その妖しい世界。愛する人、なかでも母親の死、自由の喪失、人生の束の間の喜び、そして逃れられない貧困への嘆きが詠嘆の叫び声をとおして歌われます。抑圧と迫害に苦しんだジプシーたちのフラメンコは彼ら抑圧された人々の一種の諦めを昇華させたものだといわれます。南部アンダルシアは大農地制度が残り、労働者たちは土地なき農民として抑圧された生活を強いられていました。農民たちはジプシーたちのフラメンコに共感を抱きました。その南部の農民たちが仕事を求めて、マドリードやバルセロナなどの大都市へ行ったとき、ジプシーたちのフラメンコに力強い理解を示し、それがスペインを代表するものへと成長を遂げました。フラメンコ人気もどこかジプシーのアジア的なもの、そして日本でいえば演歌的なものにつながるからなのではないでしょうか。タブラオ(フラメンコのショーを見せるナイトクラブ)で見るフラメンコはその空間の作り出す空気が私には快く感じられた。

スペインのどこへ行っても思ったことだが、芸術品がどこにでもある。日本のように複製品ではなく、本物である。芸術の国といわれるのもうなずける。

これを読んでいるみなさんに言っておきたいこととして、海外において日本人はいわゆる「お客様」である。スペインのスーパーマーケットでは、例えば、水は30ペセタ、ジュースは40ペセタで売られているのに、土産物屋では数倍の値段である。公共施設ではスペイン語か英語などしかないのに、商店にはなぜか日本語があった。また、スーパーマーケットに行った時に思ったのだが、日本のコンビニに行って、店員に

「こんにちは」

と言われてあなたはどうしますか?応える人は少ないでしょう。私はいつもの習慣で応えなかったら、少し変な風に見られてしまいました。スペインのホテルで私は外国人に静かにするように注意されたが、ここは日本ではないことを考えるべきではないか。遊びに来たのであっても、やはりそちらの国のルールは守らなければならない。私は、その生活習慣やスペイン人の考え方の違いをもっと考えてみたいと思う。

(参考文献;坂東省次「文化と歴史で学ぶスペイン語」(丸善ライブラリー))

スペイン研修旅行 執筆: 芳郎

4泊6日のスペイン研修旅行、初めての海外旅行ということもあって不安であったが、スペインに着くとその不安は驚きに変わった。日本とは異なる街並み、陽気なスペイン人、文化・慣習の違いといった様々なことが新鮮に感じられた。その中でも特に、スペインでは昼食を午後2時ぐらいから2時間ほどかけて食べ、昼間からワインやビールを飲むといった慣習には戸惑った。

4泊という短い期間ではあったが、市内観光で、スペイン広場、プエルダ・デル・ソル、王宮、プラド美術館を訪れ、研修として参議院、最高裁判所、憲法裁判所、法律事務所を見学し、質疑応答した。自由行動で、聖ソフィア美術館、アウトノーマ大学、トレドを観光した。内容の濃い研修旅行であった。

そして、スペインの法律事務所で働いていて、日本に留学経験のあるサルバドール氏との会食は、大変貴重な体験であった。

また、個人的にスペインで体験しておきたかったことが一つあった。それは、スペインのジントニックを飲むことである。スペインのものは日本のと比べて、ジンの量が多く、自分でトニックウォーターを混ぜるもので、アルコールは強かったが、とても美味しかった。スペインの夏は大変暑いそうで、その時に飲むと格別美味しいと先生からお聞きした。

最後に、スペイン旅行を終えて、普通の観光旅行では経験できないことができて、とてもよかったと思う。しかし、現地の人とのコミュニケーションが上手にとれなかったことが悔やまれる。もっと、スペイン語の勉強をして、卒業旅行に再び訪れようと考えている。

将、九変ノ利ニ通ゼザレバ、地形ヲ知ルトイエドモ、地ノ利ヲ得ルコト能ワズ  執筆: 虎雄 

ぼくがスペイン旅行に行くことを決定したのは、1999年の10月頃であった。しかし、スペインに飛び立つ頃のぼくの状況はというと、スペインの法律制度については、黒田清彦先生の「イベロ法」の授業で憲法や企業法(特に株式会社法)を学んできてはいるものの、スペイン語については全く習ったこともない、触れたこともないという状況にあり、「行くまでに勉強しよう!!」と10月には思ったものの、時間の都合でなかなかできなくて、結局”gracias”が言える程度しか語学力がないまま、スペインに赴くことになった。

結果、ぼくの不安は的中した。なんと、バラハス国際空港に立ち寄ったとき、のどが渇いて、コーラを買いに行ったものの、国際空港であるにもかかわらず英語が通じない上に、店員の話しているスペイン語が全く聞き取れなかった。その場はたまたま近くを通りかかった先生に助けていただいて、”gracias”とだけ言ってその場を立ち去った。この件で、改めて「語学力不足」を痛感して、自信を失った。

しかし、ぼくには人に負けない、人に誇れるものを持っている。それはものに対する「好奇心」だ。プラド美術館の作品も「好奇心」を持って作品に見とれていた。特に見ていて、関心が持てたのは、ゴヤの「カルロス4世の家族 (La Familia de Carlos Ⅳ)」だった。旅行ガイドブックで、どうもこの絵が引っかかったのだ。「統一感がない」と感じたからだった。しかしそれもそのはずで、一人一人をゴヤがスケッチして、それを組み合わせて描いた絵画だったということを初めて知った。この絵の隣には、カルロス4世をはじめ、ゴヤのスケッチした絵がいくつか並んでいた。

この「好奇心」という代物のパワーはそれだけにとどまらない。上院 (Senado)、最高裁判所 (Tribunal Supremo)や憲法裁判所 (Tribunal Constitucional)でもいくつもの質問を係員にして、黒田先生の「イベロ法」の授業では知りえない、その場にいなければ決して味わえない情緒を感じることができた。

ぼくがスペインに行って、一番「おもしろい」と感じたのは、「習慣の違い」、特に「時間的な習慣の違い」である。日本では、一般的に正午ごろから1時間というわずかな時間で食事休憩をとる。しかし、スペインでは午後2時ごろにようやく昼食を取り始めるのだが、驚くのはその時間になると、スーパーマーケットや百貨店等の大きな店を除き、多くの商店は店を閉じてしまうのである。お土産を買いたいと思っている観光者には時間がなくなるので、いたって迷惑な話だが、いざスペイン人とともに、スペイン人しかいないような店に入ってみると、これがとても快適なのである。しかもスペイン料理はとてもおいしい。最高の昼休みが過ごせる。日本に住んでいる我々にとって、昼休みに2時間も費やすという感覚は、少なくとも「午後の最初に大学の授業があるからさっさと昼飯を食わなきゃ…」と言っているぐらいなのだから、休日以外ではほとんど考えられない。しかしスペインではそれが普通なのである。だがもっと不思議なのは、日本で「のんびりした国民性なのか!」と思っていたぼくが、実に楽しく、とても充実した時間(とき)を、しかも何の違和感もなく過ごせてしまったのである。

他にもスペインの古都であるトレドを観光したり、フラメンコを見に行ったり、国立ソフィア王妃芸術センター (Museo Nacional Centro de Arte Reina Sofía)でピカソのゲルニカを観賞したりと、ぼくの「好奇心」をくすぶるものばかりがスペインにはたくさんあった。

ぼくがこのスペイン研修旅行に行って得た感想として、「体で感じて勉強すること」が如何に大切かということを学ぶことができた、ということが挙げられる。法律学の講義では、国会の制度を学んだり、裁判の手続きを学んだりする。しかし飽くまでそれは机の上で知識としてそれを吸収しているにすぎない。やはり、実際に国会ならば国会議事堂に、裁判の手続きを学ぶのならば裁判所に出向いて、「新しく得た理論や知識が現実にこんなふうに使われているんだなぁ!!」という感動が味わうことができる。ぼくはこの感覚がとても大事だということを実感した。我々は、大学受験や大学の期末試験、資格試験のような机の上の勉強を「勉強」だと思ってしまう。しかし、実際に物を見て、現場の人の話を聞いて、コミュニケーションをとって、現場の匂いを嗅ぎとって、その雰囲気を味わってみる、ぼくは学問で大事な要素として、五感を使うということを挙げたい。机の上の勉強は、列挙したうちの前2つについてはできないこともないが、あとの3つを机の上の勉強だけで具体化しようとするのは、とうていできない。五感をフルに使って学問をすると、学問がとても楽しく感じる。いやそれは学問に限ったことではない。人間の全ての生活の営みにも当てはまることなのではなかろうか。

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この旅行は、日頃の生活の「自分のあり方」を見直すいいきっかけとなった。



 

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