2000.03.23 (1) マドリード半日観光

朝食

倒れるように眠ったためか、翌日の目覚めは清々しかった。早速ぼくはホテルのレストランに朝食を食べに行った。ビュッフェ方式であった。ぼくはレストランに入るとき、先生の言葉を思い出していた。

「特にスペインでのビュッフェ方式はお腹を壊すから気をつけろよ。スペインの食事はおいしいから、あまり食べすぎるなよ!!」

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と。ぼくの経験ではビュッフェ方式の食事にはろくな思い出がない。大概、迷ってしまってあまり食べ物を取れないまま食事をとっておかわりをしようと思って時計を見たら、タイムリミット(食事時間の終了等)で結局満足に食べられなかったか、あるいは欲をかいてたくさん取ってしまって無理に全部食べてお腹を壊すか、そのどちらかしか経験がない。ぼくのようなオッチョコチョイな奴がハマル典型的なパターンなのかもしれないが、いずれにせよぼくにとってビュッフェ方式はいやだった。ぼくは朝食で先生のおっしゃる後者のようなことが本当に起こりうるのか?と疑った。

ぼくはそんなことを思いながら、トレイをとってまず一通り見て回った。

(おいしそうだな…… 匂いが違うよ。昨日の長旅の中のどこかで飲んだコーヒーのにおいとは全然違うやないか!!)

ぼくは喜んだ。食事のにおいだけで期待できると思った。

(!?)

ぼくははっと我に返った。いつの間にかトレイにはコッペパン3塊にフランスパン1塊、オレンジジュースにジャム、牛乳、チーズがのっていて、さらに口いっぱいにパンをすでに頬張っていた。ここでようやく自分が食いすぎていることに気が付いた。しかしこれが最高に美味い!!口の中にどんどん食べ物が吸い込まれていくのだ。ところがいつの間にやら動けなくなっていた。そんなことを朝から経験した。幸いにして、お腹を壊すということはなかったが…。

マドリード半日観光

今日の日程は、朝はマドリード市内観光。これは申し込んだツアに付いていたものである。午後からは上院見学である。ぼくを除いた虎雄たちはまさにスペイン語購読の授業で勉強した舞台を生で体験できるのである。ぼく以上にワクワクした気持ちで今日という日を迎えたに違いない。

午前9時30分に泊まっていたホテルを出発。まずはスペイン広場 (Plaza de España)に向かった。スペイン広場は、1930年に世界で最も素晴らしい文学作品と言われる「ドン・キ・ホーテ」の作者のセルバンテスを記念して作られた広場で、公園の中央にはセルバンテスの石像がドン・キーホーテの石像とサンチョ・パンサの石像を見下ろすように立っている。それらを北東方向に見ると(下の写真で言うと、後ろの大きなビル)、大きなビルが見える。それがEdificio España (スペイン・ビル)である。そして向かって左側に見えるのがTorre de Madrid (マドリード・タワー)だ。できた1948年当時には、ヨーロッパ最長のビルだったそうだ。公園には、日本人にとっては珍しいオリーブの並木がある(下の写真にも映っている)。

20000323スペイン広場

マドリードのスペイン広場
ドン・キ・ホーテ像の背後にはマドリードタワーがそびえ立つ

スペイン広場の近辺は王宮 (Palacio Real)、三越デパートそして今日午後から見学する上院 (Senado)がある。三越デパートでの買物タイムの後(ぼくは何も買っていないが…)、王宮と上院をバスの車窓から眺めながら次の訪問地であるプラド美術館に向かった。

プエルタ・デル・ソル (平成12年(2000年)3月23日)

プエルタ・デル・ソル
(平成12年(2000年)3月23日)

プラド美術館に向かう途中、市庁舎、マヨール広場 (Plaza Mayor)、マドリード市内で最大級の駅であるアトーチャ駅 (Estación de Atocha)、コロンブス(スペイン語ではコロンブスのことをコロンという)の記念碑が建っていたコロン広場 (Plaza de Colón)、プラド美術館のそばにあり、アルフォンソ12世の騎馬像が印象的なレティロ公園 (Parque del Retiro)、スペイン史においても、スペイン独立戦争が起こり、現在でもスペインの国道の0キロ地点である(日本でいえば「日本橋」)「プエルダ・デル・ソル (Puerta del Sol)」、広場の中心には2頭のライオンを引く戦車に乗ったシベーレスの大理石で造られた噴水があり、夏はとても涼しそうな雰囲気なシベーレス広場 (Plaza de Cibeles)、スペイン中央郵便局 (Palacio de Comunicaciones)やスペイン銀行 (Banco de España)を始めとして大企業の本社が多いマドリードの経済の中心街であるアルカラ通り (Calle de Alcalá) にあるアルカラ門 (Puerta de Alcalá) を見た。

20000323プラド美術館

プラド美術館正面

そして、ついに世界三大美術館の一つとも言われるあの「プラド美術館 (Museo del Prado)」であった。プラド美術館は、1785年に名君カルロス3世によって建設が始まったのだが、当初は自然科学博物館になる予定だったそうだ。これが、世界の名だたる美術館になったのは、1808年の「スペイン独立戦争」後にフェルナンド7世(彼は評判が悪い!!)とイサベル・デ・ブラガンサによって、スペイン王家の莫大な美術品を所蔵する美術館へと計画が変更になってからである。詳しく説明しよう。スペイン独立戦争時に、ナポレオン軍はスペイン各地で美術品の略奪を行なっていた。ナポレオンはパリに自分のコレクションによる美術館を作ろうという目論見があった。こういう状況を見たスペインの有力者は、芸術作品の国外流出を防ぐために、美術品を一手に集めようという構想が練られ、それがプラド美術館建設につながったということだそうだ。

プラド美術館が完成したのは1819年。建物は「新古典様式」で、シンプルな中にも気品が漂っている。

プラド美術館には「ゲルニカ」の絵で有名なピカソも少年期には毎日訪れて、有名な画家たちの絵画を観賞したと言われている。作品は、スペイン絵画の三大巨匠といわれるエル・グレコ、ゴヤ、ベラスケスのものをはじめ、スペイン王室との関係が深かったオランダ・フランドル、他にもルネサンス時代の巨匠、ラファエロ、ボッティチェリ、ティントレット、ベロネーゼなどイタリア絵画もたくさんある。プラド美術館には絵画が6000点以上、古典彫刻が400点以上存在するそうだ。

ぼくが思うに、プラド美術館には「大英博物館」と「ルーヴル美術館」と比べて5つの特徴があると思われる。

  1. 1日で回れないというほど広くない。のんびり見れば1日で全部見られる。
  2. 略奪品が基本的にはない。ほとんどの作品は王室の遺産相続と購入によって供給されている。
  3. 歴代王室画家たちの作品が他の2つと比べるとかなり多い。
  4. 王室の「好み」が展示品に影響されている。具体的にはフランドル派のリアリズムとヴェネツィア派の豊かな作品が多い。
  5. したがってコレクションの幅が広くない。

それから、日本の美術館と比べて決定的に違うのは料金の安さ。何と大人1人が入るのに500ペセータ (3ユーロ) しかかからない。スペイン訪問当時の対邦貨レートが「100ペセータ=60円」だったので、それで計算してみると、だいたい300円ぐらいにしかならないことに気付くだろう。多くの世界的な名作がたったの300円で見られるとは、本当にアンビリーバボーの世界だ。

ぼくたちは、ベラスケス、ゴヤ、ムリーリョという3つの入り口(ともに彼らの銅像も建っている)があるうちの、ゴヤの門から入場した。ぼくたちは「スペイン絵画」を中心に観賞した。

まずはエル・グレコ (El Greco)。本名は「ドメニコス・テオトコプーロス」という。「エル・グレコ」は、スペイン語で「ギリシア人」という意味だ。なぜなら、彼はギリシアのクレタ島で生まれたからだ。彼はイタリアに住んだあと、スペインのトレドにやってきた。トレドに移り住んだのは、ミケランジェロの「最後の審判」を厳しく批判したせいだという説もあるが、その理由は定かではない。プラド美術館にあるエル・グレコの作品の特徴は、宗教画が多いということ。あとはぼくの主観ではあるが、絵は暗い色を使っていて、輪郭がはっきりしている絵が多いように思える。プラド美術館にある主な作品と言えば、

  • 「受胎告知 (La Anunciación)」
  • 「聖三位一体 (La Trinidad)」
  • 「胸に手を置く騎士の肖像 (El Calballero de la Mano)」
  • 「羊飼いの礼拝 (La Adoración de los Pastores)」

などがあがる。どれも有名な作品だ。

続いて、17世紀を代表するスペインの王家画家であるディエゴ・ベラスケス (Diego Velazquez)の登場だ。彼はセビーリャ (Sevilla)というスペインの南部の都市に生まれた。彼は「王家画家」としてフェリペ4世に仕え、絵だけではなく、事務実務まで宮廷でこなしていたそうだ。

彼の作品の色使いは割りと明るい。その一方で彼は寡黙な男で、決して作品に自分を持ち込まなかったとか…。

彼の作品で忘れてならないのは、「ラス・メニナス (官女たち)」だ。世界美術史にその名を残す傑作だ。

ベラスケス「ラス・メニナス」

ベラスケス「ラス・メニナス」

「この作品はだれを描いているのか」

と言われれば、絵の真ん中にいるマルガリータ王女だと答える人が多いがそうではない。王家画家とは王様を描くために存在するのだ。特に、ベラスケスは当時複数いた王家画家の中で、唯一王様(フェリペ4世)の「顔」を描くことを許された画家である。あくまでフェリペ4世を描くためにベラスケスは絵を描いている。そうだとすれば、当のフェリペ4世はどこにいるのだろうか。奥の方にいる男性に注目してもらいたい。すぐ左隣には女性がいる。そうなのだ。その2人こそがフェリペ4世と王妃なのだ。さらに、彼らの視線に注目してもらいたい。彼らは手前にある「板」に注目している。ではこの「板」は何か。その板の正体は、何とキャンバスである。そして、キャンバスの隣にいる男がベラスケス本人である。なぜ描いている本人が絵の中にいるのか。実は、この絵はフェリペ4世夫妻の絵を描いているところを描いた絵なのである。ここからがまたすごい。ベラスケスは、キャンバスの横に鏡を置いて、鏡に映ったフェリペ4世夫妻の絵を描いていて(真横にいる人を正面から書くことはできないという理屈はお分かりになると思う)、その鏡に映っている姿を左右逆にして(鏡は左右が反対になるので)、「ラス・メニナス」という絵を描いているのである。もう頭の中がゴチャゴチャかもしれないが、要するに彼は絵を描く視点にまでこだわったのだ。彼の作品には、こういった「実験性」の強い作品が多くあるのだという。

彼の有名な作品をあげておくと、

  • 「ラス・メニナス(官女たち) (Las Meninas)」
  • 「織女たち (Las Hilanderas)」
  • 「酔っ払いたち (Los Borrachos)」
  • 「ブレダの開城 (La Rendición de Breda)」

などがある。どんな絵にの中にもドラマがあるが、彼の絵の中にあるドラマはぼくたちを関心の渦に巻き込むこと間違いなしだ!!

本当はもっと紹介したいが、これで最後にしよう。最後に紹介するのは、18世紀を代表する王家画家であるフランシスコ・デ・ゴヤ (Francisco de Goya)だ。ゴヤが王室画家になった18世紀は、スペインの王室はハプスブルク家からブルボン家に変わったという大きな転換期を迎えていた。ゴヤが生まれたのは、フェルナンド4世が王位に就いた1746年だった。出身は、スペイン東部のアラゴン地方のサラゴサ (Zaragoza)という都市だ。ゴヤは好奇心旺盛な人物であったらしい。彼が46歳の時に病気が原因で聴覚を失ってしまい、そこから彼の作風が変わったという人が多い。しかし、それは「画風の転換」ではなく、「洞察力が増した」といった方がよい。彼が聴覚を失ってから描いた絵には傑作と呼ばれるものが多い。

ゴヤ作「カルロス4世の家族」

ぼくが彼の絵の中で好きな絵は、「カルロス4世の家族 (La Familia de Carlos Ⅳ)」だ。この絵は、1799年に描かれた絵である。絵の主人公であるカルロス4世は、狩猟と時計いじりには大変凝っていたそうだが、政治に関しては無能であったらしい。一方の王妃であるマリア・ルイサは、大変ワガママな女性であったとか…。そんな王室を見ていた(?)ゴヤは、王様であるカルロス4世よりも王妃マリアの方を堂々と描いたのだ。王室画家であれば、「理想の夫婦」というのか、いわゆる「イイ夫婦」であるところを描くであろう。しかしこの絵は違うのだ。ゴヤが王室を風刺して描いたかどうかは定かではないが、王妃の方が堂々として見えるのは間違いない。この絵が面白いのは、後ろの方にゴヤ自身もいるということだ。彼はベラスケスの「ラス・メニナス(官女たち) (Las Meninas)」を意識してこの絵を描いたとも言われている。

18世紀末から19世紀初めの王室の愛憎劇

18世紀末から19世紀初めの王室の愛憎劇

「カルロス4世の家族 (La Familia de Carlos Ⅳ)」の絵の周りには、カルロス4世を始めとして、「カルロス4世の家族 (La Familia de Carlos Ⅳ)」に描かれている多くの人物の肖像画が展示されている。これは、「カルロス4世の家族 (La Familia de Carlos Ⅳ)」を描くためのスケッチだったとか…。この絵は、登場人物一人一人をスケッチして、それを組み合わせて描いた絵画なのだ。

裸のマハと着衣のマハ

裸のマハと着衣のマハ

続いては、「裸のマハ (La Maja Desnuda)」と「着衣のマハ (La Maja Vestida)」だ。この絵には謎がある。当時のスペインは保守的な社会と言われ、人間のヌードを描くということはもってのほかというような社会であった中で、ゴヤは「裸のマハ (La Maja Desnuda)」を描いた。「マハ」とは、当時のシティライフを自由気ままに楽しんだ粋な下町姐のことである。ゴヤはいったいどういう理由で誰を描いたのだろうか。「裸のマハ (La Maja Desnuda)」と「着衣のマハ (La Maja Vestida)」の所有者であるゴドイ宰相のかつての愛人アルバ女公爵なのか、愛人ペピータなのだろうか、説は様々であるが謎に満ちた絵画である。ちなみに、この絵はゴドイがカルロス4世の息子のフェルナンド7世によって失脚させられた後に彼の宮殿からこの2つの絵が出てきたのであるが、生身の女性の裸をリアルに描いたという咎で異端審問にかけられた。絵は100年弱プラド美術館の地下に幽閉され、再び公衆の前に現れたのは1901年のことであった。

こういった無茶苦茶な王室で、皇太子であったフェルナンド7世は、国内の保守派と共にカルロス4世に対してクーデターを起こした。フェルナンド7世は王位に就くものの、カルロス4世が王位の復権を宣言。ここで国内で対立が起こる。2人の国王が同時に存在する形になってしまった。

ゴヤ作「1808年5月2日エジプト人親衛隊との戦闘」

ゴヤ作「1808年5月2日エジプト人親衛隊との戦闘」

スペイン国内の混乱に乗じて、フランス軍がスペインに侵入。最終的にはカルロス4世とフェルナンド7世はフランスに幽閉され、ナポレオンの兄であるジョセフがホセ1世としてスペイン国王に即位した。もちろんこれはナポレオンが行なったことだ。これに怒ったスペイン国民はとうとう一揆を起こす。世に言う「スペイン独立戦争」の始まりだ。始まった地は、先ほど回ったプエルダ・デル・ソルだ。

ゴヤはこの時の庶民の蜂起の絵を見事に描いている。それが「5月2日 (El Dos de Mayo)」であるとか「モンクロアの銃殺 (Los Fusilamientos de la Moncloa)」といった作品だ。いずれも、ナポレオン軍の残虐な弾圧を描いている。

「スペイン独立戦争」が集結し、国内では初の近代憲法 (通称「カディス憲法 (La Constitución de Cádiz)」という)が国内の進歩派によって制定されたが、国内は保守派との対立が残っており、ここからスペインの長い保守派と進歩派の対立の時代がはじまる。

ゴヤは、1814年に再び即位したフェルナンド7世の「自由主義者の弾圧政策」により、力を失い、やがて王室画家を辞することになった。その一方で彼は、生涯最大の傑作とも言われるいわゆる「黒い絵」の連作を描き始める。これは人によって好みが分かれるところだが、ぼくは「黒い絵」の連作ほど、人間の内面にある苦悩や葛藤の姿を露骨に描いた絵はないと思う。実に見事な絵だと思う。

それでは、最後にゴヤの代表作を選りすぐってまとめて紹介したい。

  • 「カルロス4世の家族 (La Familia de Carlos Ⅳ)」
  • 「裸のマハ (La Maja Desnuda)」
  • 「着衣のマハ (La Maja Vestida)」
  • 「5月2日 (El Dos de Mayo)」
  • 「モンクロアの銃殺 (Los Fusilamientos de la Moncloa)」
  • 「わが子を喰うサチュルヌス (Saturno devorando a su hijo)」
  • 「魔女の宴 (Aquelarre)」

などだ。

ぼくはこれらの有名な絵を見ることで、スペインの歴史を学ぶことができた。なるほど、このような形で歴史を学ぶことができるのか!!新たな「歴史の学習方法」の発見をここでした。ぼくは高校時代は日本史を専攻していたが、学校の日本史の授業で、「美術史の方面から歴史を学ぶ」ということはほとんどなかった、いや全くなかったといってもいい。絵画に限らず、「文化史」は歴史の授業の中では単に作品名と作者(筆者)が列挙されているものを丸暗記して試験に挑んだことを記憶している。これでは芸術も何もあったものではない。「作品名と作者(筆者)の列挙」で、いったい作品のよさの何が分かるというのか。なぜ何某という作品が生まれたのか?というところまで立ち入ってはくれない。ぼくの中で「文化史」とは大嫌いな丸暗記の対象でしかなかった。しかし、この旅行によって、「絵画」を、単に「美術作品」としてだけでなく、「歴史」という角度から見られるようになったのは実に嬉しいことだ。他にも違う角度で芸術作品というのを見ることができるかもしれない。そんなワクワクした気持ちがぼくの中で起こった。

あと、美術館で目に付いたのは小学生の姿。もちろんスペイン人の全ての小学生がプラド美術館の作品を学校で見学に来ているわけではないが、この子たちは本当に幸せだと思う。多感な小さな頃からこんな素晴らしい絵を見られるのだから…。もっといえば、彼らは日常で芸術を見ている。統一された街空間に街のいたるところにある歴史的建造物や芸術作品。駅の名前や通りの名前に至るまで芸術家の名前がついている。「ベラスケス」というメトロ(地下鉄)の駅の存在するし、「ベラスケス通り」という名前の通りも存在する。日本に「岡倉天心駅」などといった駅名は存在するだろうか。ひょっとして、岡倉天心という人物を知らないという人もいるかもしれない…。そうだとしたら情けない…。プラド美術館内に限らず、マドリード全体が芸術という感じだ。最新のテクノロジーを前面に出した都市というのは廃れるのもはやい。だから、新陳代謝を激しく繰り返していないと街はすぐに廃れてしまう。「ドッグ・イヤー」だと言われる昨今は特にその傾向が強い。だからこそ長年にわたって守られてきた人々の知恵の上に立った最新テクノロジーというのはより高い確率で生き残るはずである。マドリードの街からはそういう空気が感じられる。何世紀も前からの建物が現役で使われているからである。しかも最新の部分は最新なのである。ぼくはこういう街が好きなのである。

しかし、ぼくがこのツアで見たものは、まだ水族館の中でマドリード市内という名の魚を観ていたような気がしないでもなかった。それがぼくの率直な感想だ。でも、もしこれがなければある程度の土地感を掴むことすらできなかったのかもしれない。だから、それなりにこの市内観光に参加した意義はあったと思う。

昼食 - サルバドール弁護士と共に…

予定よりも20分ぐらい遅れて黒田先生と合流し、昼食を取るためにタクシーでレストランに向かった。昼食は、以前南山大学の黒田ゼミに在籍されていて、スペインでは弁護士のサルバドール氏と食事をとるために、スペイン料理のレストランに入った。ぼくは実は日本でもスペイン料理を食べたことがなかった。

(いきなり本場だよ!!)

胸が高鳴った。しかしレストランに入ってびっくりしたことがあった。周りのスペイン人はみんなワインを飲んでいた。

(えっ、昼間から!?)

日本で昼間からお酒を飲むのことが一般化している人といえば「オハラ・ショウスケ」さんになるだろうが、スペイン人は当たり前に飲んでいる。まずぼくはこれに圧倒された。あともう一つ驚くのが食事の量。これは有名な話だが、スペインは「昼飯」が「メイン」である。だいたい昼の2時ぐらいになるとその辺の町の小さな商店街はほぼ全部閉まってしまう。そして昼飯をみんなで食べる。最近でこそちょっとした大きなスーパーや百貨店レベルの店はその時間になっても店が閉まるということはないらしいが、午後2時になるとちょっとした店であればシャッターが閉まってしまう。最近は次第に昼間に閉店時間を設ける店は少なくなっているようではあるが、店が昼間に閉まるという文化が存在するのは驚きである。日本で昼間から町中のシャッターが閉められるのを見られるのは、商店街休業日か盆正月ぐらいだろう。いくら知っていることとはいえ、最初は黒田先生以外の人間は目を丸くしていた。

さて肝心なスペイン料理なのだが、今日食べている料理店は伝統的なカスティーリャ料理が出てくる店 (TABERNA DE LA DANIELA)。カスティーリャ料理の代表的なメニューは、Cocido Madrireño (コシード・マドリレーニョ)と呼ばれる煮込み料理。伝統的には、生ハムの骨や豚の脂身や血のソーセージや牛腿肉や骨付き鶏肉やヒヨコ豆やジャガイモなどを壺に入れて炭火でコトコト煮て、最後にニンニク油で炒めたキャベツをどっさり載せたようなもの。とにかく腹にたまる料理だが、美味しいので余計に食が進んでしまう。よほど理性的に食べないと太ること間違いなし!!

ぼくたちはサルバードル氏と話をした。

「なぜ日本に来られて法律の勉強をしようと思ったのですか?」

「日本の天皇制とスペインの君主制の違いを調べるために日本に来ました。」

他にも日本のどこに行ったことがあるかなど、とても流暢な日本語でサルバドールさんはぼくたちに話し掛けてくれた。

話が盛り上がっている中で、さりげなく時計を見てみた。

(んん……?)

時計はすでに午後4時30分を越えていた。この時間にはすでに上院に到着していなければならない時間だ。みんな話に夢中になっていた。完全に時間を忘れ、自分たちが時計を持っていることすら忘れていた。しかしテーブルの上の料理はまだ残っている。ぼくは残念で仕方がなかった。ぼくは飯を残すことがとても嫌いである。病気で食べられないとき以外は、よっぽどまずいものでないかぎり、どれだけ時間をかけても残さず食べる。さらにぼくにとって不幸だったのは、ここのレストランの食事は格別においしかったことだ。まるで、「いいなぁ…」と思った女の子を通行人の流れがあまりにもありすぎてナンパできずにその場を通り過ぎていくような気分だ。ぼくたちは仕方なく席を立った。しかしである、ぼくたちを引き止める人がいた。店のウェイトレスさんだった。彼女はぼくたちの前に来て、とても強いお酒を2種類も持ってきた。サービスというやつである。せっかく持ってきてもらったのに、受けないわけにも行かない。ぼくたちはそれぞれの種類のお酒を一口ずつ飲んだ。

(キツイ….)

ぼくは決してお酒が強い方ではない。残りの4人はとてもお酒が強い。彼らは割りと平気な顔をしていた。

(こんなお酒を昼間っから飲んで、上院できちんと話が訊けるか?)

不安になった。

結局上院に到着したのは、予定よりも30分以上も遅かったのであった。


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